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「君はいつも何時に眠っているんだい?」

彼のそうした、至極簡単であると思われた質問に、しかし彼女は答えることができなかった。
勿論、紡ぐための声が失われていることは解っていたが、何度かペンを持つように促してみても、彼女は困ったようにその小さな眉を下げ、首を振るだけだったのだ。

何時に起きていたかを答えることができない程に、彼女の起床時間は不規則だったのだろうか?
そんな風に思ったが、しかし1か月前には必ず朝一番の船でこの鋼鉄島にやって来ていたことを思い出し、それはあり得ない、とその記憶が囁いた。
けれど今、ゲンの目の前にいる少女は1か月前の「あの子」と同じ姿をしてはいない。あの子と同じ姿をしてはいるけれど、あの子に通じた常識は今の彼女には通じない。
だからこそ、彼女と向き合うことは困難を極めていた。

子供というのは何時くらいに眠るべきものなのだろう。
ゲンは幼い頃のおぼろげな記憶を引っ張り出し、確か10時くらいまでなら母も起きることを許してくれていた筈だという経験から、
リビングの壁に掛けられた時計の短針が10を指す少し手前で彼女に声を掛けた。
面白いものなど何もないだろうこの空間をくるくると歩き回っていた彼女は、彼の言葉に振り返って小さく頷き、鞄を抱え直して自室へと向かった。

真っ直ぐにベッドへと歩み寄った少女は、ずっと腕に抱えていた鞄を枕元に置いた。
枕の高さは大丈夫かと尋ねようとしたのだが、雨粒が窓ガラスを激しく叩く音にその言葉は遮られた。
思わずそちらに視線を向け、苦笑する。吹き荒ぶ風が窓をカタカタと鳴らしていた。どうやらあの曇天がようやくこの島にも牙を剥き始めたらしい。

「……おや、もう降り出したのか」

そう零せば、鞄を枕元に置いた彼女は不思議そうにゲンを見上げた。何のことだ、と問うような無垢な色がその目に宿っていた。
「雨が降っているんだよ」と窓を示せば、彼女は覚束ない足取りで部屋の隅へと歩み寄り、あろうことか窓に手をかけて勢いよく開け放ったのだ。
これに驚いたゲンは、しかしもう大声を出して彼女を威圧するまいと音を努めて飲み込んでから、彼女の小さな手の上に自分の右手を重ねて制した。

「どうしたんだい。風が強いから濡れてしまうよ」

けれど彼女はゲンの言葉など聞こえていないかのように、窓の隙間からもう片方の手を伸ばした。
強く降る大粒の雨を、彼女はまるで手に降ってきた星を見るかのように眺めていた。当然のようにその星は透明で冷たく、色などある筈もなかった。

ヒカリ、手を、」

もう一度呼び掛ければようやくゲンの声が届いたのか、不思議そうにこちらを見上げてきた。濡れてしまうよと促せば窓の隙間から空に伸べた手が緩慢に引っ込められた。
紺色のジャージの袖は雨を吸ってその色を変えており、このまま眠るには少しばかり左手が冷たいように思われたが、
彼女は濡れた手をじっと見つめてから、頓着する様子もなくそのまま窓を閉め、手や窓のサッシを濡らした雨をジャージの裾でさっと拭い取った。
その静かな反応に呆気に取られたが、彼女が静かであるのは何も今に始まったことではないと思い直し、
彼女が平静を保っているのだから自分が事を荒立てる必要はないだろうと、彼はもう、窓を開けたことについて言及することを止めた。

一人で眠れるかいと確認を取り、ベッドに潜り込んだ彼女を見届けてから電気を消した。
おやすみと呼びかければ彼女が暗闇の中で小さく頷く気配がした。
ベッドを覗き込めば、彼女は雨に濡れた右腕を抱くように身体を丸めて目を閉じていた。まだ寝息は聞こえなかった。

足音を立てないようにそっと部屋を出て、ドアを閉めてから細く長く息を吐き出す。
彼女は何を掴もうとしていたのだろう。ゲンには見えない何かが、あの窓には見えていたのだろうか。

『1週間だけ、ヒカリと一緒に暮らしてくれないかしら?』
シロナは期限として1週間を提示した。その期間が果たして長すぎるものだったのか短すぎるものだったのか、今のゲンにはまだ知る由もない。
しかし、どういった意図であるのかは読めないにせよ、シロナが彼にそうした期限を提示した上で少女を託した事実は揺らがない。
それならば、この1週間で自分にできることは全てやっておきたかった。何が彼女をあのようにしたのか、何が彼女の声を奪ったのか知りたかった。
彼女の、光を失った鉛色を紐解きたかったのだ。紐解いて、初めて、以前の彼女の色に結び直すことが叶う気がした。

そんなことを考えながら、ゲンは手早く風呂に入り、髪をタオルで乾かすのもそこそこに、自室のベッドへと重力を失ったかのように倒れ込んだ。
そこまでスプリングの強いベッドではなかったため、彼の身体は弾むことなくそのまま毛布の中へと沈み込む。
意識の薄れる中、ふと思った。ベッドへ覚束なく向かう今の足取りは、彼女の歩き方によく似ている。

特に朝が苦手という訳ではなかった。寧ろ朝の6時にはスッキリと目覚めるのが日常であった筈なのだが、枕元の時計を手繰り寄せて覗き込めば既に7時を回っていた。
なんてことだ。回らない舌で思わずそう呟き、頭を抱える。
しかし愕然としている暇はない。昨日までなら彼が8時に起きようと9時に起きようと誰にも迷惑など掛からなかったのだが、今日からはそうはいかない。
この家に住み、この家で朝食を食べるのはゲンだけではないのだから。こうした日常があと6日、続くのだから。

海へと飛び込んで濡れてしまった衣服は、昨日の内に再び着られる状態に整えてある。
乾いていることをもう一度確認してから乱暴に袖を通し、さて朝食はトーストと牛乳にするべきかと考えながら北の部屋へと歩みを進めた。
まだ眠っているだろうかとドアをノックすることが躊躇われたが、ドアを挟んだ向こうにいる彼女には彼の足音がしっかりと聞こえていたらしく、
こちらが叩くよりも先にドアノブがゆっくりと回転し、少しだけ開けられた隙間から、少女の重たげな目がゲンを見上げた。

「あ、……よかった。起きていたんだね」

安堵を零すように微笑めば、彼女はゆっくりとドアを開けた。
髪を整え、服装も整っている様子を見るに、もう随分と前から起きていたのだろう。
お腹が空いていないかな?寝坊してしまったね、すまない。君はいつも何時くらいに起きているんだい?朝食は昨日買ったトーストにしようと思うけれど、いいかな。
尋ねるべき言葉は次々と浮かんできたが、それら全てを飲み込んで彼女と同じ目線に膝を折った。昨日のように、初めて彼女と出会った時のように、その目を覗き込んで紡いだ。

「おはよう」

彼女は驚いたようにその目を見開いた。慌てたように踵を返し、昨日のリングノートと青いペンを鞄から取り出して戻ってくる。
ぺたんとフローリングに座り込み、膝の上にノートを置いてペンを構えた。
何か言いたいことがあるのだろうかとゲンは首を捻ったが、彼女はあまりにも早くペンを仕舞い、ノートを持ち上げてこちらへと向けた。

『おはよう。』

たった一言、けれどこちらの言葉が確かに届いているのだと示してくれるその一言に、ゲンは思わず微笑んだ。それ以上など望むべくもなかった。

「そうだね、おはよう。……おはよう、ヒカリ

繰り返しその挨拶を紡ぐゲンを、彼女は不思議そうに見ていた。
大丈夫だよ、と何も不安がっていないにもかかわらずそう告げた。不安になっていたのは彼の方だったのだから、おそらくそれは自身に言い聞かせた言葉だったのだろう。

朝食を食べようかと誘い、リビングへと移動した。
5枚切りの食パンを2枚取り出して、今まで一度も使ったことがないトースターにセットしたが、またしても難題が彼を待ち受けていた。
果たして何分焼けば、この食パンには綺麗な焦げ目が付いてくれるのだろう?
解らない。お湯の沸かし方くらいしか知らなかった彼にとっては、トーストですら未知の料理に分類されるのだ。
焼ければ何分でも同じだろうと思い、取り敢えず「10分」とセットした。元の色を忘れ、炭と化したそのトーストは、とてもではないが食べられたものではなかった。
次の2枚は3分で焼いた。取り出したトーストにはゲンのよく知る綺麗な焦げ目が付いていて、ほっと一息吐き、その時点で思い出したようにはっと後ろを振り返った。
彼女は当然のように椅子に座り、当然のようにゲンを見ていた。

「危ないことをしないように見守っていてほしい」という昨日の彼の言葉を、彼女は覚えていてくれた。
それだけのこと、けれど彼女との時間が確かに積み上げられ始めていると確信できる事象を噛み締めてゲンは笑った。

「君がいてくれてよかったよ」

朝食を食べ終えた少女にそう告げれば、彼女は重たげな視線をこちらに向けて僅かに首を傾げた。
牛乳は一口、トーストは三分の一くらいしか彼女の胃には収められなかったが、取り敢えずそれでもいいと思うことにした。
10時頃になったら、おやつと称して冷蔵庫の中にある苺のゼリーを出してみよう。そんなことを思いながらゲンはグラスに残った牛乳を飲み干して続ける。

「カレーの作り方も、お米の研ぎ方も、野菜や水の重さも、君と暮らさなければ私はずっと知らないままだっただろうからね。料理をするというのも存外、悪くないものだ」

「……」

「何か食べたいものがあれば遠慮せずに言ってほしい。何でも作るとは言えないけれど、できるだけ努力してみるよ」

彼女はぱちぱちと緩慢に瞬きをして、長い沈黙を置いてからゆっくりと頷いた。
窓の外に視線を移せば、風こそ弱まっていたものの、雨は勢いを衰えさせることなく降り続けていた。


2016.5.14

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