※「靴音を溶かして」の続き
「一泊で良かったのかい?」
ソウリュウシティのポケモンセンターで、彼は徐にそう尋ねてくれた。
私の生まれ育ったこの土地はとても広く、思い出の場所だって沢山ある。それらはとても一日では回りきれないものだったが、しかしもう十分だと感じていた。
「はい」
そっか、と彼は笑いながら、手元のマグカップをくるくると回す。
火傷しそうに熱いコーヒーを、吹きかけた息で少しずつ冷やしながら口に運ぶ。
カロスの研究所で一仕事終えた時に、よく博士が楽しんでいる飲み方だった。
「次はセイガイハの海が見たいな」
「!」
「確かあそこにはマリンチューブもあるよね?」
そう言ってこちらを見た彼は、その笑顔のまま首を傾げた。
私はどんな顔をしていたのだろう。
「どうしたの?」
「……私とですか?」
「酷いなあ。もしかして、君には他に誰か居るのかな?」
そんなことありません、と否定しながら、私は息が詰まりそうな程の幸せを感じていた。
当たり前のように交わされる「次」の約束が、彼にとって当たり前になってしまっているというその事実に言葉を失った。
そしてそれに驚いてしまった自分は、随分と薄情な人間なのではないかとも思った。
私は彼を信じることが出来なかったのだろうか。……否、いつものあの飄々とした態度から信頼を見出そうというのも無理な話だ。
普段なら彼は絶対にこんなことを言わない。研究所ではこんなストレートな物言いをしたりしない。
そんな余裕のある飄々とした態度が、二人だけの時は少しだけ変わるらしいことを、私はようやく解りはじめていた。
夜に交わす電話、旅行での会話、それらには毒気がなかった。少なくとも解りにくい言葉を使ったりはしなかった。
かといって、カロスの言葉に慣れていなかった時のような、ゆっくりとした優しい言葉遣いでもなかった。
どれが本当の彼なのだろうか。それを私はまだ把握しかねていたが、少なくとも今の彼は嫌いではなかった。
私と同じくらいの不器用さと想いとが、私の心を大きく揺らした、それらは愛しいと微笑むに十分だった。
「カロスには海に面した町が少ないから、ああいうところに憧れちゃうんだよね」
子供みたいでごめんね。と笑う彼の隣に座った。
私が子供だから、丁度良いかもしれませんよ。そんな戯言を彼は喜んでくれた。
本当だね、丁度良いね、なんて、向こうでは絶対に言ってはくれない。
だからこその愛おしさと、この旅行を特別に思う気持ちがそこにあった。
「ねえシェリー、イッシュはとても素敵なところだね」
「……そう、ですか?気に入って頂けたのなら良かったです」
そんなことを彼は唐突に言った。
今日は彼の学会が終わった後、ポケモンに乗ってセッカシティにあるリュウラセンの塔に向かった。
そこから東に歩いて向かい、アールナインで買い物をし、ソウリュウシティにやって来た。
明日はヒウンシティをもう一度観光してからカロスに帰る予定だった。
……私個人の意見からすれば、それだけの場所を見てイッシュの何処に魅力を感じてくれたのかよく解らない。
スカイアローブリッジやセイガイハの海、自然の残るヤグルマの森やサンギ牧場、エンターテイメントの町であるライモンシティ。
それらを見ての発言なら納得がいくのだが、今日はそれ程までに素敵だと言わしめる場所を巡っていない気がしていた。
しかし彼は頷いて「うん、本当に素敵だね」と繰り返す。
「此処が君の生まれ育った場所なんだね」
その言葉で、私の見ているイッシュと、彼の見ているイッシュが同じであることを知る。
彼は観光地としてのイッシュではなく、私の生まれ故郷であるイッシュを見ていて、彼が彼の知らない「思い出」を乗算してこの土地を見てくれていたのだと知る。
「此処に帰りたいとは思わない?」
それはいずれ聞かれることだと思っていた。
それに似た質問は、電話や研究所での会話でも何度かなされてきたが、今ここで問われるその質問の重さを私は理解していた。
彼は臆病らしい。それは大人だけが持ち得る性質で、私もいずれそうなってしまうのかもしれなかった。
だから子供である私は、彼のように色んなことを案じることが出来ない私は、そんな彼の憂いをいつだって笑って一掃することが出来ると信じていた。
「私も同じだって、どうして解ってくれないんですか?」
それと同じ言葉を私はいつかの夜にも紡いだが、あの時よりも心はただ穏やかだった。
「私が見るカロスは、ただの新しい地方じゃありません。博士が生まれ育った土地で、そんな大切な人を思って過ごした場所です」
私も彼と同じように、カロスに彼の面影を重ねて見ているのだ。カロスには両手で抱えきれない程の記憶が詰まっている。
あの美しい地方から立ち去ることなど考えられなかった。
イッシュが恋しい。その思いに嘘はない。しかしこうして戻ってくることが出来る。
此処での思い出は綺麗なままそこに居てくれて、しかも再び訪れた時には色鮮やかに変化しさえもするのだ。
それは他でもない、彼のおかげだ。
「……そっか」
彼は笑って私の頭を撫でた。
もうマグカップの中は空になっていた。
「でも、たまに懐かしくなるから、その時はまた、一緒に来てくれますか?」
「勿論だよ。次はセイガイハの海を案内してね」
胸を占めた温かい安堵と喜びに身を任せ、私はソファに身体を沈めた。
お土産はどうしましょうか。ヒウンアイスは溶けちゃうよね。アールナインで買っておけば良かったですね。
あ、確かヒウンシティの船でいかりまんじゅうが貰えるんじゃなかったっけ。博士、それはジョウトのお土産ですよ。
そんな他愛もない話を重ねていた。瞼は次第に重くなっていった。もう明日が怖くない。この確信以上に幸せなことを私は知らない。
2013.11.27