私達は何処を目指す訳でもなく、ただこの樹海を限りなく小さな歩幅で歩いていた。
今日という日を覚えておこうと思った。
世界にただ一人しかいないであろう私の片割れと、数え切れない程の言葉を交わしたこの夜のことを、私は絶対に覚えていなければいけないと思った。
時は流れる。記憶は薄れる。そんなことは解っている。けれどこの誓いが、そうした忘却の歩みを少しでも緩やかにしてくれる筈だと信じていた。
だから私は声に出さずに、覚えておこう、忘れて堪るかと何度も言い聞かせた。私の心臓はそうした私の誓いを一音ずつ刻むように、大きく心地良く揺れ始めていた。
Nの手を握った。私よりもずっと高い背を持っている癖に、その身体は針金のように細く、箱入りで育てられた少女よりも更に儚く脆い造りをしているように思えた。
そうした華奢の過ぎる部位は彼の手においても例外ではなく、手の平はあまりにも平たく、指先はあまりにも冷たかった。
唯一、私よりも少しばかり節の目立つ角張った骨が、かろうじて、彼が私とは異なる性別をしているのだということを知らしめていた。
Nはそうした、私の「手を握って歩く」という行為を、不思議そうに笑いながら「あったかいね」と紡ぐことで肯定した。
「あんた、自分が英雄である意味はもうなくなってしまった、なんて、思っている訳じゃないでしょうね」
「……凄いね、トウコ。キミはボクの心を読む天才だ」
どうやら人の使えない勘というものは、当たってほしくない時にこそ正鵠を射るように出来ているらしい。
大きく溜め息を吐いて「ふざけたことを考えないで」と苦笑しながら軽く叱咤した。
「でもボクの、ボクたちのやってきたことは間違いだったんだ」
「でもあんたにとってはそれが真実だったんでしょう。その真実を元に積み上げてきた理想の形に、嘘なんて一つもなかったんでしょう」
そうだね、と答える代わりに、彼は繋いでいた手を少しだけ強く握り締めた。私よりも年上の青年であることを忘れてしまうくらい、その力はとても小さなものだった。
けれどそこには確かな質量があった。彼が確かに歩んできたことを示す力を、私は「非力」だとか「か弱い」だとかいう言葉で片付けてしまいたくはなかった。
「あんたにしかできないことはまだ残っているわ。人に虐げられたポケモンの心を読んで、彼等の訴えを、願いを聞くことはNにしかできないでしょう?」
「……確かに、そうかもしれないね」
「世界の多くは私の知る真実の形を取っている。だから私はポケモンと人が一緒にいるべきだって理想を絶対に譲らない。
でも私の理想だけじゃ、取り零してしまうものだって確かにあるのよ。あんたはそれを拾い上げてくれないの?英雄は、一人じゃ何もできないのよ」
彼は驚いたようにその目を見開いた。おそらく今日が満月であったなら、その目には同じように、目を丸くした私の姿が映っていたのだろう。
ずっと拒み続けていた「英雄」の音が、ひどく心地良い温度で私の鼓膜を揺らしたことに、けれど私は驚きこそすれ、動揺したりはしなかった。
つい数時間前の私が「馬鹿げている」と笑っている気がしたけれど、今の私は、笑えなかった。
私は英雄になりたくないのではなかったのか。英雄となってイッシュに食い潰されることを、何よりも強く拒みたいのではなかったか。
だからこうして、唯一の味方であり理解者である彼の腕に、その折れそうに華奢な腕に縋り、こうして、逃げてきたのではなかったか。
私と彼に垂れ下がる黒と白の糸、それを切るためだけに、躍起になっていたのではなかったか。
「私達は互いに一人で走ったところで、正しい方向になんて進めやしない。私もあんたも、きっと、どっちが欠けても駄目なのよ」
けれど、もう口にした言葉には微塵の躊躇いも葛藤も残されていなかった。
あれ程までに忌避し続けてきたこの大層な肩書きが、しかし彼を助けるための唯一の音であるのだと、ようやく理解することができたから、私はもう、迷わなかった。
貴方の片割れであるために、私は英雄になる。
貴方を必要だとする証になる。私が、貴方がこの世界にいてもいいのだと証明する。
それでも不安なら今のように言葉を重ねる。貴方が信じてくれた私の言葉で、貴方を何度だって肯定する。
私はイッシュ地方のためでも、そこに生きる人やポケモンのためでもなく、私と、その片割れである貴方のために英雄になる。
私は私と私のポケモンのために戦って、そして貴方を救ってみせる。
「私、あんたと戦うわ」
「……どういうことだい?」
「あんたはプラズマ団の王として、私の前に立てばいい。ポケモンと人が一緒にいることで得られるものなんか何もないんだって、そんなあんたの真実を振りかざしていればいい。
私は私の力でゼクロムを目覚めさせるし、その上でちゃんとあんたを倒すわ」
子供っぽい悪戯めいた提案を、私は笑顔で饒舌に語ってみせた。
貴方は今日という日をなかったことにしてプラズマ団に戻ればいい。昨日の貴方のままでチャンピオンに挑めばいい。
そんな貴方の理想を私は、貴方の見た未来通りに正面から打ち砕いてみせる。貴方が一人で道を引き返すことを恐れているのなら、私がその手を引いてみせる。
そうすれば、これまで貴方を慕い崇めてきたプラズマ団の全てを、貴方が裏切った、なんてことにならずに済むでしょう?
私達の真実は二人で一つの形を取るのだから、そのためには、相容れないこの状態からどうにかして脱却する必要があるでしょう?
全てが終わった後でなら、私が貴方の手を引くことも、貴方が私の手に従うことも、二人で一つの理想を追うことも、真実を作ることだって、許される筈でしょう?
……そうした、強引が過ぎる計画を展開した。彼は呆気に取られたように私の言葉を聞いていた。
「だからN、あんたは今日、私と話をした中で、あんたの真実が少しばかり違う形を取ってしまったことを、プラズマ団の連中に隠さなきゃいけない。
今日をなかったことにして、平然とあの場所に戻らなきゃいけない。あいつらを騙して、嘘を貫き通さなきゃいけない。
馬鹿げているって思うかもしれないけれど、……私にはこれくらいしか、あんたを助けるための方法が思い付かないの」
この、嘘を吐くことなどまるで知らないような彼に、酷な提案をしていることは解っていた。
けれど私は聡明な人間ではない。彼の何もかもを救いたいけれど、全てに最上の結果を出すことはきっとできない。
だから彼の協力が必要だった。「嘘」という、私も彼もずっと嫌い続けてきたその音を、私は彼に奏でろと詰め寄らなければいけなかったのだ。
彼は暫く考え込む素振りをした後で、「けれど」と首を捻り、尋ねた。
「その場合、キミも、嘘の理由でボクと戦うことになってしまうよ。
こうして話し合いで全てを解決に導くことだってできるのに、ボクとキミはポケモンを傷付けて戦わせて、そうした争いの下に結果を出さなければいけなくなってしまう。
もう、ボクとキミが争う理由など何もない筈なのに、それでもキミは自分と、この世界に嘘を吐いてまでボクと戦うのかい?」
「……そうよ、だってそうしなきゃ、あんたと私の両方を守ることなんかできないから」
私達は嘘で自分の身を守らなければいけない。そうしなければ生きていかれないのだと気付いてしまったから。
嘘でなければ私の大切なものは守れないのだと、知ってしまったから。
皮肉なことに、私が嫌い続けてきた、私を騙し、傷付けるばかりであった筈の嘘は、しかしそのまま、私の身を守るための道具となってしまった。
私も彼も、嘘を吐くことでしか、己を守ることができなくなってしまったのだ。
なんて、下らない世界だろう。私達はこんな世界にしか足を着けることが叶わないのだ。他の何処にも逃げることなどできないのだ。
けれど、この世界でなければ葉はひらひらと落ちない。この世界でなければ風は吹かない。
こんな下らない世界だったからこそ、私は貴方の片割れでいることができる。
「キミは大嫌いな嘘を吐いてまで、キミとボクにとって最上の結果を出そうとしてくれているんだね。それはボクにとってとても嬉しいことだ。嬉しいんだよ。けれど……」
言い淀んだ彼に続きを促せば、彼は少しだけ照れたような、私の見たことのない表情を浮かべた。
私は息を飲んだけれど、続けられた彼の言葉によって、その呼吸はいよいよ止まってしまいそうになったのだ。
「何故キミはそこまでするんだい?」
「!」
「プラズマ団の皆にはボクを敬い慕う理由があった。けれどキミはボクを慕ってなどいないし、ボクを守らなければならない立場にあるとも思えない。
キミの言葉に嘘がないことは解っているよ。だからこそ、その心がどうなっているのか知りたいんだ」
忘れた頃に呼吸を再開すれば、ぷつん、と呆気ない音がした。それは彼の頭上からではなく私の背後から聞こえたから、きっと切れたのは私の糸だったのだろう。
私に垂れる糸は、私が夕食と一緒に飲み下した他にも、きっと今も沢山、垂れ下がっているのだろう。今、切れたのは、きっとそのうちのたった一本に過ぎないのだろう。
それでもよかった。糸が残っていたとしても、私はちゃんと呼吸をすることができているのだと、気付くことができたからだ。それがどうしようもなく嬉しかったからだ。
私が彼のために動かなければならない理由など、きっと何処にもないのだろう。私は私の世界だけを守っていられればそれでよかったのだろう。
けれど、それでも私は彼と私の世界を守るために、大嫌いな嘘さえも吐こうとしている。
それは何故なのか?考えても答えなど出てくる筈がなかったから、私は「解らない」と正直に告げてみせた。
私は聡明ではない。故に貴方を助けたいと思う感情を、整然とした形で伝えることはできない。貴方に告げるべき最上の言葉を、私はまだ思い付けない。
……けれど私達がこうして隣に在る姿こそが、私にとっての理想なのだ。こうして貴方の隣に在りたいという想いが、私にとっての真実なのだ。
「あんたがポケモンを助けたいと思ったのと同じ理由よ、きっと」
少しばかり狡い言い方で私は逃げたけれど、Nはその華奢な肩を竦めて、至極楽しそうに笑ってくれた。
その瞬間、私を英雄にした黒い石が、鞄の中で大きく揺れ始めた。
2016.4.9
(「白鳥の湖」より、湖に落とされた三日月型の白い羽と、それを拾い上げる男)