C2

お気に入りの洋服に袖を通した。ヒャッコクシティで購入した、淡いピンク色のワンピースで、裾に覗くレースのフリルがとても可愛い。
ジョウト地方では少し目立ってしまうかもしれないけれど、そうした恐れを含む行為さえ、彼の隣にいることを踏まえれば、どうということはないと思えてしまった。

帽子は被らなかった。もう必要がないような気がしたからだ。
他者の視線から逃れるとき、赤いカノチェはとても役に立ってくれたけれど、最近の私がこの帽子のつばに頼る頻度は、ぐっと減った。
それは同時に、私の常套句があまり紡がれなくなったことを意味していた。
「ごめんなさい」と「深く俯き他者の視線から逃れる行為」は、私の中ではセットで扱われていたのだ。
謝罪を繰り出せば私は俯き、目を逸らせばごめんなさいと勝手に零れ出た。この一連の流れの淀みなさはきっと、一流の俳優にだって見劣りしない。

けれども私は俳優ではない。「ごめんなさい」を求められたから紡ぐのではなく、私に必要な言葉であったから紡いでいたに過ぎないのだ。
ならばその必要性を失った私が、俳優顔負けの淀みない謝罪と目逸らしを呆気なく手放したとして、さて、誰が私を責めることができるだろう?
できない。誰にもできない。できるはずがない。
仮に叱責する人がいたとしても、私はもうそんなものに屈しない。そんなものに私の「ごめんなさい」は捧げない。

「……ごめんなさい」

鏡の前でそう呟いてみる。鏡に投げた謝罪は跳ね返り、私のところへと戻ってくる。
そうすると私はなんだか少しばかり気分がよくなって、「ごめんなさい」を紡いだ数秒前の私を蔑みたくなってしまう。
可哀想に。何とも哀れだ。そんなことを思いたくなってしまう。

そうしていい気分になった相手は、そこで私というストーリーを完結させてくれるのが常であった。
この少女は可哀想な子。哀れな子。自分より劣った子。だからもう用はない。これでおしまい。
そうして、多くの人が私から遠ざかってくれた。私が安心できるところまで遠ざかり、そして私を忘れてくれた。
私はそうやって、自らの自尊心を手放して、地に這いつくばるようにして旅を続けてきた。

そうして誰もの下を這い続けた私が、フレア団の野望を止めることに成功したことは、私を知り、私を忘れた全ての人にとって衝撃的だったようだ。
周囲は私に、カロスの救世主であることを期待した。チャンピオンに勝利した私に、あらゆる栄光を預けようとした。
けれども私はそれらから逃げ、地を這い続けることを選んだ。私を呼び止める人の手を拒んだ。言い訳ばかりを告げていた。

「あれは偶然の結果なんです」「運命の悪戯だったんです」「私の力ではないんです、本当なんです」
「私はこの土地で大きなことをするつもりなんかありませんでした」「立派なことをして称えられようなんて少しも思っていませんでした」
「私は貴方達の期待には応えられません」「ごめんなさい」「ごめんなさい」

『私はただ、この綺麗な場所で静かに旅をしたかっただけなんです。ポケモンと一緒に生きていたかっただけなんです。
そうしていつか、この綺麗な場所に私の居場所を見出せたらと、それだけをずっと、ずっと考えていたんです。だからもう、放っておいてください』

前半だけを震える声で告げて、後半は心の内に隠した。
こんなにも美しい土地にこんなにも至らない私が居場所を作ろうとしていた、などということを、名前も知らない相手に知られたくなかったからだ。
私は、それ程多くを望んでいなかったにもかかわらず、その数少ない祈りを聞き届けてくれないばかりか、余計なものを次々と押し付けようとする、
この美しい土地、そしてひいてはそこに生きる大勢の人々を、少しだけ、いやかなり、嫌いになり始めていた。

けれども彼が、彼だけが「それ程多くを望んでいなかった私の、ささやかな願い」を叶えてくれた。

今の私にはもう「ごめんなさい」と共に地を這う必要がない。大勢の期待を恐れる必要もない。
私はやっと、私の望んだものだけをこの腕に抱くことが叶った。彼がそうしてくれた。彼が、他の誰にもできなかったことをしてくれた!

「ズミさん!」

そういう訳で、今の、彼だけを信じ彼だけを指針とする私がいる。
ミアレシティのローズ広場に彼を見つけるだけで、大きく手を振り彼の名前を呼ぶだけで、すっかり救われてしまう私がいる。
そうして彼も私を見つけてそっと手を振ってくれる。それだけで私の正しさは証明される。

「早いですね」

「ええ、早く来すぎてしまいました。随分と浮かれていたもので」

彼が「浮かれている」というのであれば、私のこれは「何」と表されるべきなのだろう。
私は考えかけたけれど、やめた。きっとこれだって、いつか彼が優雅な調子で素敵な表現を私の代わりに用意してくれるに違いなかったからだ。

「列車、確か10時25分でしたよね。まだ少し時間があるけれど、もう向かっておきますか?」

「ええ、そうしましょう。遠出なので時間に余裕があるに越したことはありません。……ですがその前に少しだけ、よろしいですか?」

声のトーンを少しだけ落として、彼は問いかけてきた。
何だろう、と思いつつ「どうぞ」と返せば、彼は私の目線に合わせるように腰を曲げた。

私の目元を遮る帽子はもうないため、そんなことをせずとも私達の視線は交わる。
けれども彼は敢えてそうした。つまり真正面から視線を合わせないといけない理由があるのだ。
これから彼がしようとしている何かは、こうしなければ成し得ない特別なものなのだ。

意識した行為ではなかったけれど、私の息は自然と止まっていた。
二人の間の静寂が私の全てであったから、ミアレシティの大通りに響く靴音も他者の声も耳に入らなかった。
きっと私は、二人の間の静寂を守るために呼吸を止めたのだろう。

「今、午前10時です。ここから丁度48時間、明後日の午前10時まで、このズミは完全に貴方のものになります」

「え……?」

たった一音、呆けた母音だけを唇に貼り付かせて驚く私に「勿論、普段からそうであることは否定しませんが」と、彼は笑いながら続ける。

「貴方は貴方のしたいことをしたいようにしてください。貴方がこの48時間の間でどのように動いたとしても、私は絶対に貴方の傍を離れないと誓いましょう。
貴方が普段、どのようなことを考え、どのようなことに心惹かれるのか、知りたいのです。一切の遠慮のない、貴方の気負わない姿を見せてください」

「そ、そのルールじゃ私ばかりがなんだか楽を、得をしているような気がします。それに、本当の私を見せたら、貴方は私を嫌ってしまうかもしれない」

「ではシェリー、貴方は噛み付くようなキスをしたり貴方の口からチョコプリッツェルを奪ったりした私のことを、一度でも嫌いになったことがあったのですか?」

彼の提案に驚き、私は逃げるように遠慮と恐れの言葉を紡ぐ。
けれども更に彼は面白そうに言葉を重ねて、にっこりと笑いながら私の逃げ道を塞いでいく。私は勢いよく首を振りながら、考える。

確かに私は、恋を一段飛ばしで駆け上がる彼を嫌いになったことなどなかった。
彼が私の知らないどのような面を見せたところで、それは私の彼への想いには何の関係もないところだった。
むしろ、嬉しかった。今まで知らなかった彼をこの目で見ることができて、誰よりも近い場所で彼を知ることが叶って、私はとても嬉しかった。

私の「これ」も、彼にそんな気持ちを差し出すことができるのだろうか?
どうしようもない私を知る、などという現象も、彼を嬉しい気持ちにさせることができるのだろうか?
もしそうなら、なんて、なんて幸せなことだろう。
私はそうした、とても驕った想定を頭の中で展開させ始めていた。その展開を進めることを、彼が、彼だけが許していた。
そして私にとって彼が世界であったのだから、もう、私はこの世というものに完全に許されたも同然であったのだ。

「私は、貴方を潰すような酷い甘え方で貴方に凭れ掛かるかもしれない」

「構いませんよ、そうした貴方を見たいのです」

「貴方が、うんざりしてしまうかもしれない」

「仮にそうなったとしても、私は貴方から離れませんよ。ずっと、貴方のものです」

この立派な人が私のものになる。かの魔術師はそうした不思議な魔法をこの48時間にかけてくれる。
ならばきっとそれでいいのだろう。私は彼の魔法を甘受し、私のしたいように振舞えばいい。それだけでいい。

手を伸べた。彼は目を見開き僅かに首を傾げた。握ってくださいと告げれば小さく笑ってその手を重ねてくれた。
もっと強く握りましょうかと尋ねてくれたので、このままで、と返した。畏まりましたと告げながらやはり彼は微笑んでいた。
帽子は持ってこなかったのですか、という彼の問いに、もう必要ないんです、と告げてみれば、彼は困ったように僅かに眉根を下げつつも、私の欲しい言葉をくれた。

「あの帽子は似合っていたので少々惜しい気もしますが、貴方の顔がよく見えるようになった点は素直に嬉しく思っていますよ」

私は笑った。ありがとうございます、と告げた。貴方の顔がよく見えるようになって私も嬉しい、などと口にする勇気はまだなかった。
手を繋いだまま、小さな歩幅でミアレシティの大通りを歩いた。大きなキャリーバッグを引きながら歩く私達に、すれ違う人は視線を向けた。
「視線を向けていることが分かる」のは、今日の私が帽子を被っていないからだ。今の私の視界を遮るものは何もない。そして、そのことをもう恐れなくていい。
私は、恐れなくていい。

「お隣さん?」

そうですよね、ズミさん。私はもう、誰の視線を恐れる必要もないんですよね。
そうだと言ってください。

2019.2.28

© 2024 雨袱紗