連なる涙が糸紡ぐ

※雨企画、「その涙で何かが変わると」の少女視点であり、続きでもある

ミアレの街を、ローラーシューズで駆けていた。
何処に向かうべきかなどということを考える暇すらなかった。とにかく遠くへと走らなければいけなかった。
何故なら私は、私を知っている人と顔を合わせてしまったからだ。そして無礼極まりないことに、踵を返して逃げ出してしまったからだ。

ああ、きっとあの人は怒っているのだろう。私はそんなことを思いながらアスファルトを強く蹴った。
あの立派な人には嫌われたくないと思っていたけれど、そんな願いすらも私の思い上がりだったのかもしれない。
私のような人間が、彼に嫌われたくないと願うなんて分不相応だったのかもしれない。
彼が、私のような頭の悪い子供を気に掛けてくれているのは、私がメガリングを身に付けているからだ。このリングが私を「選ばれし者」にしてくれただけのことなのだ。
私には何の力もない。私は彼の隣に立つだけで、恐ろしさに身が竦み、居ても立っても居られなくなって逃げ出してしまうような、臆病で矮小な人間なのに。
そうして自分を卑下して落ち込むことしかできない、どうしようもなく卑屈な人間なのに。

シェリー!」

ああ、それなのにどうして、彼はこんな私を追い掛けてきたのだろう。
どうしてそんなにも凛としたバリトンで、あろうことかこんな私の名前を呼ぶのだろう。

私は思わず立ち止まってしまった。びくりと跳ねた肩を抱き、きょろきょろと当たりを見渡せば、薄暗い路地裏が目に飛び込んできた。
震える足を叱咤して、そこへと身を投げるようにして入った。彼に見られていると解っていた。解っていて、入ったのだ。
袋小路になっているその最奥にうずくまり、嗚咽を噛み殺した。
惨めだと思った。悲しかった。恥ずかしかった。けれど仕方ない、仕方ないのだ。私はこうすることしかできないのだから。

普通なら、「シェリー」と私の名前を呼ばれた段階で振り向き、挨拶の一つくらいしなければいけなかったのだ。
そうして彼の難しい話に適当な相槌を打って、その後で笑顔で手を振り別れてしまえばよかったのだ。そうすることが最も適切なコミュニケーションであると信じていた。
相手を自分のところへ踏み込ませず、自分も相手に踏み込みたいと願わず、少しだけ時間を共有して、少しだけの喜びと楽しさとを噛み締めていればよかったのだ。
けれど私にはそれができなかった。どうしても、できなかったのだ。
もっとも、それは彼に限ったことではなかったのだけれど。この美しすぎるカロスという土地において、私の居場所など何処にもなかったのだけれど。

私はカロスの人間になれない。けれどイッシュの人間だと告白することもできない。
カロスの言葉を使いこなせない自分を知られたくない。頭の悪い自分を馬鹿にされたくない。
それならまだ、臆病で引っ込み思案な女の子の方が、救いがあるでしょう?カロスの言葉を上手く話せない自分を隠していられるでしょう?
そうしてカロスのことを何も理解できないまま、あの人のことを何も読み取れないまま、私の旅が終わってしまったとしても、それは仕方のないことでしょう?
だって私は頭の悪い人間だから。カロスに溶け込むこともできず、言葉を覚える努力をすることもできない、臆病で卑屈な人間だから。
私が、悪いから。

だから、追い掛けて来ないでほしかった。

ミアレの街は賑やかだが、路地裏は驚く程に閑散としていて、陽の光も入らないこの場所は薄暗く、人の気配が全くなかった。
それ故に、この空間に入り、近付いてくる人間の足音が、より鋭い音をもってして私の鼓膜を抉った。
規則正しい靴音は、確実に私の方へと近付いてきていた。できることなら耳を塞ぎたいと思った。けれど私の両手は、勝手に溢れてくる涙を拭うので精一杯だったのだ。
だから私は、彼の足音を拒むことも、彼の声音を遮ることもできなかった。

やがて彼は私を見つけたのか、規則正しく鳴らしていた靴音を荒立てて駆けて来る。
おそらく、私の目線に屈んでくれているのだろう。彼の声が思ったよりも低い位置から聞こえてきた。

「どうしました、気分でも悪いのですか」

この、あまりにも立派な男性に、アスファルトに身を屈ませるという恐れ多いことをさせてしまった自分が恐ろしくて、私は思わず首を振ってしまった。
気分が悪いことにしておけばよかったのだと、後になって思う。
そうすれば彼は何も言わずに私をポケモンセンターの宿に連れていってくれただろうし、そこで彼と別れることだってできた筈だ。
それなのに、愚かにも正直な私は、否定の意を示してしまった。

「ごめんなさい……」

カロスの言葉に慣れることのできなかった私が、一番に使いこなした言葉がこれだった。
謝罪ばかりを流暢に紡ぐようになっていく私が惨めだった。あまりにも惨めで、悲しくなった。私は、惨めな私が、嫌いだ。

「わたしが嫌いですか」

彼が徐に紡いだその言葉に、私はゆっくりと返事をする。
貴方が嫌いなわけではなく、貴方と話をすることが苦手なのだと。けれどそれは貴方に限ったことではなくて、私が上手く話せないのがいけないのだと。
私は、会話することが極端に苦手なのだと。カロスの言葉を使いこなせない私を、みっともない私を、誰かの視線の下に晒し続けることが耐えられなくて、逃げ出したのだと。
私はゆっくりと顔を上げた。この路地裏は薄暗いから、きっと私の涙の跡は見抜かれない筈だと信じていた。
彼の射るような目が私を気遣うように細められていることに気付いた私は、慌てたように「ごめんなさい」と繰り返した。

「謝らなくていい」

けれど彼はそんな優しい一言で、私が使いこなせる唯一の言葉を奪う。
お願いだからそんなことを言わないでほしい。私の言葉を否定しないでほしい。だって私はこれしか紡ぐことができないのだから。
私は謝罪で己を固めることしかできない、惨めでみっともない人間なのだから。

私は耐えられなくなって、再びぼろぼろと涙を零した。
誰かの前で泣くことへの恥ずかしさは、この路地裏の暗闇が緩和してくれた。
今なら私がどんなに泣いても、どんなにみっともない顔をしていても、彼にはっきりと見られることはないと確信していたからだ。
私はこうした暗がりの中でしか自己を表出させることのできない、臆病で矮小な人間だった。

けれど私の涙は、傍から見れば彼の「謝らなくていい」という言葉が引き出したものだと捉えられてしまうようで、現に彼も少しだけ驚いた様子を見せた。
「何故泣いているのですか」という問いに、私は何故か「足が痛いからです」と、この場に悉く似合わない冗談を紡いだ。
おかしなことを言っているという自覚はあったけれど、私はその言葉を選んだ。「貴方が私の使いこなせる唯一の言葉を奪うから」と告げるよりは角が立たない気がしたのだ。

「では、抱き上げて差し上げましょうか」

彼は私の冗談に付き合ってくれる姿勢を見せた。私は真面目そうな彼のそうした言葉に息を飲み、しかし、強張っていた頬を少しだけ綻ばせて微笑むことができた。
アスファルトにぽたぽたと涙が染みを落としていた。私は息を吸い込んで、一思いに紡いだ。

「私が、泣き喚いてもいいのなら」

すると、彼は微笑んで私の頭をそっと撫でてくれた。それから私の膝と肩に腕を回し、本当に抱き上げてくれた。
重くはないだろうか、とか、彼の立派なスーツがしわになってしまうのでは、とか、そうしたことを考える余裕は既に失われていた。
あやすように抱きかかえらえた私は、彼の胸に縋り付き、声を上げて泣いた。

ああ、なんてみっともないのだろう。そう思いながら、しかし私の涙は止まらなかった。
けれどこの人は泣き喚いてもいいと言ってくれた。だからこそ私を抱き上げたのであって、私は今なら大声で泣いてもいいのだと思えた。
足が痛いから、などという冗談を、彼が見抜けなかったとは思えない。この頭のいい人はきっと全て解っている。
私がカロスでの旅に苦しんでいることも、人と話すことができずにいることも、何をするにも不安で、怖くて、いつも怯えていることも、全て、全て解っている。
それなら、いいんじゃないかなと思えた。どのみちこの路地裏は暗くて、私達の他には人も居なくて、私の嗚咽は彼にしか聞かれないのだから。

「大丈夫ですよシェリー、きっと君の生き易い世界が来る」

私の涙はあまりにもみっともなくて、そのまま泣き続けていれば私がその液体に窒息してしまいそうにも思えた。

そして今、彼の涙はあまりにも美しく、そのまま透き通った糸を紡いでしまいそうに見えた。
白く冷たい床に、その透明な美しい糸は落ち、小さく弾けて消えていった。私は息を飲んだ。動くことができなかった。

「守る強さか……。だが君は何を守るのだ?今日よりも悪くなる明日か?」

「フラダリさん、」

「君は、君が守った明日に不安なく生きることができるのか?」

その言葉に私は首を振った。眉をひそめた彼に、私は紡ぐ言葉を持たなかった。紡ぐべき謝罪の言葉はあの日、彼に奪われてしまっていたからだ。
貴方の差し出す世界を受け取ることができなくてごめんなさい。生き易い世界を望めなくてごめんなさい。貴方を選べなくて、ごめんなさい。
私は、私の嫌いな、惨めでみっともない私のままで、生きていく。

射るような目で私を見下ろしていた彼が一瞬だけ、本当に一瞬だけ、悲しそうに目を細めて微笑んだ気がして、私は息を飲む。

2015.7.11
素敵なタイトルのご紹介、ありがとうございます!

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