電車の旅は思っていた以上にスムーズだった。
ヨロイ島へのチケットを見せると、駅員は微笑んで「ああ、ヨロイパスですね」と頷き、快くその未知なる場所への行き方を教えてくれた。ホワイトヒル駅からブラッシータウン駅まで一気に南下し、そこから別の電車に乗り継ぎを行うらしい。ブラッシータウン駅までは乗り継ぎなしであったため、ずっと座っていればよかったのだけど、ナックルシティやエンジンシティの駅で途中停車する度に、誰か乗って来やしないか、私の前で立ち止まりやしないかと考え、肝が冷えた。けれどもそうした私の心配は杞憂であり、早朝の車両は今まで経験したことがない程に閑散としており、同じ車両には私の他に、たった一人しか乗り込んでこなかった。
小さなトートバッグを手に乗り込んできたその小柄な若い女性客は、向かい合わせになって座るタイプの座席、私がよくホップと電車に乗る際に利用していたあの席に腰掛けた。私がその様子を警戒して観察していることに気が付いたらしく、彼女はその鋭い目で私を一瞥した。その後はふいと視線をトートバッグに落とし、そこからドーナツを取り出してかじりつき、……二度とこちらを見ることはなかった。
前下がりのワンレンボブは鮮やかな黒いカーテンのように私と彼女を隔てていて、私は彼女の世界からもう既に排斥されているのだということがとてもよく分かった。この人は私のことを知らないし、知っていたとしても私に露ほども興味がないのだと確信できた。だから私は安心して目を細めつつ、そのまま電車に揺られた。世界を完璧にその黒髪で閉ざした女性が、その、緑色のカビが生えたようなドーナツを少しずつ口へと運ぶさまを、ガラルの朝もやを背景にぼんやりと楽しんでいたのだった。
ブラッシータウン駅で一度下車し、ヨロイ島行きの電車が出るまでの1時間程度を、私は駅のベンチで居眠りをすることでやり過ごそうとした。けれど、どうしても眠れなかった。見つかりやしないか、連れ戻されやしないか、何故このようなことをしたのだと責められやしないか。そうしたことが頭の中をぐるぐるとして、目を閉じたはいいものの、一向に眠くならなかったのだ。随分と無謀かつハイリスクな冒険をしているという事実、それを噛み締めているだけであっという間に時間は過ぎていく。私はヨロイ島行きの電車に乗り、しばらく列車に揺られてから、海を渡る手段としてアーマーガアの、通称「そらとぶタクシー」を利用した。
早朝の海は紫色を僅かに孕んでいた。宝石のような水だった。ワイルドエリアにこのような色をした湖はなかったように思う。綺麗だ、とても、夢のよう……などという、拙さを極めた感想しか脳内で編めなくなる程に、今の私は落ち着きがなかった。早く、早く着いてほしいと、そうしたことばかり考えながら、睨み付けるように眼下の海を見ていたのだ。
もうすぐ朝の7時であるとスマホロトムの画面が告げてくる。空腹を覚えるに十分な時間だった。確かカレーの具として取っておいたパンがあったはずだと、私は鞄からそれを取り出し、そらとぶタクシーに揺られながら2分で食べた。モンスターボールの中、ねがいぼしの化身はこちらに顔を向けたままだった。目の場所が分からないので表情も読み取れないけれど、きっと私の粗雑な食事風景に呆れているのだろうと思った。ほらご覧よ、私はこういう人間だよ。そう知らしめるように笑いながら一気にパンを飲みこんだ。少しむせた。
「ねえ、ねがいぼしの化身様、もう一度だけ私の懺悔を聞き届けてはくださらないかな」
温くなってしまっても十分に美味しい水を、パンを軽く詰まらせた喉へと流し込みつつそんなことを口にした。ねがいぼしの化身様、ムゲンダイナは人の言語を操らないが故に、私のそうした言葉に肯定も否定も示さなかった。ボールの中で頷くことも首を振ることもせず、ただじっとこちらを見上げるばかりだった。何処にあるのか分からない彼の目と、視線が交わらないことだけをただ惜しく思いつつ、私はにっと微笑んでから、再びゴンドラの外へと視線を移した。
ヨロイ島は随分と広大だった。洞窟や湿地など、自然が複雑に入り組んでいる様が上空から観察できた。赤い屋根と青い屋根の高い塔、駅の近くにある平らで大きな建物、変わった形の小島、雪よりも眩しい砂浜、夜よりも深い海。そうしたものが散りばめられていた。そして幸運なことに、人の姿は確認できなかった。
「相手の望むものになることは得意なんだ。そうして得られる感謝や称賛は間違いなく私の心を支えてくれたよ。皆の言葉があったから、私は此処までやって来られたんだ」
左手の中、ムゲンダイナのボールに語り掛けながら私は考える。これからの短い猶予期間、いつ終わるか分からないこの冒険において、私が望むことが何なのかを、考えてみる。
「でも私は、自分が望むものになることで肯定されてみたかった。感謝や称賛が得られずとも、ただ、認めてもらえるだけでよかったんだ。でも、結局叶わなかった」
遠くに見えるあの島に何があるのかは分からない。どんな体験ができるのか全く予想が付かない。でも突飛なものであればあるほどいいと思った。幼稚で、非効率で、馬鹿げていて、一見、何の役にも立たなさそうなもので溢れていればいいと思った。今までの、劇的かつ数奇な運命に振り回され過ぎたあの旅を「つまらない」と笑い飛ばせるようなもの。正しさや期待や理想にしがみつくことなく、幼い子供がじゃれ合うような、頭の悪い生き方を許してくれるようなもの。
「勿論、皆のせいじゃないんだよ。これは私の欠落のせい。長い旅が終わろうとしている今になっても尚、私自身の望みが何処にあるのか、ただそれだけのことを解明できずにいる、そうした私の欠落が、私の不満足の決定的な要因だ」
最後のチャンスだと分かっている。だから私は、在り得ないことが分かっていながらも、万にひとつの可能性をそっと夢見る。ボールを握り締めて、祈るようにかたく目を閉じる。
あの島に流れているであろう、緩く優しい時間の中でたった一つ「お気に入り」を見つけられたなら、私が「これでなければ」と思える何かに会えたなら。
その何かはきっと、私のかけがえのないものになる。
「もし私がこの猶予期間に何も変わることができなければ、その時は、どうか私を見限ってほしい」
貴方に諦めてもらえたら、きっと私もこんな馬鹿げた夢を捨てて、チャンピオンとして適切なガラルの要になることを受け入れられるはずだ。叶わない夢を手放して、現実に生きることを許せるようになるはずだ。そのための猶予期間なのだと思うことにした。最後にもう一度だけ、夢を追うチャンスを、あの見知らぬ島が与えてくれたのだと思うことにした。
ガタン、と派手な音を立ててゴンドラが地面に下ろされる。目を開けると、ブラッシータウン駅と同じデザインの改札口が見えた。どうやらヨロイ島の駅に着いたようだと判断し、タクシーにお礼を告げて駅へと転がり込む。すぐにでも外へ飛び出してしまいたかったけれど、そうは問屋が卸さなかった。駅の入り口で若い女性が呆然と立ち尽くしていたのだ。
「どうしたんだい」
女性……と呼ぶには少々幼い顔立ちをしている彼女は私の声を受けて弾かれたように振り返り、その茶色い目に私を映した。青や緑の目をした人の多いガラル地方において、この色をした目、私のそれと同じ色調を他者の目に見つけられる機会は滅多になく、驚きと些末な喜びに私は思わず微笑んでしまった。一方の彼女は手に持っていた白い日傘をゆるくほどき、再度くるくると巻き付けて畳みつつ口を開いた。
「此処の道場へ入門するために来たトレーナーが、駅の前にいる男の人を怖がって、そのまま帰っちゃったの。どうしようかなって思っていたんだけど、でも、貴方が来てくれた」
「へえ、この島には道場があるんだね。……貴方は出ていかないの?」
「そうだよ、私は此処まで。さあ行ってらっしゃい、貴方ならきっと素敵なことが起こせるよ」
彼女はそれ以上を語ろうとはせず、薄く優しく傲慢めいた笑みを湛えてから私の横をすっと通り過ぎていった。ひゅう、とつい2時間前に私の背中を叩いたあの冷たい風が、あの時よりもささやかな形でそっと吹いたような気がして、私は慌てて振り返った。けれども駅のホームにはあの白い日傘も、茶色い瞳も見当たらず、朝7時の眩しい朝日がヨロイ島の駅にぽろぽろと転がり込むばかりだった。
冷たい羽に心臓を撫でられたような感覚はまだはっきりと残っていて、私の肌は少しだけ粟立っていた。左手にずっと握り締めていたムゲンダイナのボールが、何かを訴えるように一回、二回と大きく揺れた。
実に奇怪な体験だ。けれどもこうしたことに出くわすのは初めてではない。ナックルシティで出会った不思議な女の子に、アラベスクタウンの老紳士へ手紙を渡してほしいと頼まれたあの体験を思い出しながら、ただ旅をしていただけのはずなのに、いつの間にかねがいぼしの化身を手中に収めてしまった今を思いながら、私はもしかしたらそういう「変わったもの」に好かれる傾向にあるのだろうか、などと、怪奇への思い上がりを胸に抱きつつ、改めて駅の出口に視線を向ける。向けて、そして息を飲む。
「ふむ……あなたですよね。ワタクシに誘われる旅人は」
成る程。……成る程、間違いない!
思い上がりついでに、私は寝不足の頭であまりにも早計な結論の出し方をした。私は怪奇に好かれている。間違いなくそうである。でなければ、このような現象にさっきの今ですぐ出くわすはずがない。黒いシルクハットの周りをモンスターボールがぴょんぴょんと飛び回っている、などという、致命的におかしな現象に、並の人間がそう簡単にお目にかかれるはずがないのだ。
「約束の時間ジャスト、とてもよい心がけですね」
丸眼鏡の奥、水色の目が称賛の言葉と共にすっと細められている。エスパータイプのユニフォームには「026」の数字が刻まれていて、彼がポケモントレーナー、それもジムチャレンジの関係者であるということが一目で分かる。名称不明のヒラヒラとした黒い布が胸元を飾っていて、それもとにかく、目立つ。黒いハイソックスにもヒラヒラが付いていて、男性でありながらその足は踵の高い靴で覆われている。……端的にこの青年を表現するならば、そう「奇抜」だ。
自己顕示欲がこれでもかという程に表出された、派手を極めたその装いは、普通なら遠巻きに見られるか、忌避されるか、恐れられるかして然るべきだ。この青年は普通じゃないと、そう判断してしまったとしても無理からぬことだろう。現にそんな彼の風貌に恐れおののいて、「道場入り」とやらを予定していた「トレーナー」は、その入門をキャンセルして逃げ帰ってしまっている。先程の少女の発言を信用するならそういうことだ。そして彼はおそらく、その逃げ帰った「トレーナー」を私だと勘違いして話しかけている。此処までの推測は、外していないはずだ。
「ワタクシはセイボリー、あなたの先輩にあたる者です」
けれどもそんな装いなんて私にはどうでもいい。彼の性格が普通であるか普通でないかなどを気にしている場合ではない。今見るべきはそのシルクハットの周りを跳ねている「それ」だ。
私は目を擦った。睡魔を誤魔化すためではなく、シルクハットの周りを楽しそうに飛び回るそのボール達が、私のめでたい幻覚である可能性を確かめるための行動であった。けれども強めに擦り、瞬きを意図的にぱちぱちと繰り返してみても、やはりボール達はそのまま宙で踊り続けていた。幻覚ではない、夢を見ているのでもない。ならば私はこの青年に、私にとって致命的かもしれないものを持っている彼に、尋ねなければならない。
ねえ、君のそれは何なんだ? 手品か、怪奇か、それとも魔法か?
「……ふむ、これが気になりますか?」
セイボリー、と名乗った彼は、右手の指先でくいと宙を撫でるようにして、ボールを一つだけ取り上げた。育てたオレンの実を収穫するような慈愛に満ちたものではなく、魔法使いがランタンに火を灯すような、現実離れした神秘的な手つきだった。指先から数センチ離れたところでふわふわと漂うそれは、彼の水色の視線に従うようにして私の目の前にやって来た。
何も入っていない空っぽのモンスターボール。ショップで200円を出せば手に入れられるそれ。けれども私の目にはどんな宝石よりも輝いて見えた。トレーナーにとっては馴染みのありすぎる、悪く言ってしまえばありふれた代物を、ここまでドラマチックに「魅せる」相手に出会ったのは初めてのことだった。衝撃に息を詰まらせ瞬きさえ忘れていた私、その眼前でモンスターボールを躍らせながら、彼は得意気に微笑んだ。
「エスパーパワーを見るのは初めてのようですね。どうです、エレガントでしょう?」
強烈な毒に蝕まれたような、ふわふわとした眩暈に襲われつつ、私はこれまでの旅で私が出くわしてきた、それなりに不可思議であったはずの出来事の数々を思った。ナックルシティで女の子から受け取った不思議な手紙。私の左手で今は大人しく沈黙しているねがいぼしの化身。一晩中、窓を叩き続けたあの夜風と、私にこの島への切符を寄越したあの冷たい風。「貴方ならきっと素敵なことが起こせるよ」というささやかな激励だけを残して、霧のようにいなくなったあの少女。
これまでのそんな全てを「つまらない」と笑い飛ばせるような存在に、出会えたらと思っていた。期待に応えるばかりの、ただ従順なだけの私は、そのたった一つの存在だけをこの島に望んでいた。この猶予期間にそうしたものへと出会えなかったなら、もうすっかり何もかも、諦めてしまおうと思っていた。
ああ、でもそんな存在が、もう手に入ることなどなかろうと半ば諦めていた「それ」が、こんなにも早く私の目の前に現れてくれている。私の望み、たった一つ、劇的な何かとの邂逅。それがまさに今、叶っている!
「これ、私にもできる?」
「……え?」
目の前で踊るモンスターボール、神秘と希望の象徴たるそれを右手でぱっと捕らえてから、私はぐいと大きく一歩を踏み出し、距離を一気に詰めて彼を見上げた。ふっ、と彼の呼吸が一瞬だけ滞る音が私の鼓膜をくすぐり、ああなんて光栄なことだろう、などと、思ってしまった。
2020.6.21