サバイバー

カロスという美しい世界は、その世界の救世主たるこの少女が、たった一人の名前を紡ぐことをゆるやかに禁じた。
少女は輝かしい栄光を押し付けられ、彼女の姿はその栄光に取って代わられた。
その結果、寂しく独り歩きを始めた彼女の心を、栄光に目が眩んだ人々は誰も認めやしなかった。そうして彼女は疲れていった。

だからこそ、男はこの少女が内に秘める「たった一人の名前」を、どうにかして彼女の口から聞き出さなければいけなかったのだ。彼は焦っていた。
もし彼女が首を振り続けたとして、大丈夫だと虚勢を張り続けたとして、ではいつ、その虚勢は解かれるというのだろう。彼女は誰にならその名前を口にできるというのだろう。
誰もいない。いる筈がない。彼女は誰にも心を開かない。彼女自身に開くつもりがないのなら、誰かが開かなければいけない。
そうした「憎まれ役」を、買って出る覚悟ならもう彼には十分に出来ている。彼はもう、失う訳にはいかないのだ。

「いいんだよ、シェリー。失ってからその大切さに気が付くなんてことはとてもよくある話なんだ」

「違います、博士。違うんです」

少女はそう繰り返していた。ひたすらに男の仮説を否定し続けていた。
少女は何に苦しんでいるのだろうか。彼はその主たる原因を特定することができずにいた。
何故なら少女が抱え、苦しんでいたものは余りにも多かったからである。それらはこの華奢で臆病な少女の身の丈には大き過ぎたのだ。

今や少女はカロスを救った英雄であった。しかしそれが何だというのだろう?
その少女が、今にも死にそうな程に強い「生への倦怠感」を湛えていることに気付いていた彼にとって、そのような栄光など何の意味もなさなかった。
寧ろその輝かしい功績すらも、少女の首を絞める要因であることを彼は知っていたのだ。
そんな少女が、決して口にしてはならない言葉を、それでいてたった一つの些細な願いを、胸の奥底に沈めていることすらも、彼は知っていたのである。

「いいんだよ、シェリー。ここにはボクと君しかいないから。誰も君を責めないから」

彼は少女をよく知っていた。
だから、思いの丈を全て吐き出せと迫るよりも、何を考えているのと問い詰めるよりも、こうしてただ、少女の言葉を許すことが最も彼女の心を動かすのだと心得ていたのだ。

やがてその、数え切れない程の許しに絆された少女は、消え入りそうな声で、しかし確かにその名前を紡ぐ。

「フラダリさんに謝りたい」

そう言って、少女はぼろぼろと涙を零し始めた。ああ良かった、と彼は安堵した。やっとその名前を聞くことが叶ったのだ。
「彼」を切り捨てた少女が、フレア団を壊滅させてカロスの危機を救ったこの少女が、決して口にすべきでなかったその願い、たった一つの後悔。
それを彼女は、長い時間をかけてようやく彼に開示するに至ったのだ。

「私、なんてことをしたんだろう。フラダリさんを見殺しにした。私はフラダリさんを選べなかった」

「……うん」

「だから、私が選んだカロスだから、大事にしなきゃいけないのに、ちゃんと生きなきゃいけないのに、できないんです。
怖いんです。私はきっと、これからもっとカロスに相応しくなくなる」

ちゃんと生きる、というその言葉に、彼はフラダリの思想がこの少女にも影響を及ぼしていることを悟った。
フラダリには無意味で無益な時間を重ねているだけに見えた人間にも、その実、彼等なりの懸命に生きた世界が展開されているのだ。
そのことに彼は気付けなかった。恐ろしい程に膨れ上がった彼の自尊心が、世界を多面的に見ることを拒んだのだ。
それと同じことが目の前の臆病な少女に起こっていることに彼は愕然とした。そして焦った。恐ろしくなった。
いけない、いけないよシェリー。君は彼のようになってはいけない。

シェリー、ボクはそうは思わないよ」

「嘘を付かないで、」

「ううん、本当だよ。シェリーの世界はシェリーだけのものなんだ。ボクは、フラダリさんの考えが正しかったとは思わない。正しかったのは君だ。君がカロスを救ったんだ」

溢れる涙を両手で拭いながら、少女は乱暴に頭をふるふると振って否定の意を示した。
違わないよ。ボクはそう思っているよ。本当だよ。そう繰り返していた。

絶対的なものなど何処にもなくて、そんなものを作り出して少女に与え、安心させてやることなどできそうになかった。
彼が伝えられるのは「ボク」の意見だけだった。ボクはそう思っているよ。君はとても頑張っていると思うよ。
そう伝え続けていた。少女を変えようなどというおこがましい気持ちは更々なかったが、その誠意が伝わることで変わるものは確かにあると信じていたのだ。
何故ならこうして少女が思いを吐き出せる相手が、他でもない自分だけであることを彼は知っていたからである。
そして、それは彼も同じだった。

「君は何も悪くないんだよ」

「……」

「君が自分を責めたい気持ちは解る。君の苦しみを解ってあげたいと思っているよ。でもね、ボクは君が大切だ。君に苦しんでほしくない」

彼は少女ではない。故にその思いを完全に推し量ることは不可能だった。
個人の思いはその個人だけに科せられた唯一無二のものだからである。誰もそれを当人から奪い取ることは許されないからである。
奪い取れないからこそ尊いもので、だからこそ、その思想ではなく個人そのものを尊重する必要があるのだと、そうすることができるのだと、彼は確信していた。
君の考えは尊重するけれど、ボクは君に苦しんでほしくない。
これが彼の言える最大の主張だった。それは少女に似てとても臆病な言葉であり、しかしどんな説得よりも深く少女の心に染みるに至ったのだ。

「フラダリさんに会って、どんな風に謝りたい?」

ぼろぼろと零れ続ける涙を拭う、その手伝いをするように彼は少女の目元に両手を延べた。
泣き続けた少女の頬は冷え切っていた。壊れ物を扱うようにその頬を両手で包んだ。
自分の考えが尊重されていること、口にしてはいけないその願いが此処では許されていることに少女は安心したのか、ぽつりぽつりと言葉を続けた。

「お話をちゃんと聞けなくてごめんなさい」

「……そうだね、あの時は一刻を争っていたから、話し合う時間なんかなかったよね」

「ゼルネアスを奪ってごめんなさい」

「それはどうかなあ、元々、ゼルネアスは彼のものではなかったから」

彼は少女に纏わり付いていた黒い影が剥がれていくのを感じていた。彼と少女はとても似ていたが、フラダリと少女だってその実、似ているところがあり過ぎたのだ。
この臆病で引っ込み思案で泣き虫な少女に、友人の影を重ねて見ることは難しくなかった。
そのことを嬉しく思っていた時期もあった。しかし今は少女を他でもない少女として見られることにこそ、喜びと安堵を見出すことができるのだ。
やがて涙を完全に止めた少女は、しかし再び泣き出しそうな顔をして最後の言葉を紡ぐ。

「助けてあげられなくて、ごめんなさい」

思わず彼は少女の背中に手を回していた。そっと抱き寄せて、綺麗なストロベリーブロンドの髪を静かに撫でる。
ああ、君はこんなに苦しんでまでも、まだ誰かを守りたいと思うんだね。誰かと関わることに極度のコンプレックスを持ちながら、それでもそんな彼等の中で生きていたいんだね。
そのアンバランスに心が震えた。歪な信念は少女の中で確かに形となりつつあったのだ。

フラダリも少女も、力を持ちすぎていた。それは彼等が抱えきれるものではなかったのだ。
だからこそ、彼は決意していたのだ。今度こそ、失わないようにと。そのためにできる限りのことをしようと。

「大丈夫だよ。君が言ったこと、きっとフラダリさんも知っていたよ」

そう言うと、少女は冷たい手を彼の背中にそっと回した。
あやすようにゆっくりとした速度で叩かれていることに気付いた彼は、込み上げてくるものを誤魔化すために、少女を抱き締める力を強くした。
彼と少女は似ていたのだから、あやされる立場が逆転したとして、それは何らおかしなことではなかったのだろう。


2014.2.14
2016.8.30(修正)

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