C3

記憶にあるよりも少し背を伸ばし、帽子を被りながらもその目で真っ直ぐにこちらを見据える、一人の男の子の姿があった。
何に使うのか知れない分厚い書類を左腕に抱えている。ポケモン研究所のマークが一番上の紙に印刷されている。
ああ、彼はこのカロスという場所の期待に正しく応えた人なのだ。そう察することは容易にできた。
けれども、それだけだった。私の心は彼のその姿に動くことはない。動かす必要はまるでない。私の心をこんなことに揺らしていたくはない。

「久しぶり。……ズミさんも、元気そうで」

「ええ、私は相変わらずレストランとポケモンリーグの往復ですが。……貴方は、あれから研究所で働いているのですか?」

「まだ、見習いです。でも、オレなりに頑張っているつもりですよ。
サナもティエルノもトロバも、あの事件に関わった人は皆、カロスをよりよい場所にするために、美しいカロスを保つために、できることをしています」

お隣さんと違って。
口にこそ出さないものの、そうしたニュアンスが含まれているように感じたのは、私の被害妄想などではなく彼の意図したところなのだろう。
彼は正しく期待に応えた人だ。その立派な姿を私の前に見せびらかしに来たのだ。何もしようとしない私を案に責めているのだ。そういうことなのだ。

私は彼のそうした「正しさ」の武器に耐えられそうもなかった。だからこそ私は、私の最も得意とする武器を振りかざして、彼を遠ざけなければならなかった。
すなわち私は「ごめんなさい」と尻すぼみの声音で彼に告げ、深く深く俯いて、どこまでも下の方に這いつくばる必要があったのだ。
そうすれば、相手はいい気分になってくれる。そうしていい気分になった相手は、そこで私というストーリーを完結させてくれる。

これは可哀想な子。哀れな子。自分より劣った子。だからもう用はない。これでおしまい。

ほら、そうしなければ。私の得意技を披露しなければ。
そうすれば彼は私を忘れられる。私も彼から逃げ出せる。そうしてズミさんとの大事な、魔法にかけられた48時間を再開させることができるのだ。
私は慌てて深く俯いて「ごめんなさい」と紡ごうとして、

「……」

相手の視線から逃れるために必要であったはずの、あのカノチェを置いてきてしまったことに、気付いた。

「ねえお隣さん。プラターヌ博士はずっと君を待っているよ。デクシオ先輩やジーナ先輩だって君を案じている。いつまで、カロスをふらふらしているつもりだい?」

「……」

「今ならまだ、間に合うんだよ。君のための席が研究所にあるんだ。オレやサナには……癪だけれど、君の代わりを務めることができないんだよ。
無駄な遊びにばかり時間を割いていないで、もっと、君のためになることを、カロスのためになることをしてほしい。……ズミさんだってきっと、そう思っている」

コトン。
妙な音が聞こえた。私にだけ聞こえたであろうその音は、私の心臓にがっしりと固定された天秤が、大きく傾いたことを私に知らせていた。
今、この男の子は何と言ったのだろう。私のための席? 無駄な遊び? 私のためになること? ズミさんだってそう思っている?
私は、自分の胃がお腹のどの辺りにあるのかも分かっていないにもかかわらず、その所在の知れない胃という臓器から、何かがぐつぐつとせり上がってくるのを感じていた。
食道を通り、喉元につっかえ、息ができなくなった。今、私が口を開いてしまえば、そのせり上がってきた醜いものが嘔吐という形で吐かれてしまうような気さえした。

大丈夫、落ち着いて。大丈夫。いつものようにすればいいだけだ。
帽子がなくとも、必要に迫られれば私はいつもの私になれる。ごめんなさいと告げられる。俯くことが叶う。そうしていれば彼は立ち去ってくれる。

シェリー?」

けれど、できなかった。何故なら私の手を握ったままでいてくれたズミさんが、その手の力を僅かに強めつつ、私の名前を呼んだからだ。
「お隣さん」ではなく「シェリー」と呼んでくれたからだ。優しい青の目で私を見てくれたからだ。
彼のその声は、その目は、目の前の男の子が奏でる「待っている」「案じている」などよりもずっと、ずっと、信頼に足るものであった。
その瞬間、彼による魔法をたっぷりと注がれた私は、普段では考えられない程の勇気を手にしてしまった私は、

「それは救世主のための席でしょう、私の席じゃない」

信じられない程に大きな声音で、彼の正義を、彼の偽善を、彼の糾弾を、彼の存在を、跳ね除けることに成功してしまったのだ。

「貴方達は救世主を待っているんでしょう。救世主を案じているんでしょう。それは、私のことじゃない」

「何を言っているんだ、お隣さん。君がフレア団の野望を止めてこのカロスを守ったことなんか、君以外の全員が認めていることなのに」

「私は救世主なんかじゃない。そんなものになりたいと思ったことなんかない」

彼が眉をひそめている。「眉をひそめている」ことが、分かる。
私は彼の目を見て話をすることができていた。彼の目を見て、彼の言葉を否定することが叶っていた。
このようなおぞましい、醜いものを喉の奥に詰まらせなければ、私はズミさん以外の人に「こう」することができないのだと、今、知った。

男の子はあからさまに不機嫌そうな顔をしたけれど、その表情に献上する「ごめんなさい」を私は用意できなかった。
だって、私は悪くないはずだ。私があの事件に関わったのはもう1年も前のことで、私がポケモンリーグに通わなくなってからかなりの時が流れていて、
その間、この男の子や他の子供達は華々しい活躍をしていて、私にできないことをやってくれる人物は十分すぎる程にいて。

「君は……」

だから今更、私が呼ばれる理由などあるはずがない。あっていいはずがない。

「君はいつから、人の目を見て話ができるようになったんだ」

「……私は、答えないよ。それは、きっと貴方には関係のないことだから」

もし、今日という日でなければ、私はもう少し穏やかな受け答えができたのかもしれなかった。
彼の怒りを受け取って、いつものように謝罪の文句を紡いで、深く俯いて、彼の次の言葉に怯えながら、彼の好き勝手な断罪をこの身に受けられたはずだ。
彼の望む私、彼が優位に立てる私を用意して、彼にイニシアティブの全てを譲り渡しているかのように錯覚させることだってできたのかもしれない。
そうして彼が満足してこの場を去るまで、静かに待つことが、きっと私にはできた。私にはそうした、私を守るための全てが備わっていた。

「行きましょう、ズミさん」

けれども私は、そうした強固な守りの一切をかなぐり捨てて、彼を攻撃することを選んだ。
私の中にある天秤、恐れと憤りが秤に乗せられたそれが、この日初めて、私のために、憤りの方へと大きく傾いたのだ。
それは気が狂ってしまいそうな程の重さで、私ごときがその感情を使いこなすことはどだい無理な話であるように感じられた。
けれども私は衝動のままに、その憤りを放ってしまった。自らが傷付くことを恐れずに他者を傷付けようとしたのは、この日が初めてだった。

だって、あと48時間しかないのだ。
ポケモンリーグの四天王でも、有名レストランのシェフでもない、ただの彼が、私の恋人でいてくれるこの彼が、真に私のものとなってくれる時間は限られているのだ。
あと48時間経てば、魔法が溶けてしまう。「このズミは真に貴方のもの」という、おぞましい程に幸福な魔法がなかったことになってしまう。

……短すぎる、足りない、などと駄々を捏ねれば、更に望んだならばもしかしたら、彼は困ったように笑いながら「延長」の魔法をかけてくれるのかもしれなかった。
けれど私に、そのようなことを望む勇気などあるはずもなかったのだ。
私にできるのは、かの魔術師がかけてくれた魔法を大切にすることだけだ。そのためなら私は、こんなことだってできる。貴方が私を、そうしてくれる。

「しかし、いいのですか? 彼はまだ貴方に話すことがあるのでは」

「聞きたくないんです。行きましょう。一緒に来てくれますよね。私のしたいこと、何だって遠慮せずに言っていいんですよね。今日はそういう日なんですよね」

私から彼の手を取った。私の方から男の子に背を向けた。別れの挨拶さえしなかった。大きな歩幅でミアレシティの通りを歩いた。彼は、隣にいてくれた。
心臓が高鳴っていた。恐怖でも歓喜でもなく高揚に高鳴っていた。握った手に力を込めた。長く伸ばした爪で、彼の手の甲に跡を付けたくなってしまった。

貴方が私に居場所をくれる。どこまでも落ちていったとしても、貴方と結んだ恋の器が私を受け止めてくれる。私はそうしてようやく人並みに前を向ける。

2019.3.9

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