鋼色の山から

ふわっと、丁寧に泡立てたメレンゲに手を差し入れた時のような、空気の中に飛び込んでいるような、そうした笑い方をする人だった。
優しい人なんだろうなあ、と私は思っていた。
本当に性根の悪い人や、お腹の中に何かを飼っている人は、こんな風に笑ったりしない。
島巡りの証を順調に集めてきた私のような、そこそこの実力を持つことが傍目にも解るような存在に対して、このような無防備な表情を浮かべることなど、絶対にしない。

「わざわざ来てくれてありがとう」

博士の友達であるらしい彼は、私にもその柔和な笑みを向けてくれた。
元キャプテンで、パソコンの預かりボックスを管理していて、更にこの天文台の所長もやっているらしい彼は、
けれど多忙にかまけて会話を疎かにするような冷淡な人ではなかったようで、特に急いだ風でもなく、緩やかに言葉を紡いでいた。
この人の周りでは、時間がほんの少しだけ遅く動いているように思われた。

彼と戦った。確かに強かった。フェアリータイプの技が鋼タイプにあまり効かないということを、私は彼とのバトルで初めて知った。
辛くも勝利を収めた私に、彼は敬意をもって天文台への扉を譲ってくれた。
意気揚々と天文台の奥へと駆け出した私がふと、後ろを振り返れば、彼は折れそうに細い手をひらひらと振って私を見送ってくれていた。私も大きく手をあげて、振り返した。
たったこれだけの時間だったのだ。この「マーレイン」さんと私が共有することの叶った世界というのは。

あの人が優秀なキャプテンであった頃、私はまだアローラの土地を踏んですらいなかった。
彼はパソコンの預かりシステムを管理しているけれど、私はそのシステムに、捕まえたポケモンを預けたり引き出したりするだけの、一介のシステム使用者に過ぎなかった。
私は島巡りをするためにアローラ地方のあちこりを駆け回っていた。彼は預かりシステムを管理する身として、そして天文台の所長として、あの山に留まり続ける必要があった。

私の世界と彼の世界は、偶然にもあの山の上で交わった。けれどそれきりだと思っていた。
貴方の静かな落ち着いた時間と、私の目まぐるしく変わる忙しない時間とは、どう足掻いても交わらないのだと、心得ていたつもりだったのだ。

スカル団のように、私は彼と敵対している訳では決してなかった。エーテル財団のように、お腹の中に何を隠しているのだろうと疑う必要など毛頭なかった。
彼はとてもいい人だった。優しく、やわらかく、陽だまりのように笑う人だった。
だからこそ、彼を覚えている理由がなかったのだ。だって優しい人なんか、彼の他にだって幾らでもいたから。

朝に行っても夜に行っても、いつだって素早くポケモンを回復させてくれる、ポケモンセンターのスタッフさん。
美味しいエネココアを出してくれて、楽しいお話を沢山聞かせてくれるカフェのマスター。
モンスターボールを10個買うと、白くて可愛いプレミアボールをおまけしてくれる、ショップの、気前のいい店員さん。
慣れない土地で島巡りをする私に、傷薬やモンスターボールといった、便利な道具をお裾分けしてくれた先輩のトレーナーさんや、町の人。

皆が皆、とても優しくて、いい人で、だからこそ私は彼等の名前を知らなかった。
いい人を、親切な人をいつまでも覚えていることは少し難しい。だってこの土地にはいい人が多すぎるから。皆が皆、優しくて、親切で、何処も尖っていないから。

あの人のことも「旅をしている中で出会った、アローラの優しい人」に過ぎず、故にホクラニ岳で教えてもらった彼の名前も、私は忘れて然るべきだったのだ。
素敵な優しい笑顔を浮かべる彼は、けれどアローラにとって「特別」な存在ではなかった。
以前はキャプテンであったのかもしれないけれど、少なくとも今は、私の旅路においては特別ではなかった。
だからこそ、この人を覚えているべき理由がなかったのだ。つい2秒前までは本当にそうだったのだ。

「マーレインさん」

けれど不思議なことに私は、階段を上がってきた貴方の名前を呼ぶことができた。

「あれ?……嬉しいなあ、僕の名前を覚えていてくれたんですね」

照れたように、困ったように笑いながら頭を掻く。癖のあるブロンドは、つい先日、島を去ったあの女の子の髪の色より少しだけ深く、少しだけ淡い。
ああ、そうだ、この人の姿勢は少し悪かった。彼は初めて会った時も、そうやって私に挨拶をした。
私が小さな子供だから、この人は背中を曲げてくれているのかと、そんな推測をしたけれど、単に姿勢が悪いのだと、猫背なだけなのだと気付いて、少しばかりおかしかった。

そんな彼があの山を、ホクラニ岳を下りることなどないのだろうと思っていた。

けれど彼は此処へ来た。あの山を下りて、あの山よりも更に高いこの場所へやって来て、寒さに体を震わせながら、陽だまりのような笑顔で私に手を振った。
暫く振った手をそっと下ろした彼は、ポケットにそれを差し入れた。もう一度私を見て、眼鏡の奥で鋼色の目を細めた。
次にポケットから手が出てくる時、その手にはきっとハイパーボールが握られている。中にはきっと、貴方の目と同じ色をしたポケモンが入っている。
そんなことまで私は、貴方の名前を呼んだ途端に全て、全て思い出している。

「君はどんどん強くなりますね。さて、僕はどれくらい健闘できるでしょうか?」

けれど貴方は私に、もっと親しい言葉で話しかけてくれていたような気がする。貴方はあの時、私に、丁寧な言葉など使っていなかったような気がする。
私の方が彼よりもずっと年下であるから、彼が私に敬語を使う必要などない筈だ。
それなのに、そのような丁寧な言葉で私に話しかけるのは、私がこの椅子に座っているからなのだろうか。
彼は私が、自分よりも上の実力を持った人間だと、完全に認めてくれているのだろうか。私は真に、彼に挑戦されようとしているのだろうか。

それは、貴方の「敬意」なのだろうか。

「ではミヅキくん、いいバトルにしましょう!」

そんなことを考えていると、突如として心臓が跳ねた。胸が締め付けられるように痛んで、そして、ふわっと広がった。
名前を呼ばれることは私にとって珍しいことではない筈なのに、何故かどうしようもなく嬉しくなった。
メレンゲを思わせる彼の笑みが眩しかったので、笑うふりをして目を細めた。笑えば、私の衝撃は私の「歓喜」であるということになった。それでよかった。

「あれ?……嬉しいなあ。私の名前を覚えていてくれたんですね!」

つい先程の彼と全く同じ言葉でそう言い返せば、彼はポケットから取り出そうとしていた手を、ぴたりと止めた。
驚きに見開かれた鋼色の目には、彼の真似をしてふわりと笑う私が映っている。彼は瞳いっぱいにそんな私を映してから、私と全く同じ表情で笑い始める。

「あはは、そりゃあそうだ!アローラに住む人なら、誰もが君の名前を知っていますよ。君は特別ですからね」

私が特別だから、貴方は私の名前を覚えていた。ならば私が貴方の名前を覚えていたのも、同じ理由なのだろうか。貴方も特別なのだろうか。
失礼な話だけれど、それは少し違うように思われたのだ。良くも悪くも彼は特別ではなかったからだ。
彼はキャプテンでも島キングでもない。スカル団の人のように悪いことを企んでいる訳でも、エーテル財団のように、お腹の中に得体の知れない何かを飼っている訳でもない。
あの山に建つ天文台の所長として、ポケモンの預かりシステムの管理人として、そしてマーマネの先輩として、彼は忙しい毎日を送っているようだった。
けれどそれはやはり、私がこの人を覚えておく理由にはならないように思われた。私とこの人との道は交わらず、どこまでも相容れないところに私と彼との物語は敷かれていた。

けれど私は貴方の名前を覚えていた。世界が、この広いアローラが貴方を特別だとしなくても、私は貴方を特別だとしていたのだ。
彼の何が私の中で特別であったのか、そんなことは全く分からなかった。けれども彼を覚えているということは、そういうことなのだ。だから貴方の名前を紡ぐことが叶ったのだ。
その理由は、きっとこれからも交わり続けるであろう私達の時間が教えてくれる。

『貴方が特別だったから、私も貴方の名前を思い出せたんだと思います。』
そう告げようとして、止めた。代わりに笑ってボールを構えた。彼も凍り付かせていた手を再び動かして、エアームドの入ったボールを取り出し、笑った。
そんな浮ついた、ふわふわとしたことを告げるのは、バトルが終わってからでいい。
バトルに夢中になり過ぎて、そんな言葉さえも忘れてしまっていたのなら、しかし、それはそれでいい。
その言葉を言い忘れたとしても、私はもう、貴方の名前を忘れないだろうから。いつも、いつでも思い出せるようになっている筈だから。

……ああ、ついでにもう一つ、その丁寧な言葉もやめてもらうようにお願いしてみよう。だって私は子供で彼は大人だ。彼が私に敬語を使う道理などまるでない。
私に敬意など示さなくていい。貴方が来てくれることが、此処で貴方に会えたことこそが敬意だ。だからそれだけでよかったのだ。

そう告げれば彼はどんな顔をするだろう。「まいったなあ」と笑ってくれるのかもしれない。「いや、これは譲れませんよ」と我を通すのかもしれない。
彼がどんな言葉を返してくれるのか、まるで読めない。読める程の時間を、私は彼と過ごしていない。この人と共有することの叶った時間はあまりにも短い。
だからこそ楽しみだった。貴方のことをこれから沢山、知ることが叶うかもしれないという期待に胸が膨らんだ。
そしてもっと、ずっと強くなっているのであろう彼と、今からこの最高の場所で戦えるという高揚に、心臓が張り裂けそうだった。

二人同時に、ボールを投げた。

2016.11.30
2016.12.2(加筆修正)

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