4:天鵞絨の返し縫い

マグカップに満たされた黒い水には、私の青ざめた顔が映っているのだろう。けれど、もう一度テーブルに視線を落とすだけの余裕はなかった。
何故なら私は目の前で、あの男性が口にしたことがいよいよ真実であったのだと、認めざるを得ない状況に置かれていたからだ。

「今は何時だい」と絞り出すような声音に、「夕方の4時です」と返した。「どれくらい眠っていた?」という問いには、「少なくとも20分以上です」と返した。
「ボクが寝ている間に誰か来なかったかい?」と、勢いよく立ち上がって縋るようにこちらを見るので、「私くらいです」と告げれば、彼はようやくその口を固く引き結んだ。
そのまま、倒れ込むようにソファへと身を沈める。腕や足を投げ出したその姿は、まるで糸を切られた人形のようだと思った。
四肢や首に垂らされた糸で操られているあの不憫な人形の名前を、けれど私はどうしても思い出すことができなかった。
私がその名前を思い出しあぐねていると、彼はその姿勢のまま、長く、深く息を吐いた。

『うたた寝から覚めた後の彼の顔なんか、酷いものだよ。
また何か失ってしまったんじゃないかと、焦って、僕やジーナの顔を見て、パソコンに何の連絡も来ていないことを確認して、そこでようやく安心したように息を吐くんだ。』

吐き出したその最後は、どうにも震えているように思われてならなかった。

「コーヒーを、預かってきました」

重たげに向けられたその目が、あまりにも暗すぎて私は戦慄する。彼の目はもう少し彩度の高いライトグレーをしていた筈なのに、今はマグカップの中身のように重く、暗いのだ。
どうして貴方がそんな目をしなければいけないのだろう。ただそれだけを思いながら、私は再び口を開く。

「熱いので、気を付けてください」

「……」

本当は、こんな人にコーヒーなど渡すべきではないのだろう。
コーヒーに含まれるカフェインには覚醒作用があるのだ。それくらい、無知で無学な私にだって解っていた。
だから彼が中毒のようにそれを求め続ける理由も、解っている。彼は眠らないためにコーヒーを手に取るのだ。眠らせないでくれと懇願しているのだ。

『この香りを吸い込むと落ち着くみたいなんだ。ああ、眠らなくていいんだって、思えるらしい。』

彼の目元には隈がある。「隈がある」ということに気付くことを忘れるくらい、彼の顔に隈があることを、私は長い間、当然のことのように認識していた。
いつからだったのだろうと記憶の海を泳いでも、そこに答えなどありはしなかった。
彼がコーヒーの香りを見に纏っていないことなど、ただの一度だってなかったのだから、その始まりを見つけることが叶わなかったとして、それは当然のことだったのだ。

「……ああ、デクシオが君に持たせたんだね。ありがとう」

ふわりと陽を溶かすように笑う。
ああ、あの助手の男性はデクシオさんと言うのだったと、私はようやくあの人の名前を思い出す。
助手の男性の名前、糸に吊られた人形の名前、コーヒー豆を粉にする機械の名前、私はそういうものに興味が持てない。
彼等の存在と向き合うことだけで精一杯である筈の私が、彼等を示す記号にまで目を向ける余裕など持ち合わせている筈がない。
興味がないもののことは忘れていく。知っているものだけ覚えていく。私の世界は閉じている。そんなこと、よくよく解っている。

だからその閉じた世界で唯一、名前と声の両方を覚えることの叶ったこの人に、私は何かしなければいけない筈なのに、何もできない。

「折角だから少し休んでいくといい。昨日、シンオウ地方のナナカマド博士からお菓子の差し入れが届いたんだ」

そう言って立ち上がろうとする彼を、私は思わず片手を伸べることで制した。
彼の言葉や行動全てにストップを掛けたかった。お願いだから動かないで、喋らないでと訴えたかった。けれど下手に私の拙い言葉を吐き出すこともしたくなかった。
私は悉く慎重にならなければいけなかったのだ。少しでも間違えれば、彼は壊れてしまいそうだった。私はこれ以上、私の知らない彼の姿を見たくなかった。

チャリン、とテーブルに何かが落ちる音がした。
その金属音の行方を目で追えば、先程、あの男性から受け取ったキッチンの鍵が、白いテーブルの上に転がっていて、さっと血の気が引いた。
彼は「何か落としたよ」と告げてその鍵を拾い上げたけれど、すぐにその正体に思い至ったようで、驚いたように目を見開いた。
終わりだと思った。見限られると思った。
勝手なことをしてごめんなさい。あの人の頼みを断れなくてごめんなさいと、私は謝罪と言い訳の言葉を並べる準備を始めなければならなかった。

「……もしかして、君がこのコーヒーを淹れてくれたのかい?」

どこか楽しそうに、それでいて嬉しそうに笑ってくれたものだから、まだ弁解の余地が残されているのではと思い上がった私は、慌てたように口を開き、言葉を連ねる。

「デクシオさんが私に預けてくれたんです。コーヒーの淹れ方を教えてくれました。コーヒーを淹れてあげてほしいと、僕の代わりに頼むと、言われました。
……そのコーヒーを淹れたのはデクシオさんです。私じゃありません。私は、お湯を沸かしただけです」

拍子抜けるような軽い沈黙の後で、彼は声を上げて笑い始めた。その笑いが、果たしてどういった類のものであるかさえ、私には解らなかった。
けれどその笑いの意図が分からずとも、彼は侮蔑めいた笑いをそんな風に声に出すような人ではないと、それくらいは心得ていたから私は彼を信じて、続く言葉を待った。
そうかそうかと何度も相槌を打ちながら笑う彼は、やがてマグカップをテーブルに置き、空いた手で私の頭をそっと撫でた。

「君も手伝ってくれたんだね、ありがとう。火傷したりしなかったかい?」

彼からのありがとう、が眩しすぎて思わず目を細めた。この人もやはり、息を吐くように感謝の言葉を吐く。上手だなあと思った。羨ましいと思った。
はい、と告げた返事は掠れていて、いよいよ情けなくなったけれど、そんなこと、いつものことだ。今は「いつもでは有り得ないこと」に目を向けたかった。
すなわち私がお湯を沸かすことができたおかげで、彼は彼の大好きなコーヒーを飲むことが叶うのだという、「あり得ないこと」に、私は注目すべきだったのだ。
何もできないと思っていた私の手でも、お湯を沸かすことくらいはできるのだ。

カロスに迫る危機を退け、数え切れない程の人を救ったその手の主は、たった一人のためにお湯を沸かすことが叶ったという、ただそれだけのことに歓喜していた。
この、立派で優しい人に、私の大好きな人に報いることが叶ったのだと、あとはこの人がコーヒーに口を付けて、「美味しいよ」と言ってくれるだけでいいのだと、知っていた。
けれど、

「飲まないで」

マグカップを口元に運ぼうとしていた彼の手がピタリと止まった。けれど言葉は止まらなかった。
考えるより先に飛び出したその言葉を、もう、彼女の脆い自制心では止めようがなかったのだ。「……飲まないでください、そんなもの」と更に続けた声は震えていた。

『ボクはコーヒーブレイクが好きだけど、君とのコーヒーブレイクは大好きなんだ。』
彼が私を傍に置いてくれる時、いつだってその傍らにはこの黒い液体があった。ずっと傍に在ったのだ。そのことに今更、気付いたのだ。
私はずっと、彼がその黒い毒を飲み干す様を見てきたのだと、彼を見殺しにしていたのだと、認めればどうにも止められなかった。

……ああ、けれど一体、どうすればよかったというのだろう。
だって、そんな風にコーヒーを見るなんてこと、できる筈がなかったのだ。
彼はいつだってあらゆるカフェのコーヒーをとても美味しそうに飲んでいたから、それが彼の至福を極めた姿であると信じて疑えなかったのだ。
まさか、だって彼はあの時からずっと「怖かった」なんて、どうして想像することができただろう。
それともやはり、私がいけなかったのだろうか。私が本当は、気付いて然るべきだったのだろうか。私が、止められなかったから。

「どうしてそんなに眠りたくないんですか。どうしてそんなに臆病なんですか。貴方は一体何がそんなに恐ろしいんですか、まるで……私みたいに、怯えて。
眠るなんて、そんなこと、私にだってできます。私にだってできることなんですよ、博士」

シェリー、どうしたんだい急に、」

「私にもできるようなことが、どうして貴方にできないんですか!」

私が彼の傍に在ることを許される時、いつだって、私よりもずっと彼に近い位置にそれは在った。

私を嫌わないでと、見限らないでと、そうした原始的な、私にとっての馴染み過ぎた感情を塗り潰す勢いでその激情は発せられた。止まりようがなかったのだ。
彼に対しての、黒く重い液体に対しての、私達を臆病にさせた何もかもに対しての激情が、抱えきれない程に大きくなっていると気付いた時にはもう、遅かったのだ。

だって貴方は息をするように「ありがとう」と紡ぐことの叶う人なのでしょう。貴方は、私とは違うのでしょう。
私よりもずっと高いところから、私の手をそっと引いてくれるような、そんな、立派で優しい人なのでしょう。
そんな立派で優しい貴方が、私のように怯えなければならない道理など、ない筈だ。
けれどそんな単純な願いが、何故かどうにも叶わない。カロスを救った筈の私は、お湯を沸かすことの叶った私は、けれどやはりどこまでも無力なのだ。愚かなのだ。

『君もボクのことを許せないんだろう?何もかもを君にさせてしまった、ボクのことが……。』
俯きがちに発せられた、かつての彼の言葉が脳裏を過ぎる。パチン、と泡のように弾けて消える。

「私は、貴方を許しません。貴方が眠るまで、ずっと」

嫌われるのかもしれない。見限られるのかもしれない。それでもよかった。だってどうしても欲しかったのだ。私がこの人にできること、この人のためだけにできることが。


2016.8.30
天鵞絨:ビロード

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