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ゲンがキッチンに立ってから2時間が経過した頃、ようやくカレーが完成した。
食器を用意してお茶を入れるといったテーブルメイキングは少女に任せた。
彼女はふらふらと覚束ない足取りで歩きながら、食器棚に入っていたお皿にコップ、スプーンといったものを二つずつ取り出してくれた。

皿だけゲンに手渡した少女は、しかしスプーンをフローリングに落としてしまった。
それを拾おうとして彼女の細い手が何度か宙を切る。奇妙な光景に首を傾げながら、ゲンは「大丈夫かい?」と尋ねつつ代わりに拾い上げた。
彼女は小さく頷いてからスプーンを受け取り、その銀の輝きに映る自分の顔を見ているのか、何度もそれを僅かに傾けてじっと見つめていた。

白米は問題なく炊けていたので、それをお皿に盛り付け、隣にカレーを注ぐ。
野菜が少しばかり大きすぎるような気がするけれど、見た目には普通に売っているカレーと遜色ない形にまで持って来られた。
まともな料理などもう何年もしてこなかった身で、これだけのものを作れたのだから、まずは合格だろう。変なものだって入れていないから、不味いということもない筈だ。

「それじゃあ食べようか」と促して椅子に座り、欠かしたことのない「いただきます」の挨拶を口にする。
少女は新しく出したスプーンを不思議そうに見つめながら、けれど少し遅れてそれを一度テーブルに置き、ゲンと同じように両手を合わせて口を開いた。
当然のようにその口は動くだけで、音を発することはない。けれどそうした良識ある行動を取ってくれる彼女に、ゲンは少しばかり安心したのだ。
そうしてすっかり油断しきった彼は、何も考えずにカレーをスプーンで掬い上げ、口へと持って行ってしまう。
次の瞬間、勢いよくむせ返ることになるとも知らずに。

「……ヒカリ、ちょっと待ってくれ」

慌てて水を口にしたゲンは制止をかけたが少しばかり遅かったらしく、テーブルの向かいで一口目を既に含んでしまった少女も泣き出しそうな顔をしていた。
慌ててその小さな手に水の入ったコップを持たせつつ、そうしたことをしながら彼はまだ咳き込んでいた。
辛い。それなりに辛さに耐性のある大人ですら驚いてしまう程の辛さだった。ごみ箱に捨てたカレーの箱を取り上げれば「激辛」とある。
ああ、辛さにレベル付けがされているのか。もっとよく見てルーを選ぶべきだった。どっと押し寄せてきた後悔と申し訳なさに脱力してテーブルに戻る。

「どうやら間違えて、とても辛いルーを買ってしまったみたいだ。もっと注意して見るべきだったね、すまない」

彼女は水に少しだけ口をつけてから僅かに首を振った。テーブルの脇に置いてあったノートとペンを手に取り、ぎこちない丸文字で「気にしないで」と書き込んでくれる。
10歳の女の子に気を遣わせるなどという、あまりにも情けない失態を晒してしまった彼は、しかし彼女のそうした気遣いにより何とか気持ちを持ち直していた。
しかしこのカレーがまだあと14皿分残っているのだという残酷な事実を思い出し、遅れてくらくらと眩暈が襲ってくる。
ここまで辛いと体に悪そうだなと思いながら、しかし捨てるには勿体ないような気がしたため、残った分は冷凍して少しずつ責任を持って消費していこうと心に決めた。

コップに水を2回注ぎ足し、ようやく一皿を完食することが叶ったが、少女は殆ど手付かずの状態でスプーンを置いた。
この辛さでは無理もないことだと思ったが、しかしそれは、ゲンの作ったカレーが辛いことを原因とするものではなかったらしい。
口直し兼デザートにと出したプリンにも、一口しか手を付けなかったから。

「私はこれから少し部屋の片付けをしようと思う。慣れない場所で気疲れしているだろう?今日は早めにお風呂を入れるから、先に入ってくれて構わないからね」

皿を片付けながらそう告げるゲンに、少女は小さく頷いた。
ソファへと深く身体を沈めた彼女を見届けてから、彼は風呂場のお湯を入れに向かい、途中で大きく深く、しかしこの上なく静かに溜め息を吐き出した。
実のところ、「気疲れしている」のは少女の方ではなかった。
触れれば折れてしまいそうな幼くか弱い、しかも言葉を発しない子供と1週間を過ごさなければならないという事実に、
彼女を招いてからまだ数時間しか経過していないにもかかわらず、ゲンの方が参ってしまっていたのだ。
こんな調子で1週間、やっていけるのだろうか。キュ、と蛇口を捻りながらゲンはそんなことを思う。

しかしそうした懸念を巡らせる間にも、時間は止まってはくれないのだ。彼はそこを失念していたのだろう。
お湯を入れに向かってから戻ってくるまでおそらく1分も経過していなかった筈だが、リビングに戻れば早くも先程のソファの位置に少女はいなかった。
フローリングに倒れた彼女の夜色の髪が、壁に叩きつけた絵の具のように放射状に広がっていた。
たった1分、けれど1分前には想像さえしなかったことが目の前で起こっていて、ゲンは彼女の名前を大声で呼び、駆け寄った。

「どうしたんだ!」

「……」

その顔には一切の苦悶の色が見えなかった。少しばかり驚いたように、彼女は大きくぎこちなく瞬きを繰り返していた。
それは今日、橋の上から落ちた彼女を引き上げた時の唖然とした表情に似ていたように思う。
「何故、自分がこうなったのか」ということを、今の彼女は理解していないようだった。当の本人にさえ解らないことを、ゲンが推し量れる筈もなかったのだ。

重力の類を忘れたかのように、彼女の四肢はくたりとフローリングに張り付いていた。
彼はそっと彼女の背中に手を差し入れて起こした。10歳の子供であることを忘れるくらいにその身体は軽かった。
きょとんとしてこちらを見る少女の目はやはり何処か虚ろで、此処にいる筈なのに、彼女はもっと遠くへ行こうとしているように思われた。
それが「何処」であるのか、ゲンには想像もできなかったのだけれど。

大丈夫かいと尋ねれば、僅かに頷いた。何処か痛いところはないかと問えばすぐに首を振った。益々何が起こっているのか解らなくなってゲンは沈黙した。
低血圧による眩暈で、急にふらっと倒れてしまうことがあることをゲンは知識として知っていたが、彼女のこれはそういった類のものではないように思われたのだ。

シロナ、君はこんな少女をずっと支えてきたのか。

目の下に濃い隈を作った彼女の姿が脳裏をよぎった。
駄目だ、こんなことで挫けてどうする。私はこの子供を託されたのではなかったか。「貴方が奇跡を起こしてくれるかも」と期待されているのではなかったか。
そんな奇跡を起こせなかったとしても、それでもたった数時間で彼女との生活を投げ出すことなど、今更、できる筈がなかったのだ。
投げ出すには、シロナの目の下の隈は深すぎた。今の変わり果てた彼女を見限るには、ゲンは以前のあの子を知り過ぎていた。

「心配しなくても大丈夫だよ」

だからそう告げて、少女の頭をそっと撫でた。
構わない、大丈夫だ。私はこの子を支えてみせる。1週間、この子を襲う不思議な力から守り抜いてみせる。
だってこの子は、こんなところで挫けて留まるようなトレーナーでは決してなかった筈なのだから。ゲンはどんな形であれ、この子と再会できたことに喜ぶべきだったのだから。

「私では力不足かもしれないけれど、ちゃんと君を守ってみせるから」

君が落ち着くことのできる場所を用意しよう。太陽の光が差し込む明るい場所が苦手だというのなら、分厚いカーテンを見繕っておこう。
次こそは甘口のカレーのルーを購入しよう。一箱で八人分であることは既に分かっているから、もう失敗したりしない。
あの部屋にある無機質な家具は君のような女の子には不似合いだから、もう少し可愛らしいものを買いに行こう。
君はピンク色が好きなようだから、そうした明るい色で統一してみるといいかもしれない。

私ができることを全てしよう。投げ出すものか。
大丈夫だ、私は以前の君を知っている。私に沢山のものをくれた君のことを、君が忘れてしまっても私がちゃんと覚えている。
今度は私が、君に返す番だ。私は、私に差し出してくれた以前の君の姿を、今の君に返さなければならない。

少女にバスタオルを持たせてお風呂場へと案内した。また先程のように倒れはしないかと不安になったが、まさかこの先まで同行する訳にはいかない。
リビングに戻り、何事も起きてくれるなと目を閉じて祈った。緊張の糸を解くにはまだ早すぎると解っていたから、睡魔は襲って来なかった。

そうした束の間の平穏を、ガタンという落下の音が破いた。
思わず立ち上がって辺りを見渡せば、彼女の持ってきていたピンク色の鞄が、テーブルからバランスを崩して落ちてしまっていた。
彼女は自室に鞄を置いて来なかった。かといって中から何を取り出すでもなく、彼女はそれを常に肌身離さず、小さな腕に抱きかかえるようにして持っていたのだ。

拾い上げてテーブルに戻そうとしたのだが、どうやらチャックが空いていたらしく、中身がバラバラと零れ落ちてしまった。
ポケモン図鑑、財布、ポケモンの入ったモンスターボール、一つだけ空欄を残したバッジケース……そうしたものを拾いながら、ゲンは気になるものを見つけて思わず手を止める。

茶色いガムテープでぐるぐる巻きにされた、丸い球体だ。
モンスターボール程の大きさしかないそれをゲンが手に持てば、不自然にカタカタと手の中で震え始め、彼は驚きにそれを取り落としてしまった。
そのガムテープの隙間から覗く、紫色の光沢を放つボールに彼の目は釘付けになった。
それはポケモントレーナーなら誰でも知っている、「どんなポケモンでも捕まえられる最高のモンスターボール」だった。

彼女はマスターボールでポケモンを捕まえた。
そうした事実を察することは容易にできたが、けれどその事実は何の情報もゲンに与えてはくれなかったのだ。
何故、そんな貴重なボールを手にするに至ったのか?何処で見つけたのか?誰から貰ったのか?何故それを使ったのか?
ポケモントレーナーとしてとても優秀であった彼女が、ポケモンを捕まえる術に長けていないとは思えない。彼女が捕獲に苦労する程のポケモンだったのだろうか?
仮にそうしたポケモンがいたとして、では何故、彼女はそのポケモンの入ったボールをガムテープでぐるぐる巻きにしているのか?

何もかもが解らなかった。ゲンはそのボールを鞄の奥に押し込んで、残りの道具も鞄に仕舞った。
テーブルの上に鞄を戻して、少女がリビングを出ていく前と寸分違わぬ様子になっているかどうか、あらゆる角度から何度も確認した。
そうして再びソファに沈めたゲンは、しかしあのガムテープでぐるぐる巻きにされたマスターボールのことをどうしても忘れることができなかった。

彼女の失われた声はきっと、あのボールの中に閉じ込められている。
そんな突飛な発想を、しかしゲンは信じていた。いつか、あのボールを開けて中を見なければいけないように思われてならなかったのだ。


2016.5.14

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