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「マツブサさん。私をマグマ団に入れてくれませんか?」

その日、少女は唐突にそう言ったのだ。

マツブサは思わず、手にしていた書類の束を取り落とす。二人の間の沈黙は、バサバサという紙の擦れ、落ちる音が埋めてくれた。
慌てて駆け寄り、その書類を拾おうとする少女の腕を、マツブサは咄嗟に掴んだ。

「え、」

「切り口が鋭い紙だからね、手を切ってしまうといけない」

すると何を思ったのか、少女はその顔に珍しく動揺の色を浮かべた。
しかしそれは一瞬で、「何を言っているんですか、旅をしていれば怪我なんて日常茶飯事ですよ」と笑い、持ち前の力でマツブサの手をそっと払った。

「それを言うなら、マツブサさんだって怪我をしてしまいますよ。
いつもそんな紙を扱うお仕事をしているのなら、薄い手袋が必要なんじゃないですか?」

「む、……そうだな。今度用意しておくとしよう」

そう呟いたマツブサに書類を渡した少女は、いつもの笑みを湛えて首を軽く傾げた。

「それで、あの、私をマグマ団に入れてくれますか?」

先程の言葉は幻聴ではなかったことをようやく確認したマツブサは、せり上がって来ていた溜め息を飲み込んだ。
またこの少女は、どうしてそんな唐突なことを言い出すのだろう。
彼女が不可解なのはいつものことであったが、今回の発言は一際理解の及ばないものであった。
マツブサは困り果て、仕方なく、情報を得ることにした。

「……そうだな、理由次第では考えよう。聞かせてくれないか」

16歳の子供を組織に入れることに抵抗がある訳ではなかった。自分が目を掛けている少女と職場を同じくすることが嫌な訳でもなかった。
ただ、理解できなかったのだ。

マツブサはこれまでも、この不可解な少女を理解しようと努めてきた。
嘘吐きでありながら、どこまでも真摯で生真面目な少女。可愛いものが好きでありながら、そうでないものにも等しく愛情を与える優しい少女。
何もかもを造作もないと言い放ちながら、その頼もしい筈の笑顔に、謎の引力と儚さを含ませる神秘的な少女。

それらを考察し、想像した。
限りなく近い結論に近付いた時もあれば、寧ろ遠ざかり、彼女を益々不可解にしてしまう時もあった。
彼女とのコミュニケーションはサイコロを振る行為に似ている、と思う。どう転ぶのか、踏み出すまで全く解らないのだ。
解らないものに対して、しかしマツブサは憶することを止めた、怯まず、拒まず、この不可解な少女と向き合おうと決めたのだ。
その理由は最早、言うまでもない。

「ずっと此処に居たいのなら、そうすればいいのだよ。前にも言ったが、1時間でも1日でもゆっくりしていくといい」

「ふふ、それはとても嬉しいことだったんですが、最近はなんだか、それに甘んじることが申し訳なくなってしまって」

「つまり組織の一員となって、私に、マグマ団に貢献したいと?
私としても、キミのような逸材を捨て置くのは惜しいと思っていた。だから拒む理由はない」

顔にぱっと花を咲かせて「本当ですか?」と高い声音で紡ぐ少女に、マツブサは僅かに笑って、付け足す。

「ただし、それが本当の理由ではない場合は、考え直さなければなるまい」

その目を大きく見開いて、数秒の沈黙の後に、少女は僅かに首を傾げた。
マツブサは少しの間、悩み、この少女から本音を引き出す手段を脳裏で模索していた。
その結果、彼女を正直にするには、自分も正直にならねばなるまいという結論に達したのだ。
故にマツブサは、肩を竦めて少女の肩を叩いた。

「私は、キミと毎日、此処での時間を過ごすことに満足していたのだよ。
キミは組織の雑務をこなさずとも、そこに居てくれるだけで、立派にこのマツブサに貢献していた。……もっとも、それは私の贔屓目で見た場合の話かもしれないがね」

「……」

「けれど、キミはそれに満足しなかった。それは何故だ?この時間を重ね続けることが不安になったか、あるいは、……嫌気が差したか、」

「ち、違います!」

少女は大きな声をあげてかぶりを振った。
マツブサはとうとうおかしくなって小さく笑う。
解っていたのだ、彼女が即座に否定の言葉を紡ぐこと。悲しそうな顔をすること。それを解っていて、マツブサはそんなことを紡いだ。
悪戯が好きな少女の癖が自分にも移ってしまったのだろうか。それとも、笑顔とはまた別の少女を見たいという衝動の結果だろうか。

しかし、マツブサとて、そうした悪戯心だけでそうした言葉を投げた訳ではなかった。
即座に否定の言葉を吐き出した少女が、そのまま本音までもを吐露してくれまいかと謀っていたのだ。

「違います、私は、」

けれども少女はそこで言葉に詰まる。言いにくそうに視線を落として、服の裾を手でぎゅっと掴み沈黙する。
幼子のような仕草に、思わずマツブサはその頭を撫でてしまう。それでも顔を上げた少女は、いつものように笑っているのだ。

この少女は嘘吐きだ。しかし、とても正直でもある。
声音は、その笑顔は、どうかばれませんようにと願っているようにも、ばれる筈がないと自信に満ち溢れているようにも見える。
しかしそのちょっとした仕草は、縋るようなその視線は、見抜いてくださいと懇願しているように見えてしまうのだ。
マツブサのその見方は正しくないのだろうか。最強と歌われるこの少女にそうした儚さを見出すことは間違っているのだろうだろうか。

けれど、困ったような笑顔を浮かべて肩を竦める少女は、マツブサを打ち負かしたトレーナーでも、世界を救った英雄でもなく、彼が焦がれた一人の儚い人間だったのだ。
その確信は、間違ってはいない。マツブサはそう断言することができた。
だからこそ、彼はサイコロを振ることを躊躇わない。理解できないこの少女を、理解しようと足掻くことを止めない。

「……理由が、欲しいんです」

「!」

「貴方の傍に居られる理由が欲しい。だから、マグマ団に入れてほしいと思ったんです」

不純な動機でごめんなさい、と零して笑う少女に、マツブサは心から安堵する。
どうやらそれは心からの本音らしいと納得し、子供らしい理由ではないか、とほの甘い心地になる。
複雑に絡まれた不可解な少女の一部が、少しだけ紐解かれた気がしていた。つまるところ、この少女だってマツブサと同じ、何の変哲もない人間なのだ。
つまらないことに思い悩む、年相応の少女なのだ。マツブサはそれに酷く安堵していた。
マツブサは少女の肩を抱き、ソファへと誘導して座らせた。

「ありがとう」

少女はその目を大きく見開く。

「それはキミの本音だろう?嘘吐きで冗談が得意なキミの、正直な言葉だ。聞かせてくれたこと、感謝しているよ」

すると、マツブサが予想だにしていなかったことが起こる。
少女は物凄い勢いで、肩に置かれていたマツブサの手を振り払い、そのまま駆け出したのだ。
マツブサも反射的に立ち上がり、彼女を呼び止めようと叫ぶ。

トキ!」

するとマツブサの予想に反して、彼女の足はぴたりと止まった。
怪訝な顔をするマツブサに、少女は満面の笑顔で振り返って駆け戻り、マツブサの腕にひょいと飛び込んでクスクスと笑ったのだ。

「マツブサさんは、凄い人ですね」

「……そんなことはない筈だが」

「ううん、とっても凄い人です。だってこんなにも素敵な声で私の名前を呼んでくれる人に、今まで出会ったことがないんだもの。
きっとマツブサさんの声には引力があるんですね」

それはこちらの台詞だと、マツブサは伏せられた少女の笑顔を思い出してそう心中で呟いた。
クスクスと笑いながら紡ぐ、その声が少しだけ揺れていることには、気付かない振りをしよう。


2014.12.10

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