「このままくっついていたら、二人の血が混ざってしまうかもしれないね」
男は笑いながらそんなことを言った。少女の華奢な肩に覆い被さり、その身体を温めるかのように抱き締めている。
通常なら頬を軽く染めるか、あるいは慌てたように言い返すくらいの可愛らしい反応を返すべきであったのだろう。
けれど当人である少女はただただ苦笑していた。何故ならこの体制がかれこれ数分は続いていたからだ。
それでいて少女の負担にならないように、身体を包みこそすれ、体重を掛けることはしていない。そんな配慮を知っているから、彼女はその腕を退けることができずにいる。
二人はこれ以上近くに迫ることも、離れることもできずにただそこに在る。
血液が混じらずとも、二人の温度はとうの昔に溶けている。ひとたび同じ温度になってしまえば、二人が「一人」であった頃の温度を思い出すことはもう、不可能だった。
「シェリー、寒くないかい?」
「大丈夫ですよ、寧ろあったかいです」
少女は苦笑した。寒そうに身体を震わせているのはいつだって彼のほうで、男はこうした自分の思いを疑問形にして少女に投げることを癖にしていた。
それが臆病で残酷なまでに優しい彼の精一杯の甘えだと知っていた。だから少女はそれに甘んじることにした。時間も体温も心も全て、その為に捧げると誓ったのだ。
二人は前へと進めずにいた。否、この言い方は正確ではなかったのだろう。正確には、少女の方は今すぐにでも歩き出すことができたのだ。
しっかりとした歩幅を刻むにはまだ危なっかしいが、それても歩は進められると確信できた。進めた後のことはそれから考えればいいと思っていた。
それを拒んだのは他でもないこの男だった。行かないで、と子供のように縋られた記憶を思い起こせば、それは生々しく少女の心を抉った。
いつだって少女を誘導し、その脆い心を支えた彼の心もまた脆かったのだと、彼だって崩れ落ちる寸前だったのだと、
そうしたことを、彼女は彼の「行かないで」というたった一言で初めて知るに至ったのだ。
「あの瓦礫の中はもっと寒いんだろうね」
ほら、男はこんなことを言うのだ。
男と交友があったあの人のことを、今でも少女は鮮明に思い出すことができた。鮮やかな赤と濁った黒、アイスブルーの射るような目、その全てを少女は覚えている。
救えなかった、彼を救えなかった。
そう言って少女は自分を責めた。しかし罪の意識に苛まれているのは少女だけではなかったのだ。
「ボクが殺したんだよね」
「博士、違います」
「いいや、ボクだよ。ボクが殺したんだ。彼を止められなかった。気付いていながら何もしてあげられなかった」
彼はそんな言葉を重ね続けている。二人はあの人を葬り去ることができなかった。どうしても、どうしても過去のものにしてしまうことができなかった。
どうすれば良いのだろう。少女は考え続けていた。彼も苦しんでいることを知ってからはそれに焦りも加わった。
どうすれば良いのだろう。どうすれば私達は前へと進めるのだろう。どうすればあの人を忘れられるのだろう。どうすれば、どうすれば。
「これは、罰なのかな」
彼は私を抱き締めてそんなことを言う。あの人を記憶の隅に押しやることが出来ない癖に、一人で悩み続けるのはどうしようもなく怖いのだ。だから彼は少女の前でしか泣かない。
そして、それは少女も同じだ。
「何の罰ですか」
「!」
「ねえ博士、私達が何をしたんですか?私達は何もしていない、全部あの人が勝手にやったことです。私達は何も悪くない」
それは殆ど自分に言い聞かせた言葉だった。少女は半ばこの男に苛立ちを募らせていたのだ。
何故なら彼はあまりにも少女に似ていたからだ。そして少女は自分のことが好きではなかったからだ。
「悔しいね、ボク達は彼に振り回されてばかりだ」
男は乾いた笑みでそんな言葉を吐き捨てた。
自分と同じように悩み、苦しんでいるこの人が愛しい。この人には元気になってほしい。
少女が支えて貰った時間は、彼に対する愛情に似たものを呼び起こさせるに十分な温もりを持っていた。
彼の全てを許すことができた。彼がどんなに悩んでも、苦しんでも、それに苛立ちを感じこそすれ、彼を見捨てて一人で歩き出すことはどうしてもできなかった。
この人には元気になって欲しい。
「……」
もしかしたら焦ってはいけないのかもしれない。
少女が焦って赤いスイッチを押してしまったように、それは過ちを招きこそすれ、決していい方向に傾くことなどあり得ないのではないか。
だからこその袋小路がそこにあり、二人が此処から脱却するには、一度自由にならなければいけないのではなかったか。
忘れることを、急いてはいけなかったのではなかったか。
「博士、私達はあの人のことを覚えていてもいいのかもしれません」
少女を抱き締める力が急に弱まった。動揺を汲み取った彼女は、逃げられないようにその腕を掴んで自分の身体の向きを変える。
彼を向き合い、少女と似た色をした目にそっと話し掛ける。
「あの人に許されなくてもいいのかもしれません。忘れなくてもいいのかもしれません。このまま背負って生きていくのも、いいかもしれません」
「……怖く、ないかい?」
彼の声は震えていた。怖いかどうかと聞かれれば勿論怖かった。
二人はその重さに耐えきれずに押し潰されてしまうのかもしれない。もしくは途中で耐えられなくなって投げ捨ててしまうのかもしれない。
しかしそんな杞憂は今回のことに限ったことではなかった。リスクは日常のあらゆるところに転がっていて、それを気にしていてはキリがない。
だから少女は、一番の心配を掲げることにした。
少女の一番の心配、それは自分が一人になってしまうことにあった。
彼もまた一人になることを恐れていたのだから、少女が同じことを危惧していたとして、それは当然のことだったのだ。
どんなに辛いことでもいい。しかしそれを自分だけが背負い続けるのは嫌だ。一人は寂しい。ただそれだけ。そしてその不安は、目の前の彼が取り払ってくれる。
「どうして?貴方がいるのに」
私達は一人ではないのに。
彼は腕を伸ばして、今度こそ少女を力強く抱き締めた。痛さすらも愛おしくて彼女は笑った。
この人を救えるなんて自惚れるつもりはない。ただ男と少女とは今、全く同じことを憂えていて、その全く同じことを、一生を掛けて背負っていく覚悟が二人にはある。
その確信だけで十分だった。それさえあれば少女は笑って手を伸べることができた。
「シェリー、ごめんね」
「……」
「こんなボクでごめんね」
二人は一生苦しむのかもしれなかった。しかし今はそれでいいと思えた。
二人で生きていれば、もっと楽な生き方を見つけられるのかもしれない。もしくは過ぎる時間があの人を葬ってくれるのかもしれない。
つまるところ、ここで苦しみながらなにもせずに日々を先送りすることを彼女は許さなかった。彼もそれを望んでいた。だからこれはそれを叶える魔法の言葉にしよう。
これから歩き出せばいい。いつかきっと、こんな苦しい時間も笑える過去に変わってしまうから。
それを悲しいことではなく、寧ろ時間が生む素敵な贈り物だと思える程には、少女は男に似た残酷な優しさを持ち合わせているのかもしれなかった。
つまりこの二人は、悉く互いを愛し過ぎていたのだろう。
2013.11.28
2016.8.30(修正)