A8:Continue to realize a small dream

「味に均一性を持たせるためにしっかりと、でも、メレンゲが壊れてしまわないようにさっくりと……」

私は呪文のようにその言葉を紡ぎながら、ボウルの中身をかき混ぜていた。
甘い香りが鼻を掠める。オーブンレンジが予熱完了を電子音で知らせる。私は小さく溜め息を吐いて、丸い容器をとんとん、と軽く叩いた。
不器用な私でも、流石にこう何回も作れば嫌でもコツが掴めてくる。
彼の境地に達せるだなんて思い上がったことを考えたりはしないけれど、それなりに食べられるものができているはずだ。

クリスマスに、私は手作りのガトーショコラを渡した。
ズミさんはそれに厳しい批判を加えながらも、私の目の前でそれを完食してみせた。
彼の珍しいリクエストを叶えた私は、それ以降、二度とお菓子を作らないはずであった。

シェリー、またあのガトーショコラを作ってくれませんか?』

そう、彼があんなことを言わなければ、私が再びキッチンに立つこともなかったのだ。
私は彼のその言葉を思い出して、再び溜め息を吐く。
近くのスーパーで買った、少し苦めの板チョコと卵で出来たその拙いケーキが、ズミさんの舌に合う訳がない。「美味しい」というそれだって立派なお世辞だ。
しかし彼は他のどんなお菓子でもなく、私の作ったガトーショコラを食べたいと頼み込んだのだ。
彼は一体、何を考えているのだろう? 私は訳の分からぬままに了承するしかなかった。

もう一度、渡せば満足してくれるかと思っていたが、彼はその後も定期的に、私にガトーショコラを催促した。
プロである彼からしてみればお粗末極まりないものでしかないはずなのに、しかしそれでも「文句なしに美味しい」と言って彼は笑う。

『参考のために聞かせてください。貴方はこれに、何を入れたのですか?』
彼は時折、とんでもないことを言う。こちらが恥ずかしくなるようなことを、真顔で淡々と言ってのけるのだ。
私はそこに彼の余裕を見る。彼は余裕があるのだ。私と彼との関係を、素敵な文句や仕草で演出するだけの余裕が。
一方の私は、自分の中に湧き上がる感情を、ただその瞬間に咀嚼しきることしかできない。
彼のように気の利いた言葉など思いつかないし、彼を喜ばせてあげる文句など、捻り出せるはずもない。私は手先だけではなく、心までも不器用な人間だった。

だから、私ができるのはこれくらいしかないのだと、言い聞かせている。
努力の苦手な私が、試行錯誤を繰り返している。少しでもマシなものが作れますようにと、唱え続けている。
彼の為にできる何かを思い付くことなどできやしないし、彼に頼まれなければ、彼の為に努力することもできない。
そしてそんな私を、何故か、彼は好きになってくれた。

「上手く、焼けますように」

私はオーブンに容器を入れて、ボタンを押す。そうすれば少しだけ笑うことができた。
このボタンを押す操作だけは、きっと彼よりも私の方が上手にこなせるはずだと、そんな、幼児が抱くような優越感をこっそりと楽しむことができたからだ。

いつものように閉店後のレストランにやって来ていた私は、昨日の内に焼いておいたガトーショコラを差し出した。

……驚くべきことだけれど、私が「Staff only」と書かれた札の向こうへ入ることを咎める人は誰もいない。
毎日のようにズミさんに会いに来ている私は、このレストランではそれなりに有名な人物になってしまっていた。
いや、少し語弊があるかもしれない。私は毎日のように此処を訪れているから有名なのではない。
毎日のように此処を訪れ、そして中に入ることができているから、有名になってしまったのだ。

数多くのそうした女性の訪問を断り続けてきたあのシェフが唯一、招き入れることを許した相手。
このレストランで働く多くの人は、私をそんな風に認識している。
だから誰も私を咎めないし、閉店時刻よりも前に訪れてしまった時でも、お客さんの視線がない隙を見計らってこっそりと彼のところへ通してくれさえする。
彼等の気さくな挨拶と歓迎の言葉に、私はまだ臆してしまうけれど、いつか、ちゃんと相手の目を見て挨拶を返すことができるようになれるのだろうか。
彼の目を見て話をすることができるようになった、あの日の奇跡は、また私へと訪れてくれるのだろうか。

それでもなんとか感謝の意を表する意味で、皆さんに深めの会釈をしつつ、厨房の奥へと進んでいった。
片付けを粗方済ませた厨房には、食材と呼べそうなものはほとんど残っていなかった。今日はとても珍しいことに「そこまで忙しくない日」であったらしい。

「こんばんは、シェリー

「あっ!」

大きな冷蔵庫の影から何の前触れもなく現れたズミさんに私は驚き、思わず声を上げてしまう。
彼は少しだけ呆れたように笑いながら、私の為に椅子を用意してくれた。
どうぞ、と促すためにこちらを振り返った彼は……私の顔を見て、その眉を少しだけ怪訝そうに下げた。

「どうしたのですか?」

「え……」

「いえ、不安そうな顔をしているように見えたので。私の気のせいであるならいいのですが」

彼は鋭い。
それは私よりも長い歳月を生きた彼だからこそ為せる技なのか、あるいは四天王とシェフとを兼任するその器用さの産物なのか。
いずれにせよ、私には到底辿り着けそうにない境地だった。
彼には私の心がおぼろげながらに読めるのかもしれないけれど、私は違う。私は彼が何を考えているか、全く分からない。
貴方がどうして、私の作るガトーショコラを何度も欲しがるのか、この拙い味に何を思っているのか、私にはやはりどうしても分からない。

「ズミさん、どうしてですか?」

私はお粗末なガトーショコラを彼の胸に押し当てて、そんな言葉を吐き出した。
みっともないことを尋ねていると分かっている。「分からない」と開示することはきっと愚かなことだ。けれど、止まらなかった。
分からないことを分からないままにしておくことに私は慣れていたけれど、この不思議な出来事だけはどうしても紐解いておきたかったのだ。

「どうして、こんなお菓子を食べたいって言ってくれるんですか?」

「どうして、とは?」

「だってズミさん、甘いもの、そこまで好きじゃありませんよね。それに素人の私が作ったものなんて、美味しいはずがありませんよね?
それなのにどうして食べてくれるんですか? どうしてまた食べたいって言ってくれるんですか?」

沈黙が降りる。私は居たたまれなくなって視線を足元に下ろした。
下手なお菓子を作って、プロである彼に差し出す度に、とてつもなく恥ずかしいことをさせられているような気持ちになっていた。
彼が美味しいと言ってくれる度に、心を抉り取られるような悔しさとやるせなさに襲われていた。
私には、彼の口に合うものを作るための力も、作ろうと試行錯誤する前向きな精神もない。それなのに、どうしてなのか。

私は恐る恐る、彼を見上げた。見上げて、そして息を飲んだ。彼が呆気に取られた顔をしていたからだ。
そんなことを尋ねられるとは思っていなかった、というような、そんなことを気にしているなんて全くの予想外だ、というような、表情だった。
ガトーショコラを求めることが、私を「恥ずかしく」させていた、などということに、彼は今の今まで全く思い至っていなかったような様子なのだ。

「……ああ、そうか」

彼にしては長い沈黙の後で、そう零し、肩を小さく震わせて笑い始めた。
そんなにおかしなことを言ったつもりはないのにと、不安になった私の頭を、彼はいつものように手を伸ばしてそっと抱いた。
彼は自身の高い背を少しだけ折って、私の顔に目線を合わせる。近くなったその端正な顔から、目を逸らしたい気持ちはあるのに、逸らすことができない。

「貴方は自分のガトーショコラが、幾度となく馬鹿にされているように感じていた。そうですね?」

図星を突かれて私は再び俯く。
小さく紡いだ肯定の返事を、彼は零すことなく拾い上げてくれた。

「貴方の気持ちも考えずに、申し訳ないことをしましたね。ですが私が、貴方の作ったものを美味しいと思っていたのは本当ですよ」

彼は手を私の頭に回したまま、あやすように軽くぽんと叩いた。

「私は料理を生業としていますから、誰かのお手製の料理、というものを貰ったことがないのですよ」

「それは……当たり前のことだと思います」

「ええ、そうかもしれませんね。しかしこうは思いませんか?
もてなす側の人間も、もてなされてみたいと思うことがあるのだと。……特にそれが、特別な人物からのものなら、殊更に」

肩を竦めて、彼はらしくないはにかみを見せる。
私は火照った顔を直視されないようにと、彼の腕に顔を埋めた。

「夢だったのですよ」

しかしその顔を、その言葉と共に勢いよく上げることになってしまう。
今、私は信じられない響きをこの人の口から聞いた気がした。普段の彼が絶対に言わないようなことを、耳元で紡がれた気がした。
それが幻聴ではないことを、彼の赤くなった頬が証明していた。

「年甲斐もなく、はしゃいでいたのでしょうね。
催促する度に、前回よりも確実に上達したものを作ってきてくれることが、とても嬉しかったものですから。
不慣れな料理に挑戦して、私の為に手作りのガトーショコラを用意してくれることが、この上なく幸せに感じられたものですから」

「……」

「お分かりですか? 私は貴方が作ったものを喜ぶに飽き足らず、更に催促までしてのける、どうしようもない男なのですよ」

さあ、笑いたければ笑いなさい。彼の顔にそう書いてある気がして、私は僅かに首を振った。
少しだけ驚いた顔をした彼は、しかし何処かほっとしたように笑い、手元の箱をそっと開ける。

『こんなに美味しいものを、私は初めて食べました』
やっぱり変だ、と私は思う。
あんなにも美味しい料理を作ってみせる彼が、こんな素人の作ったガトーショコラにそんな感想を持つなんて。
けれど、彼のその心地は少しだけ理解できた。それは彼に触れられた私の頬がすぐに沸騰したようになってしまう理由に、少しだけ似ている気がした。

今度は貴方の好きなものを作ってみたい、と言えたならどんなにかよかっただろう。
けれど、そうした健気な言葉を紡ぐことはとうとうできなかった。もし彼に好物があったとして、その味を私の下手な料理が汚してしまう訳にはいかないと思ったからだ。

2014.12.25(2019.2.17 修正)
(ささやかな夢を叶え続ける)

© 2024 雨袱紗