雛と揺り籠

※フラダリカフェからヒャッコクシティまでの間にあったかもしれない話。

波の音がした。故郷であるイッシュの海は季節によってその色や温度を変えるが、カロス地方の景色は時に流されない。
いつだって同じ美しさを保っている。まるで箱庭だ。四季のある場所からやって来た少女には、その美しさが異次元のものに見えたのだ。
「カロスは美しい」と言った彼の発言も今なら理解できる。私は私を理解してくれた人間のおかげで、この美しさを感受することが出来るようになっていた。

シェリー、此処に居たのですか」

ベンチに座って海を眺めていた私に、後ろから聞きなれた声が掛かった。
フラダリさんとこうして出掛けるのは一度や二度ではなかった。全てを怖がり、怯えていた私に、彼は忙しい筈の時間を割いて、私との時間を作ってくれた。
それはミアレシティを巡ることだったり、フウジョタウンの風車を見に行くことだったりしたが、今回はコウジンタウンにやって来ていた。

輝きの洞窟に繋がる東の道と、ショウヨウシティに続く北の浜道。それらを繋ぐ中継地であるこの町は、ミアレシティやハクダンシティに比べるととても静かだ。
水族館と博物館がある、小さな観光名所には、心地よい海の風が吹いている。しかも、この風が変わることはない。
カロスには夏も冬もない。不思議な場所だ。しかし私は彼との時間の中で、そんな不思議な場所を受け入れられるようになっていた。
それは視点の変換だった。私はこの場所を愛し始めていた。

「海が好きですか」

「はい、カロスの海はとても綺麗です。吸い込まれそう」

ただ穏やかに寄せては返す波の音は、私の目蓋をそっと閉じさせた。
カロスに来たばかりの頃は、こんな風に周りのものを感受する余裕などなかった。
その猶予を差し出してくれたのは他でもない彼であり、どうして一介のポケモントレーナーでしかない私に彼の貴重な時間を割いてくれるのかは解らないが、
いずれにせよ、彼との時間を私は心地良いものと捉えていたし、彼のおかげで私はカロスを好きになれた。それは紛れもない真実だった。

私がどうやって、そんな彼の優しい配慮に報いられるのかは解らない。
以前、それとなく尋ねてみたこともあったが、彼は笑って私の頭を撫でてそれを否定した。
「今はまだその時ではない」と言った、その言葉にどんな意味が含蓄されているのかは解らなかった。
彼はフラダリラボの利益の一部で、カロスのトレーナー達のサポートをしているらしい。
これも、そうした慈善事業の一環なのだろうか。
それにしてはあまりにも手を掛けられ過ぎていると思ったが、それくらいしか理由が思いつかなかった。
自尊心と理想を高く持つ彼だからこそ、私のような臆病で何の取り柄もないトレーナーが放っておけなかったのだと、思うことにしていたのだ。

「隣に座っても?」

「はい、どうぞ」

彼は背が高い。ベンチに座った状態でそんな彼を見上げていると首が痛くなってしまう。
背の高さだけではない。その低い声も、大きな手も、私にはないものだった。
ああ、彼は男性なんだ。当たり前のことを思い、私は狼狽した。
カルム君はもっと背が低いし、プラターヌ博士は彼よりも少しだけ声が高い。
だからなのだろうか。これは彼にしか持ち得ないものだから、こんなにも緊張しているのだろうか。
それだけではないと断言するには、私が揃えている情報はあまりにも少なかった。

肩が少しだけ触れ合った。伝わる筈のない彼の温度を空気越しに感じた気がした。
フラダリラボのトップである男性と、こんなに静かな町で、一つのベンチを共有している。
そのことが何故だか嬉しかった。とてつもない幸福を与えられている気がした。
そう思うことで多少緊張が和らいだ私は、こちらから話を切り出すことにした。

「フラダリさん、本当に色んな場所を知っていますね」

「ええ、わたしも若い頃、君のようにカロスを旅していましたから」

私は目を丸くして驚いた。どこか高貴な印象を漂わせる彼に、旅という言葉が上手く重なってくれなかったのだ。
どう足掻いても、旅は優雅になされるものではない。
似合わないな、と思いつつ、この人が歩いた道を私も辿っているのだと知れたことは私の心を明るくした。

「じゃあ、フラダリさんは私の先輩なんですね」

若い頃、だなんて、随分昔のことのように言う彼が少しだけおかしかった。
彼の年を私は知らないが、その熱い情熱には紛れもなく若さがあった。それはプラターヌ博士を始めとする、他の大人にはあまり見受けられないものだった。
それを私は寧ろ好意的に捉えていたのだ。それが彼の魅力の一つであると信じて疑わなかった。
それが諸刃の剣になり得るということを、その時の私はまだ知らなかったからだ。

「ええ、だから怯えたように旅を続ける君を見ていられなかった」

困ったように笑いながら彼はそう紡いだ。
それを聞いて、ああ、この人が私にしてくれたことは慈善事業でも何でもなかったのだと、ようやく気付く。
彼は一人の人間として、私を気に掛けてくれていたのだ。
何故?と新しい疑問が降って来たが、それを解明するのはもう少し後で良い気がした。
今はただ、慈善事業でなく彼個人の意思がなしたことだというその結論を感受していたかった。もう少しだけ、自惚れていたかった。空虚な期待を温めていたかったのだ。

「わたしは貴方の助けになれていますか?」

私は頷いた。彼はほっとしたように微笑んだ。

残された時間はあまり長くなかった。過密なスケジュールの中、私との時間を割いてくれたことへのお礼は幾ら言っても足りない。
だから私は、この時間を大切にすることにした。彼がくれた時間を楽しみ、カロスを愛することにした。
そして最後に一度だけ、ありがとうございましたと紡ぐ。そうしないと、彼との時間が全て謝罪と感謝で終わってしまいそうだったからだ。

私は立ち上がった。海から吹いてくる風が髪を撫でていった。
続いて立ち上がろうとした彼を、私はその肩に手を伸ばすことで留めた。

「どうしました?」

彼は座ったまま、私を見上げる。いつもなら絶対にあり得ない視点だ。いつだって、私は彼を見上げていた筈だった。
そのことに彼も気付いたのか、そっと唇に弧を描いた。
しかしいつまでもこの状況に甘んじている程、彼は暇ではないらしく、私の手をそっと掴んで立ち上がった。
そこまでは良かった。しかし問題が発生した。彼が私の手を放してくれないのだ。

「あの、フラダリさん……」

「何か?」

私の戸惑いに、逆に彼が戸惑いを見せたように尋ね返されたので、私は沈黙する他になかった。
高い背、低い声、大きな手、全て彼のものだ。だからこんなに緊張するのだ。だからこんなにも鼓動が煩く響いているのだ。
だが彼にとって、手を繋いだり隣を歩いたりすることなど、他愛もないことであるらしい。それは大人の成せる技なのか、それとも本当に何とも思っていないのか。
しかし、それなら何故彼は私を気に掛けてくれるのだろう。

「!」

しかし驚くべきことが生じた、彼が不自然に顔を背けたのだ。
私は彼の顔を確認しようとしたが、手を強く掴まれて背伸びを拒まれ、それは叶わなかった。
ああ、もう少し私の背が高ければなあ。そう呟いて笑う私の顔は赤い。

2013.12.20
25万ヒット感謝企画作品。
リリーさん、お待たせしました!

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