B4:十二単は仄甘く

※50万ヒット感謝企画、テーマ「雛祭り」

ミアレシティにある美術館へと足を運んだ。珍しく小雨の降る町を、2本の傘を並べて歩いた。
私の背は彼のそれよりも幾分か低いため、傘の位置に気を付けていないと、彼の肩に私の差した傘の雫が付いてしまう。
必然的に距離を置いて歩くことになるのだけれど、彼は暫く無言で歩いてから溜め息を吐き、私の許可を得ることなく、私の手からピンク色の傘を取り上げた。

「二人で歩いているのに、こんなにも距離があるというのもおかしな話でしょう」

そう言って、彼は自分の青い傘に私を招き入れた。
肩が触れ合う程に近いところで彼と歩くことというのは、今更、特に緊張すべきことではないけれど、それでも此処は彼の家ではなく、ミアレの大通りだ。
人の目がある分、私は少しだけ畏縮してしまう。こんな素晴らしい人の隣を私が歩いてもいいのかしらと、懐かしい不安が呼び起こされる。

「……やはり少し混雑しているようですね。もう少し早めに家を出るべきでしたか」

けれど、彼は私をこれ程までに近くへと招くことに、特に緊張も躊躇いもなかったようで、
美術館の入り口で平然と傘の水滴を落としながら、美術館に入っていく人の多さに少しだけ驚きつつ、そんなことを口にした。

「あ、パンフレットがある」

受付のカウンターにあったパンフレットを思わず手に取れば、ただそれだけのことに彼は小さく笑った。
「貴方は本当にパンフレットが好きですね」という言葉が平然と彼の口から紡がれる、ただそれだけのことにはっと顔を上げ、肩を竦めるように、照れたように笑った。

彼と美術館に来るのは今回が初めてではない。ミュージカルを観に行ったことも、コンサートを聞きに行ったことも、遠くの地へ伝統工芸の製作体験をしに行ったことだってある。
その度に、こうして現地のパンフレットを貰って帰っては、家にあるスクラップファイルに一つ残さず溜め込んでいる。
そんな私の姿を彼はずっと見てきたのだろう。覚えていてくれたのだろう。だからこその「パンフレットが好きですね」という言葉であり、つまるところ、私は嬉しかったのだ。
その言葉は、私のそういうところを知るこの人しか紡ぎ得ない言葉であると、知っていたから私はパンフレットを強く握り締めた。

手の平に少しだけ汗をかいていたのか、パンフレットはつるりと滑って私の手元を離れたけれど、それが床に叩きつけられるより先に、彼がさっと手を伸ばして掴んでくれた。
「ごめんなさい」という自分のための謝罪ではなく、「ありがとうございます」という相手のための感謝を紡いだ。
彼は不思議なことに、クスクスと至極楽しそうに笑いながら、「さあ、行きますよ」と告げて、私の背中を軽く押した。

こういう場で、私達は手を繋がない。道中で今回のように一本の傘に入ったり、手を繋いで道を歩いたりすることは勿論あるけれど、ここでは決して互いの手を握らない。
目的地に着けば、私の方から自然と手を離す。彼が芸術作品を前にして、考え込む時に両手を使って腕を組むことを知っているからだ。
彼はそういう時、少しだけ驚いたように私を見下ろすけれど、私が美術館の方を指差せば、彼は全てを察したように笑い「ありがとうございます」と私の頭を撫でてくれる。
彼は息をするように「ありがとう」という感謝の言葉を紡ぐ。それは、無数にある彼の好きなところの、たった一つの要素に過ぎないのだけれど。

「ズミさん、雛人形展は2階でやっているみたいですよ」

パンフレットから顔を上げ、そう告げて階段を指差せば、彼は小さく相槌を打って階段へと向かう。私も慌ててその後に続く。
この人混みにもかかわらず、少しだけ速足になっているのは、おそらく2階に広がる、未知の文化に触れる瞬間が待ちきれないからだろう。
澄ました表情をしている彼だけれど、芸術のことに関しては何処までも貪欲だ。そんな彼の一面が楽しくて、彼に聞こえないように小さく笑った。

2階には、赤やピンクの着物らしきものを纏った小さなお人形がずらりと並べられていた。
金や銀の小太鼓や笛などを構えた彼等は、蝋のように白い肌をしていた。その肌の白さが余計に、彼等の衣装や小物の鮮やかさを際立たせているように見える。
階段にレッドカーペットを敷いたようなそれは「雛壇」というらしい。最上段で立派な着物を纏った二人が「お内裏様」と「お雛様」なのだと、スタッフの人が説明してくれていた。

私はそれらの、目を穿つような眩しい色彩に「綺麗」と思うことしかできないけれど、ズミさんはその雛人形を一体ずつ、興味深そうにじっと見ていた。
青い目がすっと細められて、ああ、これは「勉強」の姿勢だと、判断した私は彼から一歩だけ離れて、それを邪魔しないように他の雛人形へと視線を移した。

彼はポケモンリーグの四天王を務めている。そして同時に、ミアレシティの有名なレストランでシェフを任されている。
ポケモン勝負も料理も「芸術」だと口にする彼は、日々、勉強を怠らない。
たまにこうして、美術館に足を運ぶのだって、彼なりの勉強の姿勢であることを私は知っていた。

けれど不思議なことに、彼は料理が提供されるような食べ物関係のイベントや、ポケモンバトルの場には滅多に顔を出さなかった。
いや、一人で訪れているのかもしれないけれど、少なくとも私を誘って赴く「アート」は大抵、料理やポケモンバトル以外の形をしていた。
それは絵画や彫刻であったり、遠くの地からやって来た伝統工芸であったり、またあるいは映画や音楽、ミュージカルだったりしたこともあった。
私は彼のそうした「勉強」と称した高尚な娯楽に同伴させてもらいながら、彼のそうした行動を、常々、不思議に思っていた。

料理やポケモンバトルを極めようとする人なのに、どうして料理関係の場やポケモンバトルの場に足を運ばないのかしら。
素人であった私はただぼんやりとそんな風に思いながら、しかし決して口には出さなかったのだけれど、
彼がそうしたあらゆる芸術に触れようと足を伸ばすのは、芸術に関する教養を広げるためのもので、
また同時に芸術家としての発想力の向上、いわゆるインスピレーションを得ることを目的としていたのだと、私はずっと後に、知った。

この人は私よりずっと賢い。私が彼から学ばなければいけないことはあまりにも多くあるけれど、私が彼に教えてあげられることなど皆無に等しい。
それでも彼は私の傍にいてくれる。
付き合ってくれますかと申し出てくれたのも、一緒に住みませんかと誘ってくれたのも、驚くべきことに、彼の方からだった。

私はまだ自分の価値を肯定的に見ることができない。私は自分に下すべき評価すら計りかねている。そうした、危なっかしくて覚束なくて、どうにも頼りない人間だった。
けれど、それでも私がこの素晴らしい人に選ばれてしまったことは、否定しようもない事実だった。
彼が好きになってくれたのは完璧で優秀な女性ではなく、取り柄を見つけることに苦労さえしそうな、こんなただの女の子なのだ。
たったそれだけの事実を認め、自分のこととして受け入れられるようになるまでに、あまりにも長い時間を要した。

真剣な面持ちで雛人形展を見て回っていた彼だが、ふいにこちらを振り返り「先程のパンフレットを見せて頂けませんか?」と告げた。
特に話を繋げることなく「どうぞ」と言ってそれを手渡せば、彼はその、10ページ程はあろうかという冊子をパラパラと流し読みし、その視線がとあるページでぴたりと止まった。
暫くそれを眺めていた彼は、少しだけ驚いたように「おや」と呟いてから、至極楽しそうに、それでいて少しだけ得意気に笑って、私にもそのページを見せてくれた。

「帰ったらこれを作りましょう。手伝ってくれますか?」

カントー地方に代表される東洋の土地では、お祝い事の席などでよく用意されるものであるらしい。
「ちらし寿司」と書かれたそのカラフルな料理は、しかしその美しく繊細な見た目に違わず、かなりの時間と手間を必要とするものであったらしい。

酢飯という、お酢で味付けしたお米に、卵やみつ葉、干しシイタケにニンジン、レンコン、豆の類まで、沢山の具材を少しずつ加えて混ぜていくだけ。
……こう書けばとても楽なように思えるけれど、実際には、あのズミさんが「これは大変ですね」と零す程に、大変だったのだ。

卵はスクランブルエッグなどではなく「錦糸卵」といって、紙のように薄く焼いたものを包丁で糸のように細く細く、切らなければいけないし、
野菜だって、細かく切ったものに火を通すためにお湯で下茹でしてから、更にそれぞれに別の調味料で味をつけなければいけない。
鍋とコンロが幾つあっても足りなさそうなそのレシピ内容にズミさんは苦笑しつつ「この手順で行いましょう」と、10分も掛からずに並行調理のスケジュール表を書き上げた。

蛍光ペンで色分けしながら「貴方には野菜を茹でる作業と、合わせ酢を作るところをお願いしたい」と、彼は真剣な顔つきで私に指示を出したけれど、
私が強張った表情をしていることに気付くと「そんなに気負いする必要はありませんよ、わたしの指示した通りにやってくれるだけで構いませんから」と、笑ってくれた。

砂糖やお酢、塩も少し加えて、合わせ酢というものを作り、それを固めに炊いたご飯にかけて混ぜながら粗熱を取る。
ニンジンやレンコン、ゴボウといった根菜類から、干しシイタケやみつ葉、絹さや、こんにゃくまで、実に10種類ほどの具材を一つずつ調理、味付けして、
それら全てを酢飯に加えて混ぜ終えた時の達成感というのは、どうにも、言葉には言い表せないものがあった。
私は簡単なところしか手伝っていなかったけれど、それでも自らがこの、あまりにも美しい料理の作成に携わったのだという事実は、私の胸にほんのりと誇りの色を灯した。

「しかし、これ程までに手間をかけて料理を用意する3月3日というのは、東洋の方々にとってどのような意味を持っているのでしょうね」

お茶を用意していると、ダイニングでテーブルセットをしていたズミさんが不思議そうにそう呟いた。
確か、そういうこともあのパンフレットに書いてあった気がする。私はページを徐にパラパラとめくり、該当するページをややあってから探し当てた。

「雛祭りは元々、女の子の成長を祝う行事だそうですよ」

そう告げれば、彼は驚いたようにその青い目を見開き、暫くして「……ああ、成る程」と零してから、すっと肩を落としてふわりと笑った。

「貴方が貴方であることを喜ぶための日だったのですね」

そんな言葉を口にした彼は、しかし平然と「さあ、食べましょう」と私に、彼の向かいにある椅子を勧めた。
茫然とした心のままにストンと席に着けば、彼は肩を震わせながら「なんて顔をしているんですか」と至極楽しそうに笑い始める。
こういう時は、笑おうと思った。貴方の言葉があまりに嬉しかったからだと、そうした感情の帰結だけを伝えるだけの方がいいような気がした。
これは「私が私であることを許すための料理」なのだと思ったことも、私はこの料理をもって彼に改めて許されているのだと思ったことも、
そうした思いを噛み締めて、久しぶりに泣きそうになってしまったことさえも、このまま、二人分の笑い声に溶かして忘れてしまえばいいと思った。
彼との刹那はどこまでも続くと信じられた。初めて食べたちらし寿司は、私が私であることを許すような、甘酸っぱい美味しさで舌先をくすぐった。

2016.3.5
椿さん、素敵な題材のご提供、並びにリクエストへのご参加、ありがとうございました!

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