11

10番道路に足を着けた。彼はレシラムから降りようとはしなかったけれど、そのまますぐにこの場を離れることもしなかった。

「ほら、早く行かなくていいの?私の方が先に、ポケモンリーグに着いちゃうかもしれないわよ?」

そんなことをからかうように告げれば、彼は困ったように肩を竦めて笑った。
たった一日しかこいつと過ごしていないにもかかわらず、彼の表情はあまりにも柔らかなものになっていた。
彼はこんな風に笑うこともできるのだと、こんな表情もしてみせるのだと、私は何度も驚き、息を飲み、瞬きを忘れた。
けれどもう、彼がそうした豊かな表情を浮かべることは、私にとって当然のことになってしまっていた。

「そうだね、ではポケモンリーグでキミを待っているよ。お互い、上手に嘘を吐こう」

「あはは、そうね。私も、上手に皆を騙してみせるわ」

彼は悪戯を企んだ子供のように微笑んでから、レシラムに「行こう」と告げた。
雲一つない青空に羽ばたくレシラムの翼が、千切れ雲かと見紛う程の小ささになった頃、私はようやく、ゼクロムをボールに仕舞った。

一歩、二歩と進めて、深呼吸をした。
鉛のような重さを示していた私の身体は、羽が生えたように軽くなっていた。首を絞められているかのように苦しかった私の呼吸は、透き通る空気ばかりを私の身体に巡らせた。
それらが本当に尊いことであると知っていたから、私はまるで宝物のようにその事実を噛み締めた。たっぷりと時間をかけて、私は私が此処に在れることの歓びを味わった。
それから、黄色い地面を強く蹴って駆け出した。

これから私は嘘の歩みを進める。誰もが、私とNが過ごした昨日の夜のことを、そこで交わした数え切れない程の言葉のことを知らずに終わる。それでいい。構わない。
私達の真実は、私とNだけが知っていればいい。それだけでいい。

険しいチャンピオンロードを抜けて、ポケモンリーグへと足を運んだ。強い四天王とバトルを繰り広げ、先へと進めば、想定していた通りの光景が私を待っていた。
あいつはチャンピオンに勝利した。当然だ。私にダークストーンを押し付けたような狡い奴に、Nが負ける筈がなかったのだ。
ポケモンリーグを囲うように現れた巨大な城にはとんでもなく驚かされたけれど、でもそんなこと、私が足を止める理由にはならなかった。

Nに敗北を期したチャンピオンも、駆け付けたジムリーダーも、やはりこれまでと同じように、私に何もかもを託した。
そこにはやはり、私とあいつだけの喧嘩のための道具や舞台を、私とあいつ以外の連中がせっせと整えているような、そうした滑稽さがあった。
それでいて彼等は大真面目に、やはり私でなければいけないと声を揃えて告げるのだ。
私はそんな彼等に呆れた。けれどもう私は、彼等の願いを拒まなかった。今までだって拒まなかったけれど、今回に限っては、きっと自ら手を伸べていたのだろう。
「任せて」とまで口にした私に彼等は驚いた。狡い大人達の何もかもを背負っても、私の身体は羽のように軽く、吸い込む息はどこまでも透き通っていた。

けれど、どんな懇願の言葉にも止まることがなかった私の足を止めたのは、私を呼ぶ誰かの声でも、私を阻む誰かの存在でもなく、静かで無機質な「空間」だった。

ダークトリニティの一人が「N様に与えられた世界」と称したその部屋、私はその床に縫い付けられたように動けなくなってしまった。
『空はボク等の足を縫い付けるものでなく、ボク等を自由に羽ばたかせてくれるものだったんだね。』
彼の言葉が脳裏で木霊した。私は瞬きをすることすら忘れて、床に描かれた空を茫然と見ていた。
長い時間の後でようやく思い出したように瞬きと呼吸を再開した私は、決して広くはないこの空間を、隅々まで見渡そうと躍起になった。
目に飛び込んできたあまりにも多くの情報は、私の頭の中で嵐のように吹き荒れていた。

『夕日というのはこんな色をしていたんだね。』
彼は夕日の色を知らなかった。彼は窓のないこの部屋から出たことがなかった。そもそも地下にあったこの城で、空を見上げることなどできる筈がなかった。

『素晴らしい数式の生みの親たる世界が曖昧な、答えのない形をしているなんてことはあり得ない。ボクは今までそうした世界で育ってきた!』
無機質な鮮やかさばかりで彩られたこの部屋は、彼に「変化」を教えなかった。
彼はこの無機質な、おもちゃの列車やダーツの遊び方を教わらなかった。バスケットゴールに列車を投げ入れる彼を、きっと誰も叱らなかった。

『ボクはプラズマ団の王として、大勢のヒトに大事に育てられてきた。けれどキミのように心を読んで、ボクが必要とする何もかもをくれるヒトはただの一人もいなかったよ。』
悪意ある人に傷付けられたポケモン達は、同じ「ヒト」の姿をした彼を恐れ、幾度となく牙を剥いた。
壁に付いた大量の引っ掻き傷、それと同じ数だけきっと彼も傷を受け続けていた。
そうした世界を造り上げた大人は、彼を英雄に仕立て上げるための何もかもを整えていた。集まった人間は彼を無条件に敬い、崇めたけれど、それだけだった。
彼は確かに大事に育てられていたけれど、そこに心など欠片も存在しなかった。心ない人間が、彼の心を読める筈がなかったのだ。

『キミと出会えたことでボクに訪れた一番の幸福は、空がボク等の上に在るものだと気付けたことだ!』

此処にある全ては何の変化も受けずに存在し続けている。無機質な鮮やかさはずっと同じところに留まり、混ざることも褪せることもしない。
一陣の風すら吹かないこの場所は、嘘を吐かず、ただ彼の真実だけを克明に示していた。

「……」

私は泣かなかった。彼の何も知らなかったのだと絶望することも、彼の悲痛な過去に想いを巡らせて心を痛めることもしなかった。
そのような必要などないと思っていたし、そう絶望したり悲観に暮れたりすることなどいつだってできるのだから、それは少なくとも今であってはいけない気がしたのだ。
今、認めるべき感情があるとすれば、それはきっと安堵と、少しばかりの歓喜だ。きっと私は喜んで然るべきだったのだ。
だってようやく、彼の背中に垂れていた白い糸の全てを知ることが叶ったのだから。私の片割れたる彼の形、その全てがようやくはっきりと見えるようになったのだから。

私とNとの間にあった「相容れなさ」の正体、それに辿り着いた暁には、きっと糸の形をしているであろうそれを、鋭く睨み上げるのだろうと思っていた。
大きすぎる隔絶となって、幾度となく私とNとを苦しめてきたその糸を、私とNとをくるくると躍らせていたその糸を、引き千切ってやりたいと思っていた筈だった。
けれど全てを知った時にはもう、私はこの空間を、その空間を通して見ることの叶った糸の全てを、睨み上げる必要がなくなっていたのだ。
だって私達はもう、私達の足を縛らない「空」を知っているのに、どうしてこの空間にいつまでも拘泥する必要があったというのだろう?
その糸を切らずとも私達は自由に羽ばたけるのに、どうして今更、それを引き千切らなければいけないのだろう?

私はくるりと踵を返して、無機質な空の床を蹴った。

こんな下手なペイントよりも、Nと飛んだあの青空の方がずっと素敵だ。
一陣の風も吹かないこの静かな空間よりも、大声を出さなければ言葉が届かないあの果てしない空間の方がずっと心地いい。
全ての色が混ざることなくただそこに在るだけの世界よりも、全てが混ざり合って、二度と元には戻らないこの世界の方がずっと鮮やかで、美しい。
嘘や誤魔化しのない整然とした世界でなく、そうした狡い感情の溢れる世界だからこそ、私は彼と画策して嘘を吐き、私と彼だけの真実を守ることを選べたのだ。
そうした全てを、きっとNだって解っている。だから私は飛び出した。振り返らなかった。

長い通路の最奥、彼は玉座に座っていた。
お湯の沸かし方も知らないような大きな子供が「王様」だなんて笑わせると思った。事実、私は笑っていた。
彼だって笑っていたのだろう。あまりにも遠すぎて、彼がどのような表情をしているのかはまだ、解らなかったけれど。

彼は立ち上がり、小さな靴音を立ててこちらへと歩みを進めた。私も綺麗に磨かれた白い床の上をゆっくりと歩いた。私の靴音もやはり小さかった。
二人分の靴音が静まり返ったこの空間に木霊して、ようやく一人分の音を奏でているように思われた。
バラバラに響いていた筈の私と彼の靴音は、しかし数歩もすれば完全に揃っていた。あの森の中でコーラスのように重なることの叶った笑い声、それに少し似ている気がした。
私と彼の足はほぼ同時に止まった。

「ボクには未来が見える!絶対に勝つ!」

私達が私達であるための、嘘の決戦が始まろうとしていた。
私の投げたボールからゼクロムが出てきたのを見届けて、彼は同じようにレシラムの入ったボールを構える。その指に面白いものを見つけて私は笑った。
昨日、彼の指に貼り付けた絆創膏が、彼が彼である証の色をもってそこに佇んでいた。

この戦いが終わったら、貴方と一緒に空を飛ぼう。


2016.4.9
(「ピノキオ」より、人になることの叶った少年と、彼を祝福する総て)

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