※F後日談
雨が降っていた。
イッシュ地方では北に位置するこのセッカシティには、雨というよりも雪というイメージの方が強かったが、流石に秋には雪は降らないらしい。
心地良い冷たさの雨が頬を打つ。私は楽しくなり、傘も差さずに水溜まりを踏み付けて歩いていた。
地面に落ちた雨の音。水溜まりに落ちて跳ねる雨の音。空が歌っている。
私も歌いたくなったが、流石にこの町中でそれをしていては怪しまれてしまう。
傘も差さずにのんびりと町を徘徊している時点で、既に不審な人物となっていることには気付かない振りをした。
だってこんなにも楽しいのだ。羞恥だとかそうした類のものを捨て去るリスクよりも、一時の愉悦を選択した私はもう躊躇わない。
それに、きっともう直ぐ、彼が来る。
「何をしている」
「わっ!」
考えた瞬間に、後ろから声を掛けられた。
素っ頓狂な声をあげた私に、彼は怪訝な顔をする。
彼は足音を立てない。現れるのはいつだって唐突だった。しかしこうもタイミングよく現れてしまうと、彼はエスパーなのではないかとまで想像してしまう。
「こんにちは、ダークさん。たった今、ダークさんのことを考えていたんですよ」
「そうか。きっとお前の脳内で私はからかわれていたのだろうな」
「違いますよ、もう直ぐ来てくれるだろうなって、思っていたんです」
私はこの人に本音を話すことを躊躇わない。
異性との関係における駆け引きだとか、可愛い誤魔化しや嘘。私はそれらを使いこなすことを諦めていた。それは私の性分に合わなかった。
私は彼のことが好きだったが、彼を愛していると言える自信はなかった。
人を愛するという言葉を、その意味を、私はまだ知らなかった。
だから私はありのままを彼に伝える。私のありったけをもってして、彼に私の拙い思いを示す。
私は貴方が大切です。貴方のことが大好きです。貴方のことを考えると、笑顔になれます。
その全てが伝わっていると思い上がったことは一度もない。寧ろ、伝わっていないことの方が多いだろう。だからこそ、私は隠したり、誤魔化したりすることを止めた。
それは、もっと後でいいような気がしていたのだ。今はただ、私の文字を引き取り、同じように好きだと綴った彼の言葉を、ひたすらに喜んでいたかったのだ。
「風邪を引く。傘は持っていないのか」
「私の鞄には、そんな用心深いものは入っていませんよ。でも風邪を引くのは嫌なので、後でポケモンセンターに行ってドライヤーを借りることにします」
ドライヤーという単語に、ダークさんは首を傾げた。
それは何だ、と彼の目は饒舌に語っていたので、私は笑顔で頷く。
「服や髪を乾かしてくれる、暖かい風が出る機械です。これくらいの大きさをしていて、コンセントに繋いで電気で動かします。
少し音が煩いですが、あっという間に乾くんですよ。後でダークさんの髪も乾かしましょうね」
この説明で合っているだろうか。私は少しだけ不安になる。
人に何かを説明したり教えたりするには、その人の3倍以上、理解を深めていなければならないらしい。
自分の長い髪を乾かす為に、毎日のように使っているドライヤーだからこそよどみない説明ができたが、私はたまに彼への説明に詰まる時がある。
「これは何だ」「どういった仕組みで動いているんだ」「何故そうなるんだ」
彼の無垢な質問の中には、時折、正鵠を射るようなものが含まれている。何気なく使っている言葉や、何気なく見ていた道具、場所、人。
それらに彼は疑問を持つ。そんな彼に指摘されて初めて、自分の理解が薄弱であったことに気付かされる。
彼は私との会話で、その世界を急速に広げているが、私もまた、彼に教わったことが沢山あるのだ。
私が驚く程に無知であったこと、無知であることを知らなかったこと。……それらは私に衝撃を与え、私の思い上がった心を盛大に折った。
そして私は、理解したと思っていた世界を理解しようと努めた。
毎日使っている道具のこと、明日の天気のこと、人の心のこと。
私の世界は広がり始めていた。それは他でもない彼のおかげで、その世界の広がりを、彼と共有できているような気がしてとても嬉しかったのだ。
「まだ雨に打たれているつもりか?」
「後で」と言った私の言葉を彼は聞き逃さない。呆れたような冷たい眼差しをこちらに向けたが、私は構わず彼の手を取った。
「ダークさん、目を閉じてください」
「?」
彼はその顔に疑問符を貼り付けたが、短い沈黙の後でそっと目を閉じた。私も同様に目蓋を下ろす。雨音が聞こえる。
地面に落ちた雨の音。水溜まりに落ちて跳ねる雨の音。
「ね、歌っているみたいでしょう?」
目を開けて、私は笑った。
するとダークさんはマスクの下で僅かに笑ってくれた。
空の歌を彼と共有できたことに私は喜んでいたが、彼は目を閉じたまま、全く別のことを紡いだ。
「今、お前はいつものように笑っているのだろう。……おそらく、とても楽しそうに」
「え……」
「違うか?」
私は息を飲んだ。
小さく頷いてみせたが、彼は目を閉じているので、私の頷きを汲み取ってはくれない。
もう、目を開けていいですよ。弱々しい声でそう紡げば、彼はそっと目を開いて、そこに私を映した。
「成る程。どうやら顔が見えなくとも、声で表情を読み取ることはできるらしい」
彼のそうしたちいさな「発見」に、私は共鳴することができなかった。
私はそんなに楽しそうな声音をさせていたのかしら、とか、同じように私が目を閉じて、ダークさんの声だけでその表情を汲み取ることはできるのかしら、とか。
思うところは沢山、沢山あった。けれどそれを一言で集約するならきっと、歓喜だ。
この人は私を見てくれている。私の声を聞いてくれている。この人は、私を知っている。
それがどうしようもなく嬉しかった。
「ふふ、そうですね。でもダークさん、私が言いたかったのはそっちじゃないんです。雨の音を、聞いてください」
やっとのことでそう紡げば、彼は再び目を閉じる。
おそらくは、雨の音に耳を傾けているのだろう。その目が伏せられたままに彼は口を開いた。
「お前には、これが歌に聞こえるのか」
「……私、ちょっとおかしいかもしれませんね」
「そんなことはない。ただ、私にはない発想だったから、少し戸惑ってしまった。……そうか、これは歌なのか」
納得したように、何度も何度も頷く彼がおかしくて、私は笑いながら彼の手を取った。
まだ歩くのか、と彼は言ったが、しかし私の歩幅に合わせるように隣に並んでくれる。
そんなこの人のことを「愛している」と言うことは、私にはまだできない。けれど、彼のことは好きだ。彼のことを考えると笑顔になれる。彼が、愛しい。
そんな感慨に浸っていると、彼が「おい」と私を呼んだ。
どうかしましたか?と返せば、彼は言いにくそうにゆっくりと口を開き、紡ぐ。
「お前のせいで歌にしか聞こえなくなった」
私は思わず足を止める。彼は困ったように笑う。
「これが、お前の世界なのか」
「……」
「この気持ちは、何と言うんだ」
もし彼の言う「この気持ち」が、私が抱いたものに限りなく近いものだったとしたら。
それが自惚れでも傲慢でも思い上がりでもなく、強い信頼に似た何かであるのだとしたら。
私の世界を、彼が愛してくれているのだとしたら。
私はいつかと同じ、少しだけ意地悪な答えを彼に送る。
今なら「愛する」という言葉の意味が少しだけ解るかもしれない、と思いながら。いつものように、微笑みながら。
「それは貴方にしか解らないことですよ、ダークさん」
2014.11.30
大好きなお姉さんから紹介して頂いた曲に強烈なインスピレーションを受けたので。