カチャリ、と2階のキッチンの鍵が開く音がして、思わず立ち上がってそちらを見遣れば、一人の少女が薄く開けた扉へとその細い身体を滑り込ませているところだった。
あの子は「彼」の代わりに、あたくしの師へ毒を淹れる役目を担うことを選んだのだと、そう思ったら居た堪れなくなった。
研究中であったあたくしにはこれからもしなければいけないことが分刻みで用意されていたけれど、その全てを放り出すように、仕事の象徴である白衣をばさりと脱ぎ捨てた。
ドアがそっと閉められる直前、ドアノブを掴んで引き留めれば、姿を消そうとしていた少女の、はっと息を飲む悲痛な音が聞こえた。
ああ、この少女は呼吸の音でさえも痛々しいのだ。「ごめんなさい」と息をするような自然さで紡ぐ少女は、息をすることでさえも罪だと思っているのかもしれなかった。
ドアの隙間から覗いたライトグレーの瞳は不安そうに揺れていた。こちらを窺うように、拒絶するように、それでいて縋るようにこちらを見つめていた。
「……ごめんなさい」
もう一度繰り返されたその言葉に、あの人の影を見ることは驚く程に容易いことだった。
目に深く隈を彫ったあの人が、ぐずぐずと泣きながら「ごめんね」と繰り返し謝る姿に重なって、あたくしも、息を飲んでしまった。
「あ、えっと違うのよ。貴方を責めるために来た訳ではないの。その……お話をしたいなって思いましたの、貴方と」
不安そうにこちらを窺っていた、そのライトグレーの目がはっきりと見開かれる。
この子は目の色まであの人に似ているのだと、理解してようやく微笑むことができた。
「コーヒーを淹れてくれるのでしょう。あたくしも一杯、頂きたいわ。いいかしら?」
「……はい、どうぞ」
彼女は狼狽えながらも、眉を下げながらも、どうぞと消え入りそうな声音で告げて、そっとドアを開けてくれた。
ありがとう、と告げれば何故か彼女は泣きそうな顔をして大きく俯き、くるりと背を向けてコーヒーの準備を始めた。
すぐにやかんを取って、水道をきゅっと捻って物凄い勢いで水を出す。重くなったそれを火にかけて、火力の調節をしてから戸棚の方へと向かう。
小さなコーヒーミルを取り出してテーブルの上に置き、更にコーヒーの袋を取り出して中身をミルに注ぎ入れる。
パラパラと注がれる豆の心地良い音は、アズール湾に打ち寄せる波の音にも、ミアレの灰色の地面を叩く雨の音にも聞こえた。
彼女は小さなミルを抱きかかえるように左腕全体を使って掴み、右手でぐいとハンドルを握って、ゆっくりと回し始めた。
固いコーヒー豆が少しずつ、少しずつ、粉になって下へと落ちていった。
そうした全てに、あたくしは何も手を出さなかった。彼女の手際は驚く程に良かったから、手伝いを申し出るまでもないと早々に気付いてしまったからだ。
何かするために動くこともできず、かといって言葉をかけて彼女の準備の邪魔をする訳にはいかず、キッチンの隅に立って沈黙する他になかったのだ。
そうして長く、永く続くと思われていた静けさを、ミルの音だけが支配するこの空間を、徐に彼女は破いた。
「酷いことを、言いました」
ミルのカラカラという音は、しかし彼女の消え入りそうな声音を掻き消すことはしなかった。
沈黙を相槌の代わりにして静かに頷けば、少女は更に言葉を選び始めた。
「私は、博士からこの香りを知りました」
「……そう」
「コーヒーは飲めないけれど、この香りは好きでした」
好き、であったのはもう過去の話であるのだと、でも今は、とその後に続けようとしているのだと、解っていたから「あたくしは、」と、その言葉を塞ぐように声を上げた。
少女は驚いたようにミルにかけた手を止めた。カラ、と一呼吸おいてミルの音も止まった。
「あたくしは、モカという豆で淹れるコーヒーが好きなんですの。やわらかくてまろやかで、香りもずっと優しくて、……苦みも少ないから、きっと貴方も気に入ってくれますわ」
「……」
「今、淹れてくださっている豆はキリマンジャロといって、刺すような鋭い苦みと強い香りがある、有名な種類ですのよ。……貴方は少し、飲みにくいと感じるかもしれませんわね」
慌てたように言葉を重ねた。沈黙を恐れる少女のように喉を震わせ続けた。
そんな風に他愛もないことを語り続けて、一体、あたくしはこの子に何を伝えようとしていたのだろう。あたくしはこの子に何を伝えなければいけなかったのだろう。
不安そうに顔を一瞬だけ上げてこちらを窺う少女を見ていると、頭が真っ白になってしまった。何を言ってもこの子を怖がらせてしまうように思われたのだ。
それでもあたくしは、「彼」のようにスマートな言葉を紡ぐことなんかできないから、
こうして長々と音を連ねながら、本当に言いたいことを音の中に見出して、そしてその度に編み直さなければいけなかったのだ。
不格好でも、分かりにくくても、それでも言わなければいけないことがあったのだ。
そうした言葉が足りなかったが故に、あたくしの師は大切な友人を失った。
だからあたくしは言葉を尽くさなければいけない。あたくしも、彼も、この子だって、きっと誰もがあの人のようになってはいけない。
誰もがもう、大切な人を失っていい筈がない。
「貴方ももう少し大人になったら、きっとコーヒーを好きになりますわ。……その時はあたくしと一緒にモカを飲みましょう」
苦いものが苦手であるのなら、甘いものを傍らに用意しよう。彼の作るクッキーはとても美味しいから、きっとこの子も気に入ってくれる。
確かジョウト地方に、ワサンボンという可愛い色の砂糖菓子があった筈だ。取り寄せることはできないかしら。きっとモカのやわらかな渋みによく合うだろうから。
「博士は貴方のことが大好きよ」
やっと言えた、と胸を撫で下ろす。溜め息を隠すようにやかんが音を立て始める。
「貴方がこうして来てくれるだけで、博士はとても嬉しいのよ」
完全に手を止めた少女の代わりに、コーヒーフィルターを棚から取り出して開く。さあ、と促せば、彼女は我に返ったように再びミルを回し始める。
あたくしは彼女の横顔をそっと盗み見た。長いストロベリーブロンドに隠れてその全てを見ることは叶わなかったけれど、一瞬だけ見えたその眉は強くひそめられていた。
ライトグレーの瞳はゆらゆらと揺れていて、今にもドリップコーヒーの黒い毒のように、ぽたぽたと零れてきそうであった。
……いえ、あたくしが確認できなかっただけで、本当はもう既に何滴か、ミルの底へと落ちていたのかもしれなかった。
今日、あの人がコーヒーを口にして「少し塩辛いね」などと言ったなら、それは間違いなく、この子のせいだ。
ミルの蓋を開けて、中の粉をコーヒーフィルターへと入れた。上から沸騰したお湯をかければ、透明な硝子のポットに少しずつ、少しずつ毒が落ちていった。
この美味しい飲み物を毒だと思い始めたのはいつの頃からだっただろう。あの人はいつから、眠れないことをコーヒーのせいにしようとしていたのだろう。
彼が「眠らない」のは、コーヒーを浴びるように飲んでいるからでは決してない。彼は眠りたくないから眠っていないのであって、そこにこの飲み物との関連性は全くない。
この黒い液体が毒でないことなど、あたくしだってよく解っている。けれど何かを責めたいのだ。この絶望に収まりをつけるには、何かを犯人にしなければならなかったのだ。
あたくしだってそうした弱い人間だった。ただ、その弱さがあの人のように現れないだけ。あの人が背負った絶望よりも、あたくしのそれがずっと軽すぎるだけ。
だからあたくしはコーヒーが好きだと唱える。唱えればそれが真実になる。いつかその毒を、笑ってこの子と一緒に飲める日が来ると信じて誘いの言葉を紡ぎ、笑う。
あたくしだって本当はコーヒーが飲めないのだ。以前は飲めていたけれど、飲めなくなった。恐ろしくなったのだ。
だってあたくしまで眠れなくなってしまったら、誰があの人を支えてくれるというの?弱くて脆いあの人を、次は誰を失うのかと怯えているあの人を、誰が。
そうした、出現することのない筈であった「誰か」が今、こうしてあたくしの目の前にいて、毒が完全に落ちる瞬間を静かに、待っている。
『だから僕はもうコーヒーを淹れたくない。』
あの日、こっそり盗み聞いてしまった彼の言葉を、あたくしは思い出していた。
彼がこの子にコーヒーを淹れることを頼んだのは、彼があの人のためにコーヒーを淹れることを放棄したかったからでは決してない。彼はそのような情に欠ける人間ではない。
あれは「コーヒーを淹れる」という名目上、彼女が今までよりもずっと高い頻度で、少なくとも1日に1回はこの研究所を訪れることを期待した上での言葉だったのだ。
彼女がコーヒーを持って頻繁にあの人のところへ顔を出してくれるようになると、彼は予め計算していたのだ。そして事実、彼女は毎日このキッチンを訪れた。
自らの「仕事」をやり遂げた彼は、満足そうに笑っていた。
あたくしの尊敬するあの人がいよいよ壊れてしまう時があるとすれば、それは間違いなくこの少女を失った時だ。彼女の訪問が途絶えた時だ。
あの人はこの少女を失うことを誰よりも、何よりも恐れているのだ。彼とあたくしにはそれが解っていた。解る距離にあたくし達はいたのだから、当然のことだった。
ドリップを終えたコーヒーを、彼女は二つのマグカップに注いだ。一つはあの人の分、けれどもう一つは果たして、などと思っていると、それがこちらに差し出された。
「……ジーナさんの分の、コーヒーです」
そういえばこのキッチンに入る時にコーヒーを頼むような発言をしてしまっていた、とか、あたくしの名前を覚えていてくれたのだ、とか、この毒をあたくしは飲めるかしら、とか、
そうした様々な思いがぐるぐると渦巻いたけれど、それは目の前に差し出された液体の黒に飲まれてなかったことになりつつあった。
静かに凪いだ心を努めて作り、熱いマグカップを手に取る。息を何度も吹きかけて黒い波紋を絶やさず作り続けて、数え切れない程に吹いてからそっと口を付ける。
キリマンジャロの刺すような苦さが舌に重くのしかかる。熱い液体が喉をストンと落ちていく。味わう間もなく「美味しい」と告げれば、少女は恥じるように小さく俯く。
「ありがとう、きっと博士も喜びますわ」
その言葉に少女は僅かに顔を上げて、困ったようなほっとしたような、そうした複雑な笑みを浮かべた。
部屋中に漂うキリマンジャロの鋭い香りを、あたくしはもう毒だと思えなかった。
お願い、確信させてあげて頂戴。あの人に、貴方の存在を確信させてあげて。貴方がいなくなることなどあり得ないのだと、もう恐れなくていいのだと、どうか。
2016.9.3