海が見える喜び

※互いの別離に関する話(夢小説ではありません。BW2主人公の存在を仄めかす台詞が多分にあります。ご不快に思われる方は閲覧をお控えください。)

2つ目の島で、8番道路で暑そうな格好をした男性に出会った。青ぶちの眼鏡と青く巻かれたおかしな髪型をした、人の記憶に残ることに特化し過ぎた男性だ。
けれどそんなおかしな人があまりにも優しく笑うから、親切かつ賞賛の込められた声音で私に言葉を紡ぐだけだったから、この人も、何も尖っていないように思われたから、
……私はこの人のことを、チャンピオンになってからすっかり忘れていたのだ。

「おや、貴方は確か……ミヅキさんでしたか」

だから、その特徴的な姿をした男性が、あの時と同じ8番道路で私の名前を呼んだ時、とんでもなく驚いてしまった。
彼はこんな子供の名前を覚えていてくれたのだという歓喜と、それなのに私はこの人の名前を思い出せずにいるという状況への申し訳なさで、ぐるぐると嫌な眩暈がした。
けれど私というのは本当に馬鹿な人間で、「えっと……ごめんなさい、貴方の名前を思い出せないんです」などと正直に謝罪の言葉を連ねてしまう。
こんなことを言えばこの男性が傷付くことなど、解りきっているのに。

「いいえ、構いませんよ。貴方はこれまで沢山の人に出会ってきたのでしょう。その全てを覚えていることは不可能ですから、何の問題もありません。
それにまた、覚えて頂ければいいだけの話ですからね」

けれど彼はやはり優しく笑って、私のそうした子供らしい無礼を許してくれた。

「わたくしはアクロマ、科学者です。此処で貴方と一度出会ったことがあるのですが、そのことは覚えていますか?」

「はい、技マシンをくれましたよね。ありがとうございます!」

このおかしな人は無礼な私になど傷付かないのかと思っていたけれど、私のその言葉でほっとしたのか、眼鏡の奥に光る金色の目がすっと細められたから、
ああ、やはり私の不用意な言葉は彼を傷付けるものだったのだと、知って、胸が締め付けられる思いがした。

「好きなんですか?」

「え?」

「この道。初めて会った時も此処にいましたよね。
……あ、もしかしてアクロマさんもポケモンを探しているんですか?私も今、ヌイコグマを探しているところなんです。ピンク色でもふもふしていて、とっても可愛いんですよ!」

好きなもののことになるとにわかに饒舌になる。次から次へと言葉が出てくる。元来、寡黙とは程遠い私であったから、早口で言葉をまくし立てることなど容易くできた。
そうしてまたしても、この良識のある大人を困らせているのだということに、口を滑らせてから気付くのだ。
けれど彼は困ったような表情をすることなく、寧ろ得意気に微笑んで「いいえ、違います」と否定の意を示し、私の方へと落としていた視線を、北の方角へと上げた。

「海が見えるでしょう、だから足は自然と此処に向かうのですよ」

「アクロマさんは海が好きなんですね、アローラの海はとっても綺麗で、私も大好きです!」

「……ええ、わたくしも大好きです」

私の浮かれたイントネーションを真似るように、彼は笑いながら「大好き」を告げて肩を竦めた。
ああ、もしかしたらこの人は、海の向こうにいる誰かを想っているのかもしれないなあと、私は何の確証もないままにそうしたことを思ったのだ。
私も海を見ると、あの青すぎる水の向こうに消えていった人を思い出すから。
そう容易くは向かえないところへと行ってしまった、宝石のような女の子を思い出して、寂しくなるから。

あの子と一緒に行きたい場所、一緒に食べたいお菓子、一緒に話したいこと、数え切れない程にあったのに、彼女はその全てを拒むように姿を消した。
寂しかった。悲しかった。突然の別離に私は物凄く傷付いた。悔しかった。だから私はあれ以来、大好きだったアローラの海が少しばかり、苦手になっていた。

「海を見ると、辛いことを思い出して寂しくなりませんか?」

だから、思わずそう尋ねてしまったのだ。
驚いたように海から、彼と彼の大切な人を隔てる大きな憎い水から目を離して、彼は私を見下ろした。
私は大きく首をあげて彼の目を真っ直ぐに見据えた。少しだけ首が痛かった。この人は存外、背が高いのだ。

「アクロマさんも遠いところから来たんでしょう?この海の向こうに、貴方の大事な人もいるんでしょう?」

「……成る程、どうやらわたくしは余程酷い顔をしていたようだ。私が海の向こうにいる誰かを想っているのだと、だから海が好きなのだと、貴方はそう言いたいのですね?」

違うんですか、と声に出さずに首を傾げた。
彼は特に気分を害していないような、寧ろ上機嫌な様子で頷き、再び顔を上げて海を見た。金色の目に青い海が映って、不思議な輝きを作っていた。

「今回は別行動をしているのですよ。互いのすべきこと、向かいたい道は、往々にして異なるものです。ですからたまにはこういう時もあっていいのではないかと、思ったのです」

「でも、寂しいんでしょう?」

彼はもう、私に視線を向けてくれなかった。ただぽつりと「ええ」と肯定の返事を短く告げて、自嘲するように肩を竦めた。
「たった一人の不在が、こんなにも心を抉るものだとは知りませんでした」と、寧ろその感情を楽しむような、どちらかというと明るい声音が私の鼓膜をくすぐる。
波の音が聞こえる。彼はあの海が、憎くはないのかしら。

「一緒に来ればよかったのに。だってアクロマさん、その人のことが好きなんでしょう?その人だってアクロマさんのこと、大好きなんでしょう?」

「ええ、勿論です。けれどいいんですよ。いつも一緒にいることだけが誠意ではありませんから」

彼は自らの寂しさを、見知らぬ土地で一人であるという孤独を、「誠意」という難しい言葉で飲み込もうとしていた。
一人でいることが誠意。遠く離れた土地で、海を越えた先にいる誰かを想い続けることが誠意。寂しさを堪えて、誰かの不在に心を抉られる己の姿を静かに楽しむことが、誠意。
彼の言葉は難しすぎる。私には彼の誠意を紐解くことができない。
だってそんなこと、海を越えた先にいる誰かには何一つ、伝わりなどしないのに。

想いは言葉にしなければ伝わらない。言葉にするためには、傍にいなければいけない。
なのに彼はそうした手段を全て封じて此処にいる。此処で、海を至極愛しいもののように眺めていることが「誠意」だと告げて笑う。難しい。解らない。

「私も、あの海の向こうに会いたい人がいます。大事なポケモンを私に託して、あっという間にいなくなっちゃったんです。今の私には、あの子のいる場所は遠すぎるんです。
とても悔しくて、悲しくて、いつかあの子を恨んでしまいそうだから、思い出さないようにしていました」

「……そうだったのですね」

「でも、思い出した方がいいですか?悲しむことも、恨むことも、誠意になりますか?」

この人はただ優しいだけの人だと思っていた。だから私は彼の名前を忘れていた。
けれど、きっともう忘れようがない。こんなにも優しい声音で、こんなにも難しい言葉を紡ぐ、おかしな恰好をした、至極まっとうな良識を備えた彼のことを、忘れる筈がない。

だからあの子のことだって、ちゃんと覚えていなければいけないのではないかと、そう思ってしまったのだ。
この人が海の向こうの誰かを思い出し続けている、その「誠意」に溢れた姿を、倣った方がいいのかもしれないと思ったのだ。
……それが私にとって、孤独と苦痛を伴うことであったとしても。

「勿論ですよ。誠意の最たるものは覚えておくことですから」

ああ、だからこの人は私の名前を覚えていてくれたのかもしれない。そんな彼の名前を忘れてしまっていたことは、「不誠実」なことであったのかもしれない。
にわかに私の言葉が恥ずかしいもののように思われた。子供だから、と許され続けてきたその無礼は、そのような不誠実を孕んでいたのだと、私はこの時、初めて知った。

「もう貴方の名前を忘れません」

焦ったようにそう宣言すれば、彼はやっと私を見てくれた。
今この瞬間だけは、この優しい人の誠意は、海の向こうにいる誰かにではなく、私に向けられている。そのことが少しばかり畏れ多くて、背筋がピンと伸びた。
「ありがとうございます」と、子供である私にも丁寧な言葉で謝罪の意を示した彼は、けれどすぐに何かを思い付いたような表情になって、金色の目を細め、得意気に笑った。

「……ではついでにもう一つ、覚えていてほしいことがあります。わたくしは海の向こうにいる誰かを見ているのではなく、海を見ているのですよ」

「え?それって、どういうことですか?海の中に会いたい人がいるんですか?」

「いえ、そういう訳ではありませんが、……そうだ、ミヅキさん。貴方は青のカラーコンタクトを嵌めていますよね」

秘密を見抜かれてしまい、とても驚いた。つい数日前から、私は青いコンタクトレンズを入れて旅をしていたのだ。
鏡に映る、青い目をした自分の姿が新鮮で、毎朝このレンズを嵌める度に満足気に胸を張って笑っていた。
私をよく知る人であれば、本当の私の目の色を知っているから、見抜かれることは必至だったけれど、この人とは今日を入れて2回しか会っていない。
それなのに、彼は私の目の秘密を、息をするようにさらりと言い当てた。
もしかしたら最初に会った時の、私の本当の目の色を覚えていてくれたのかしら。それも彼の言うところの「誠意」だったのかしら。

そんなことを考えながら「凄い!私の目の色を覚えていたんですか?」と尋ねたけれど、
彼は困ったように笑いながら、「そういう訳ではないのですよ」と、まるで私のような正直な言葉を告げてみせた。

「わたくしは、青色を見抜くのが得意なんです」

この人は本当に海が好きなのだ。こんなにも嬉しそうに青色のことを語るのだから、きっとその人のことだって大好きなのだ。
先程の彼の「大好き」はそのまま、その人への言葉であったのだ。
私も、そんな風に海を見られるようになるかしら。私もそんな風に嬉しそうな声音で、いなくなってしまったあの女の子のことをいつか、話せるようになるのかしら。

2016.12.1
(海が見える喜び:8番道路の看板より引用させていただきました)

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