その涙で何かが変わると

フラダリは後悔していた。顔見知りだからといって迂闊に声を掛けたのがいけなかったのだ。
ミアレシティのローズ広場にあるポケモンセンターから出て来た彼女に声を掛けたのは全くの気紛れだった。
話し掛けても話し掛けなくとも、どちらでも良かったのだ。
何故ならもう既にフラダリが彼女に伝えるべきことは無くなっていたからだ。
自分は言いたいことをあのカフェで彼女に話した。彼女は何も言わずにただ聞いてくれた。お礼を言ってその場を後にした。それで終わりだと思っていた。
しかし広いミアレの町で、またこうして顔を合わせた偶然に便乗してみようと思ったのだ。

しかし予想もしていなかったことが起きた。こちらが声を掛けるより先に彼女は全速力で駆け出したのだ。
ローラーシューズを活用し、綺麗に舗装されたミアレの通りを滑るように走っていく。
それをただ見送れば良かったのだ。忙しい子供だと笑ってやれば良かったのだ。
しかし声を掛けようと思っていた手前、その機会を奪われてしまうと謎の喪失感が胸の中を満たすものである。
反射的にフラダリは走っていた。彼女を見失わないように全力で走った。

しかし相手はローラーシューズを履いている。距離が引き離されるのは目に見えていた。
ゲートに入るでもなく、ただ彼女は広い通りを走り続けていた。
その違和感に早く気付けば良かったのに、走り疲れた彼は正常な思考を奪われていたらしい。

シェリー!」

ついに人目も憚らずフラダリは彼女の名前を呼んだ。
その拍子に、遠くを走っていた彼女の肩が跳ねた。きょろきょろと怯えたように辺りを見渡し、そのグレーの目にフラダリの姿を捉える。
彼女はその場に立ち止まって手を振るでも、こちらに歩いてくるでもなく、近くにあった路地にローラーシューズで駆け込んだのだ。

「……」

ああ、自分を避けていたのだ。足を止め、フラダリはようやくその結論に達した。
あの不自然な加速はそういうことだったのだ。脇目も振らずにミアレの外周をただぐるぐると回っていたのはそういうことだったのだ。
それが解った今、フラダリがするべきことは他でもない、彼女の後を追うことを辞めてこの通りから立ち去ることである筈だった。
しかしその理性に反して彼の足は、彼女が逃げ込んだ路地裏に引き寄せられた。

ミアレは賑やかな町だが、好んでこんな路地裏にやって来るような人間はそう居ない。
喧騒から切り離されたかのような静かな空間に、フラダリの靴音は大きく響いた。
やがてその最奥にうずくまる彼女の姿を捉え、フラダリは慌てて駆け寄った。
駆け寄ってどうする、彼女は自分を避けていたのだ。自分が傍に立ったところで何が出来るというのだ。
そう思いながら、しかし足は止まってはくれなかった。

「どうしました、気分でも悪いのですか」

組んだ腕に伏せられた頭が小さく振られた。
やがてか細く発せられた言葉を、幸いにもフラダリは聞き逃さなかった。

「ごめんなさい……」

何を?フラダリは当惑した。この少女は何に謝っているのだろう。
自分を見て逃げ出したことに関してか、先程の問い掛けにちゃんとした答えを返せなかったことについてか、あるいは今、自分と目を合わせないことをか。
解らないことが多過ぎると判断したフラダリは、一つずつこの少女から情報を集めることにした。

「わたしが嫌いですか」

「いいえ」

「わたしと話をするのは苦手ですか」

「……少し」

でも、と小さく付け足された言葉の続きをフラダリは忍耐強く待った。
少女は俯いたままピタリとその動きを止め、ゆっくりと一音ずつ紡いだ。

「私が、上手く話せないからです」

「……会話が苦手なのですか」

「……ごめんなさい」

ああ成る程。フラダリは納得した。
いつも少女は萎縮していた。極度の緊張により身体は強張っていた。
話を聞いてくれたお礼と称して渡したささやかなプレゼントを受け取るその手は震えていた。
少女はいつも何かに怯えていた。
それは自分に対するものだと思っていたがどうやら違うらしい。少女は全てに怯えていた。
そして自分は、その「全て」に括られた一人の登場人物に過ぎないらしい。

「謝らなくていい」

その言葉が、どういう訳か少女の琴線に触れたらしい。聞こえ始めた嗚咽にフラダリは内心狼狽えた。
どうすればいいのだろう。好きなだけ泣くといいと言ってやれる程の余裕は持ち合わせていなかった。

「何故泣いているのですか」

苦し紛れに紡いだのはそんな言葉だった。
泣いている子供にそんなことを聞いてどうする。強烈な自己嫌悪に囚われたが、少女は嗚咽の合間に小さく呟いた。

「足が痛いからです」

それは誤魔化しだった。それは本来の理由ではなかった。
少なくとも「貴方から逃げ回っていたから足が痛くて痛くて堪らないんです」という意味ではない。そう信じることは出来た。
大人であるフラダリは更にその裏を読むべきだったのに、余裕の失われた彼は更なる爆弾を投げることになってしまう。

「では、抱き上げて差し上げましょうか」

するとそれをジョークと受け取ったのか、少女は涙で濡れた顔を上げた。
頬を伝い、ぼろぼろとアスファルトに落ちるそれを見届けていると、徐にそれは紡がれた。

「私が、泣き喚いても良いのなら」

成る程。フラダリは笑って少女の頭を撫でた。
そっと彼女の足と肩に手を回し、荷物を持つようにひょいと抱き上げる。
突然高くなった視界に彼女は小さく悲鳴を上げたがそれは一瞬だった。フラダリのスーツに縋り付き、本当に声を上げて泣き始めた。
随分と生き辛い性格をしているとフラダリは思った。これでは旅にも苦労しているだろう。
そんな子供にフラダリが手を差し伸べたのは、その涙が未来を決めるに値すると僅かでも思ったからだ。
こんな子供ですらこの世界に苦しんでいるのだという事実は、フラダリを大きく突き動かした。

「大丈夫ですよシェリー、きっと君の生き易い世界が来る」

しかしその世界を数日後、他でもない少女が拒むことになるとフラダリはまだ知らない。

2013.11.3
その涙で何かが変わると本気で思っているのだとしたらなんと愚かで愛しいことでしょう。

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