2:パッチワーク

※ED後

「ポケモン図鑑なんて、頑張らなくてもよかったんだよ。君は君のしたいことをすればいいんだから」

つい先程、私はセントラルカロスのポケモン図鑑を完成させた。
ポケモンを捕まえるのが苦手な私でも、見つけるだけの調査なら気力で成し遂げられると思ったのだ。
新しいポケモンも、知っているポケモンも、全て見つけた。誇らしさと達成感を引っ提げて研究所を訪れた。
勿論彼も喜んでくれた。博士としてではなく一人のトレーナーとしてお祝いがしたいと私の手を取り、カフェに案内されて今に至る。

もう夜も更けたカフェに人は少ない。隣で本を読んでいた男性も、カップの中身を飲み干したらしく立ち上がった。
最早貸し切り状態と化した空間に若干の居心地の悪さを感じたが、彼は此処の常連であるらしく、
オーナーらしき初老の男性に「急がなくてもいいですよ、好きなだけ寛いでいって下さいね」と声を掛けられていた。
その言葉が飾られたものではないことを、私はおぼろげに感じ取っていた。

「それじゃあお言葉に甘えて、一番美味しいケーキを2人分、貰おうかな。それと、コーヒーのおかわりを」

「かしこまりました」

ウエイターの女性がふわりと笑って了承の意を示してくれる。彼は笑って「ありがとう」と告げる。私は無言で大きく頭を下げる。
基本的にミアレシティのカフェは24時間営業だが、やはり夜から深夜に掛けての客は嫌煙される筈だ。
心からの笑顔で快く対応してくれる、その意味を、私は正しく理解できる。彼はこのお店の常連であり、そんな彼の訪問をこの店のスタッフはいつだって歓迎しているのだ。
そうしたことを、私はスタッフの顔色から読み取る。言葉は解らなくとも、拾えるものは確かにあるのだ。

「ポケモン図鑑、もう一度見せてもらってもいいかい?」

彼にそう促され、私は鞄から図鑑を取り出して手渡した。
ピッ、という電子音の後に、セントラルカロスで見つけたポケモンの一案が表示される。150匹のポケモンを最後まで見ながら、彼は何度も「すごいなあ」「頑張ったんだね」と繰り返して笑った。
彼からそのように評価してもらえることが素直に嬉しかった。だから私はその度に笑顔を作ろうと努めた。

「……ごめんね。君にまたプレッシャーを与えてしまったみたいだ。大変だっただろう?」

しかし彼はその締め括りを、祝福や感謝の言葉ではなくこのような謝罪で済ませることを選んだ。
彼を象るのはいつだってその謙虚な姿勢だったが、今回ばかりはその姿勢に、私の方が傷付いてしまった。
どうしてごめんよと紡ぐのだろう。どうしてありがとうと言ってくれないのだろう。
彼にそんな言葉を求められる程、私は立派でも偉くもなかったが、せめて今日くらいは、ポケモン図鑑を完成させた今日だけは、そうした言葉を望んでもいい気がした。
いつも首を振って困ったように眉を下げることしかできない私だって、今日くらいは彼の「ありがとう」に、心からの笑顔で頷くことが叶うと思っていたのだ。
そうした幼稚な考えを、コーヒーと一緒に喉の奥に流し込んだ。ケーキの甘さにその苦味が引き立った。

「君はもっと自由に生きていいんだよ、シェリー

そして彼は、そんなことを言うのだ。
博士として誰よりも努力を重ねて来た筈の彼が、それ故に自分の立場に苦しんで来た筈の彼が、私に差し出すのはいつだって束縛ではなく自由だ。
ポケモン図鑑はノルマとして差し出したものではない、君達の冒険の助けになればと思って渡したものなんだよと彼は笑う。
彼は私を祝福してくれない。それが無性に悔しかった。

カロスを救ったあの時は「おめでとう」と「ありがとう」を大勢の人から貰った。勿論、彼だって祝福してくれた。
けれど、私はもっと小さなことでよかったのだ。あんな、大きすぎることに対する祝福も感謝も、私の首を絞めるだけで嬉しくなかった。苦しかった。
だから私にもし、誰かを喜ばせるような力があったとして、私は次こそそれを、私の大事な人のためだけに使うと決めていたのだ。そして今日、それがようやく叶った。
けれど、どうにも求めていたものは手に入らない。要らないものは山のように押し付けられるのに、たった一つの欲しいものだけが、私の手の中にはない。

「いいえ、私が、……私がしたかったからしたんです」

私から言葉を発することはかなり珍しくて、彼ははっと顔を上げて目を丸くした。久し振りに震わせた喉の違和感が、その衝撃を増幅させるように鈍く痛んだ。
今の言葉に嘘は無かったが、「博士の喜ぶ顔と、おめでとうの声が聞きたかったからです」とは絶対に言わない。言える筈がない。
私はそうしたむき出しの感情を紡げる程に勇敢ではないし、それを言ってしまえば「何か」に負けてしまうような気がしたからだ。
この二人だけの盤上でイニシアティブを取っているのは間違いなく彼の方であり、私はそんな彼の前で、言葉を紡ぐことすら恐ろしくてできやしない。

イッシュからやって来た余所者である私を、彼が特別気にかけてくれているのは知っていた。
トレーナーとしての実力を評価し、ポケモンを二匹も渡してくれた。メガシンカを使いこなせようになった時はまるで自分のことのように喜んでくれた。
しかしある時を境に彼は喜ぶことをしなくなった。私が何か一つのことを成し遂げる度に、何処か悲しい顔をして笑う彼のことが、私は気にかかっていた。
どうにも釈然としなかった。彼が何に苦しんでいるのか解らなかった。

どうしてそんな顔をするんですか、と聞くだけで良かったのかもしれない。そうすれば彼は答えてくれたのかもしれない。しかしそれはルール違反だと強く感じた。
この繊細で優しい人は、私の疑問や怪訝な態度を逐一拾い上げ、その釈然としないものを取り払うことに長けていたからだ。
言葉足らずな私の、言葉に出せない感情を拾い上げてくれる。見落とすことなく掬い上げてくれる。彼はそういう人だ。
そんな彼が、今も私が感じているこの不満に気付かない筈がない。きっと気付いている。それでも口を開いてくれないのは、彼の方に喋れない理由があるということだ。
それを私が無理矢理こじ開ける訳にはいかなかった。今までの彼の善意を反故にしてしまうような気がして出来なかった。
そんなことをすれば、私が捨てられてしまうように思えてならなかった。

つまるところ、私はこの人を支えることも、喜ばせることも、悲しまないようにすることさえできず、
いつまでもみっともなく「嫌わないで」「見限らないで」と縋り続けている、臆病で卑屈な人間に過ぎなかったのだろう。

シェリー、君は本当にいい子だね」

けれどこの場において、「縋っている」のは寧ろ彼であるように思われた。彼の目は、カロスに越してきたばかりの私によく似ていた。
何か、言わなければいけないと思った。
たとえこの喉が潰れたとしても、この人が背負っている、何かとてつもなく重いものを引き取るための言葉を、紡がなければならないと強く感じた。
けれど白いカップに伸びる彼の長い手と、整った美しい爪に視線を移した私は、普段から言葉を紡ぐ練習をしていないばかりに、こんな些末なことを口にしてしまったのだ。

「プラターヌ博士の手、綺麗ですね」

私も、貴方みたいな綺麗な手だったらよかったのに。
そうした何気なく紡いだ言葉に、しかし彼はさっと顔を青ざめさせた。驚き、息を飲んだ私に、彼は早口で畳みかけるように、震える声で笑いながら、告げる。

「そうなんだ、そうなんだよシェリー。ボクは何もすることができないから、君に何もかもを押し付けてばかりだから、ボクの手は君のように荒れたりしないんだ。
ボクはずっと、綺麗な醜い手のままなんだよ、シェリー

「!」

「君もボクのことを許せないんだろう?何もかもを君にさせてしまった、ボクのことが……」

愕然とする私の前で、彼はテーブルの上に肘を付き、両手を組んでその上に額を乗せるようにして俯いた。

「ごめんね、シェリー。こんな大人でごめんね」

頭を、殴られた心地だった。
彼はこうしてずっと自分を責めていたのだと、私の行動全てを申し訳なく思っていた理由はこれだったのだと、ようやく気付いて、心臓が握り潰されたように痛んだ。
けれど、私に何ができたと言うのだろう?君が背負った沢山の荷物を押し付けたのはボクだと嘆く彼に、私は私の荷物を押し返すことなどできやしない。
そんなこと、させない。貴方に私の荷物は、あげない。

「博士は優しい人ですね。でも、貴方に私の荷物はあげません」

私はこの、既に何もかもを背負い過ぎている人に、私の荷物まで押し付けることなど、できない。
貴方にとってはただの重荷でも、私にとってはかけがえのない宝物であることを、伝えることはやはりまだ、できそうにないけれど。

「私は貴方に沢山のものを貰ったけれど、私は貴方にただの一つもそれを返しません」

シェリー、」

「……ね、だからこんな最低な人間の為に、謝らないでください」

饒舌に震わせた喉が軋んだ。ひゅう、と息を吸い込んだ私の音がいやに大きく聞こえた。彼は何も言わなかった。私は譲るまいとぎこちなく笑った。

貴方に荷物を渡さない。貴方が手を伸ばしても決して返さない。
私は貴方の「何も持っていない」という空虚な苦い荷物すら、奪う覚悟が出来ている。


2013.11.2
2016.8.7(修正)
この3年前の短編を覚えていてくださった、匿名の方に心からの感謝を込めて。

© 2024 雨袱紗