A7:Don't forget the curse to you.

「用意するものは板チョコ2枚と、卵2つ。予め、オーブンを170℃に予熱しておくことを忘れないように」

温度を設定して、ボタンを押す。オーブンレンジという、電子レンジとオーブンの2つの機能を備えている我が家の家電は、早速静かな音を立てて予熱を始めた。
私の心臓は高鳴っていた。ホットケーキミックスでドーナツを作ったことはあったが、そうした「既製品」を使わずに、一からお菓子を作るのは初めてだったのだ。

お菓子作りの失敗の原因は、「材料の量り間違い」と「時間の計り間違い」の2つに分けられる。
そのため、普段からお菓子作りなどという可愛らしい趣味を持っていない人間が、その難易度の高いものに挑戦しようとするならば、
徹底的にその2つの原因要素を排除し、最善を尽くして取り組まなければならない。
私は考えた。そして辿り着いた結論が、この究極のレシピである。

お菓子作りの経験が殆どなかった私は、レシピのややこしさと見知らぬ材料の数々に辟易していた。
ベーキングパウダー、ゼラチン。この辺りならまだしも、バニラビーンズがどんなものなのか分からないし、アーモンドプードルに至っては聞いたことすらない。
並のレシピを理解することすらもできない私は、できるだけ簡単なものを探すことに必死だった。
そしてこのレシピに辿り着いたのだ。市販の板チョコと卵だけでガトーショコラができるという、夢のようなレシピに。
板チョコと卵。これなら量り間違いを起こすことはまずないし、これ以降二度と使わないかもしれないような、変わった材料を用意する必要もない。

「板チョコを軽く刻んで湯せんにかける。卵は卵黄と卵白に分けて、卵白を泡立ててメレンゲ状にする」

包丁を縦に下ろし、ザクザクと板チョコを切っていく。甘い匂いが鼻を掠める。つい、笑顔になる。
つまみ食いをしたい衝動を堪えて、私は刻んだチョコレートをボウルに入れ、湯せんにかけた。
ボウルを隔てて下のお湯により、チョコレートがじわじわと溶けていく。

……お菓子が食べたいのなら、店にいくらでも売っている。
普通のコンビニやスーパーで食べる既製品も美味しいけれど、もう少しお金を出せば、カフェで出来立ての洋菓子を楽しむことだってできる。
私のような素人が作る必要などないくらい、カロスは美味しいものに恵まれていた。

それなのに、私はこうしてキッチンに立っている。

『ズミさん、クリスマスに何か欲しいものはありますか?』

そもそも、あんなことを尋ねてしまったのがよくなかったのだろう。
「特にありませんね」と返されると思っていた。もしくは「貴方がくれるものなら何でも」と、恥ずかしいことを言ってのけてしまうのではと予測していた。
けれど、彼が少しの思案の後に紡いだのは、その2つのどちらにも当て嵌まらないリクエストだった。

『貴方の作ったものが欲しい。貴方の手が入ったものなら何でも、本当に何でも、構いませんから』

……レストランでシェフを務める彼に、素人が作ったお菓子をプレゼントするだなんて、愚行にも程がある。そんなことはよくよく分かっている。
けれども残念ながら私には他の選択肢がなかったのだ。
手編みのマフラーや手袋を用意できるような器用さは持ち合わせていない。エプロンに刺繍を入れたりアクセサリーを作ったりするような技量だって当然のようにない。
最もポピュラーで、最も簡単なものを探した結果、お菓子作りに行きついてしまったのだ。
しかし、その最も簡単であるはずのお菓子作りですらも、私にとっては高い壁だったのだ。

それでも、努力が下手で苦手な私が、こんなことをしようと思い立ったのは、彼のあの言葉があったからだ。
『作ろうとしたけれど、失敗した』そう嘘を吐けばよかったのかもしれない。けれどそれは同時に私の不器用さを彼に知らしめる結果となる。
私の歪なプライドはそれを拒んだ。だからこそ私は、こうして慣れない手つきで板チョコを溶かしている。

そう、この選択は私の、努力を嫌う心と醜く肥えたプライドとが絶妙に混ぜ合わされた結果の産物なのだ。
そしてこんな私の作るものを、何故か彼は欲しいと言って笑ったのだ。

「卵白をしっかり泡立ててメレンゲを作る。卵白と溶かしたチョコを混ぜて、そこに少しずつメレンゲを混ぜる」

泡立てたメレンゲを崩さないように、さっくりと混ぜる、と書いてあるが、私にはその「さっくり」が分からない。
仕方がないのでそっと軽く混ぜ、マーブル状のままに容器へと移す。直径12cm程のとても小さなホールだ。
本当は卵と板チョコを倍量使って、17cm程のものを作った方が見栄えがよくなるのかもしれない。
しかしそんなに大きなものを作って、もし美味しくなかった場合、それを消化しなければならない彼があまりにも不憫だ。
第一、彼は甘いものがそこまで好きではない。

「オーブンで20分焼く。後の焼き加減は細い串を刺して確認すること」

オーブンレンジの中で回り始めた容器を見ながら、私は湯せんをかけたり、卵白を泡立てたりする際に使ったボウルを片付けていく。
固まってしまったチョコレートはなかなか溶けてはくれない。スポンジで乱暴に擦りながら私は溜め息を吐いた。
お湯を注げば簡単に溶け落ちるということに気付いたのは、その大半を力技で除去した頃だった。

キッチンを片付け、一息吐いた頃に、オーブンが20分を知らせる音を鳴らす。
焦げすぎていたらどうしよう。「これが私の自作した墨です」などと冗談めかして彼に渡すだけの度胸は当然のように、私にはなかった。
しかしその心配は杞憂だったようで、綺麗に焼き上がったガトーショコラがオーブンの中から現れてくれた。

ズミさんは私の差し出した小さな箱に目を丸くした。

「お口に合わなければ捨ててください」

顔を真っ赤にして、彼にそれを押し付ける。
暫くの沈黙の後で、ズミさんはその中身の正体に気付いたらしい。僅かに微笑みを見せて、口を開いた。

「本当に作ってくれたのですか。ありがとうございます」

するとあろうことか、彼は目の前でその箱を開けたではないか。
私は制止も忘れてぽかんと立ち尽くした。あまりの恥ずかしさに居たたまれなくなる。視線を黒いリボンの付いた靴に落として、両手を強く握り締めた。
彼は添えておいたフォークでガトーショコラを一口分だけ切り取り、そのまま口へと運んだ。
私は判決を待つ被告のような心境で、彼の次の言葉を待った。彼はそれを飲み込んで、困ったように微笑んでから口を開いた。

「味に、ムラがありますね」

「!」

「メレンゲを崩さないようにと意識しすぎて、混捏を怠ったのでしょう。もう少し思い切って混ぜてもよかったのですよ。
それからガトーショコラ特有のしっとりとした舌触りに欠けています。これは今日焼いたものですね?
ガトーショコラの濃厚さを最も楽しめるのは、焼いた翌日とされているのです」

手の先がすうっと冷えた。私は言葉を失って俯くしかなかった。重刑を下された被告もきっと、このような気持ちだったのだろうと思ってしまった。
饒舌に弁明を重ねられるような明るい人間ではない。次回までに改善しておきますと前向きに紡げるようなできた人間でもない。
私は悉く矮小だった。悲しさと悔しさが入り混じった自分の表情を、せめて見られないようにと強く俯くことしかできなかった。

「それなのに、何故でしょうね」

深く、深く俯いていた私は、気付かなかったのだ。
彼の表情が、とても珍しいかたちへと変化していたこと。本当に、本当に嬉しそうに笑っていたこと。
私が差し出したそれを即座に開けて、口へと運ぶということをしたのは、待ちきれなかったからだということ。
板チョコと卵だけで作られた、そんなものに彼が衝撃らしきものを受けていて、それを隠すように饒舌な批判を連ねていたのだということ。

「こんなに美味しいものを、私は初めて食べました」

私は思わず顔を上げる。私の見たことのない彼がそこにいる。

「私はこんなものを作れたことがありません。私の料理には、誰かをこのような気持ちにさせるような力などありません。
シェリー、貴方は……貴方は狡い。貴方は、私が一生をかけたとしても手に入れられないものを持っている」

「……そんなこと、」

「参考のために聞かせてください。貴方はこれに、何を入れたのですか?」

何のことでしょうとはぐらかせる程、私は器用ではない。そのままを答えられる程、素直でもない。
それでもきっと彼は分かっている。努力が下手で苦手な私が、今までしたことのないお菓子作りに挑戦した理由を、彼は知っている。
普段の私はこのようなこと、絶対にしない。頼まれても何とかして逃げ出そうとするだろう。自らの拙い力量を晒すだけの行為から、何としてでも逃れようと努めただろう。
貴方だからだ。貴方だから、私は逃げることができなかったのだ。
私をからかうためでもなく、私を軽蔑する材料にするためでもなく、ただ欲しいと願ってくれたから。そんな彼のことを信じてしまったから。
そんなこと、彼は確実に察している。分かっている。分かっていて尋ねているのだ。それはいつもの彼が見せる余裕だった。

けれど「狡い」と零した彼の声に、その余裕が少しだけ揺らいだ気配を見てしまった。
だから私は、彼のその問い、彼が笑顔で強いた罠から目を逸らすことなく、更にその上を飛び越えてみようと思ったのだ。

「貴方が、このチョコレートの甘さに胸焼けを起こしてしまえばいいと、そうした呪いを込めました」

甘い匂いのする小箱を抱えて、彼は声を上げて笑った。
ひとしきり笑って、小箱をテーブルの上にそっと置いて、まるで子供がじゃれ合うような腕の動きで、首を絞めるように私の頭を抱いた。
小さな、本当に小さな「ありがとう」が降ってくる。それだけで私の緊張は、不安は、なかったことになってしまう。
後に残ったのは彼の腕の温度と、私の胸の奥に揺蕩う安堵だけだ。だから私はその温かい安心に身を委ねるようにして目を閉じた。

ああ、本当に、彼が胸焼けを起こしてしまったらどうしよう!

2014.12.24(2019.2.17 修正)
(貴方への呪いを忘れてくれるな)

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