3:毛糸の粉

エレベーターが3階への到着を告げる。赤いカーペットに靴を沈めて更に一歩を踏み出そうとした私に、「待って」と制止の声が掛かった。

「博士に用事かい?」

助手の男性にそう尋ねられて、頭が真っ白になった。彼への要件など、ポケモン図鑑のチェック以外に何も存在しなかったからだ。
そのチェックさえも最近では口実になりつつあることに、私は気付いている。気付いていながらその立派な口実に縋っている。
賢いあの人だってそれに気付かない筈がないのに、彼は笑って私の甘えを受け入れる。

そうした奇妙な関係を、しかし他の人が良しとする筈がなかったのだ。彼等にとって私は、博士の仕事の邪魔をする厄介なトレーナーに過ぎないのだ。
どうしてそんな簡単なことに気が付かなかったのだろう。私は顔を青ざめさせながら、自分を責める準備を整え始めていた。
私は自分への叱責と言い訳なら、誰よりも上手にできるのだ。

けれど彼の制止は私の軽率な訪問を窘めるものではなかったらしく、苦笑して首を捻りながら、「ああ、ごめんね、そうじゃないんだ」と柔らかい声音で続ける。

「今、博士は眠っているんだ。ソファに倒れるくらいなら潔くベッドで仮眠を取ればいいのに、あの人、変なところで強情だから」

「……」

「もう少ししたら起きると思う。その間、君に手伝ってほしいことがあるんだけど、少しでいい、僕に時間をくれないか?」

困ったように首を傾げる。柔らかなブロンドがふわりと僅かに揺れる。
私にできることなんかある筈がない。そう思いながらも私には頷く以外の選択肢など残されていなかった。
嫌われること、見限られることは何よりも恐ろしいのだ。
だから私は頷いた「その後」を考える余裕もなく首を縦に振る。震える声で「はい」と返事をする。いつだってそうだ。

足を懸命に動かして、騒動の渦中へ飛び込み、ただ必死で前へと進み、そうしていつしか、私はカロスを救ったことになっていた。私には眩しすぎる栄光が私の手に降りていた。
今もカバンの片隅で、手に入れてしまった栄光の証が揺れている。小さなカロスエンブレムは、私にはどうにも重すぎる。
私はただ、嫌われたくなかっただけである筈なのに。

やかんを火にかけてしばらく経った。温まっているだろうか、この水はちゃんと沸騰してくれるのだろうか。
お湯を沸かすだけの簡単な作業でさえ、私は躊躇う。不安になる。恐怖が喉を縛る。
そんな滑稽な私に苦笑しながら、彼は「そんなに見張らずとも大丈夫だよ」と告げて笑い、こちらにおいでと促すように手招きをした。
そっと歩み寄れば、彼は棚からコーヒーの豆を取り出し、変わった形の機械にそれを流し込んでいるところだった。

「これだけあれば3杯分のコーヒーができるんだ。このハンドルを回して豆を挽かなければいけないんだけど、今日は僕がやってみせるから、見ていてくれ」

「……はい」

何故、彼は私をこのキッチンに通したのだろう。コーヒーの淹れ方など教えて、彼は私に何をさせようとしているのだろう。
分かることなど何一つなかったから、せめてコーヒー豆の挽き方くらいは覚えなければと思い、私は不安を押し殺そうと努めながら彼の手先を目で追った。

コーヒー豆を挽く機械は片手に乗りそうな程に小さいが、そのハンドルを回すには思いの外、力を要するらしく、
彼は豆を挽いている間、何も言葉を発しなかった。「無言」という、私にとっては当然のこと、けれど私以外の人にとっては異常なことを彼は貫いた。
豆が砕かれ、粉になっていく様子を、私はただ茫然と見つめていた。知らない不安が喉の奥からぐいとせり上がって来た。何故だか、泣きたくなった。

お願い、もう帰してください。私は何のために此処にいるんですか。
そんな言葉を勿論、私が口に出せる筈などなかったのだけれど。

あの人と一緒にいる時には感じたことのない、重苦しい緊張と恐怖が私の息を止め始めていた。
けれどそれは、この男性のせいでは決してないのだけれど。
プラターヌ博士との時間が「異常」であるだけで、私にとって、恐怖に喉を震わせながら誰かとの時間を過ごすことなど、当然の、正常なことであったのだけれど。

「彼は眠りたくないんだ」

粉を挽き終えたらしく、カラカラという空虚な回転音がそれを告げた。彼はその機械を傾け、きめ細やかに挽かれた粉を私に見せてくれた。
その中身から、私のよく知る彼の香りがして思わず息を飲む。彼はそんな私に微笑みつつ、続ける。

「眠っている間に、自分の大切なものが彼の手をすり抜けて、消えていってしまうような気がするらしくてね。だから彼の睡眠時間は極端に短い。徹夜なんか日常茶飯事だ」

白い扇状の紙を取り出し、中を開いてコップの上に置く。挽いた粉をその中へそっと入れれば、そのタイミングを待っていたようにやかんが音を立て始める。
ほら、と促されて私はやかんを取りに行く。私でもお湯を沸かすことくらいはできるのだと、気付いて、少しだけ肩の強張りが弱まる。
少しだけ重いやかんを手渡せば、彼は息をするように笑顔で「ありがとう」を紡いでみせる。

彼にとって、……いや、きっともっと大勢の人にとって、言葉を紡ぐことというのは、息をすることに等しいのだろう。
彼等は息をするように喉を震わせることができるのだ。どう足掻いても手に入れようのないものを「羨ましい」と思うことに私はもう、疲れてしまった。

「うたた寝から覚めた後の彼の顔なんか、酷いものだよ。
また何か失ってしまったんじゃないかと、焦って、僕やジーナの顔を見て、パソコンに何の連絡も来ていないことを確認して、そこでようやく安心したように息を吐くんだ。
彼は失うことが怖いんだ。大事な人にまた裏切られることが怖いんだ。臆病な人なんだよ、彼は」

「……」

「でも彼はコーヒーが大好きだから、僕によくこうして頼んでくる。この香りを吸い込むと落ち着くみたいなんだ。ああ、眠らなくていいんだって、思えるらしい」

だから、と彼はやかんを傾ける。困ったように泣き出しそうに笑ってみせる。
背格好も着ているものも、髪や目の色だって似ていないのに、その笑い方だけは悉くあの人に似ている。
彼もそうやって、自分で自分の首を絞める。

「だから僕はもうコーヒーを淹れたくない」

粉が90℃のお湯に溶ける。ぽたぽたと泣くように落ちていく。
紙を透けてマグカップに少しずつ溜まっていくこのコーヒーは、どれ程の苦さであの人の喉を通るのだろう。彼はこの一杯で、どれ程に強い眠気をなかったことにするのだろう。
解らなかった。彼を眠らせたいのに彼に頼まれるままコーヒーを淹れ続けるこの人の苦しみも、浴びるようにこの黒い涙を飲むあの人の苦しみも、私はまだ、解らない。

「手を出してくれ」と言われるがままに右手を伸べれば、彼はポケットから取り出したあるものを私の掌に落とす。
驚く程に冷たく小さなそれに視線を落とし、その金属製の小さな鍵の意味するところに、気付くより先に息を飲む。
彼は困ったように笑いながら、私がその鍵を突き返すことをやわらかく禁じる。

「このキッチンを開ける鍵だよ。君はもう、コーヒーの淹れ方を知っているだろう?」

「わ、私……コーヒーを淹れるなんて、」

「淹れられないならそれでいい。あの人が眠ってくれるだけのことだからね。……僕はちょっと、この香りを浴びることに疲れてしまったんだ」

でもこの香りがないとプラターヌ博士は不安になるんでしょう?
そう、私は口にすることができなかった。彼が私の音を遮るように「出来たよ」と陽気に笑ってみせたからだ。
マグカップを掴んで「熱いから気を付けて」という忠告と共に手渡す。
黒い液体を満たしたそれを抱えて茫然とする私から目を逸らし、彼は透明なポットに先程の紙をセットして次のお湯を注ぎ始める。

「これは冷蔵庫で冷やしておくよ。おかわりを彼が求めたら、また此処に来てこの中身を入れてあげてくれ。
ホットコーヒーが飲みたい、なんて我が儘を言うかもしれないけれど、その時の対処は……君に任せるよ」

さあ、と彼は顔を上げてにっこりと笑う。送り出そうとしている、ということが解ったから、私は小さく頭を下げて踵を返す。
この人が何故、私にキッチンの鍵を渡したのか、私にコーヒーを入れさせて何をしようとしているのか、その全てがやはり私には解らなかった。
解らなかったから、拒むこともできなかった。

エレベーターに乗り込めば、淹れたてのコーヒーが放ついつもの香りが、この動く鉄の箱にゆっくりと満ちていった。
香り過ぎて息苦しい、と思い始めた頃、扉が開いてその香りは逃げていく。赤いカーペットに足を沈めて、一歩を踏み出す。

「……」

彼は本当に眠っていた。ソファに身体を沈めて、その上半身はいよいよ横に倒れてしまいそうだった。
呼吸さえも彼を起こす騒音になってしまうのではないかと恐れながら、けれどあの男性にこれを託されたのだから、と半ばヤケになってテーブルへと歩みを進める。

起きないで、起きないでください。喉の奥でそう唱えながらマグカップを持つ手に力を込める。
もっと静かに置くべきであったのに、これで私の仕事は終わりだと気が緩んでしまったのだろう。
カタン、と予想していたよりもずっと大きな音が鳴り、頭の中が真っ白になる。慌てて手を引っ込めたけれど、遅すぎた。

彼が、目を開けた。


2016.8.30

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