雨紡ぎの糸車

※雨企画、本編既読推奨

外に出ようとした私の肩を、ダークさんが強く掴んだ。

「……雨が降っている。傘も持たずに出ていくつもりか?」

怪訝そうに眉をひそめた彼の腕を、しかし私は逆に引っ張って歩き出した。
呆れたように溜め息を吐かれてしまう。けれど彼の足が止まることはない。私の歩幅にちゃんと合わせて、立ち止まることなく付いて来てくれる。
そのことが嬉しくて、少しだけ信じられないような心地になって私は笑う。
どうして彼は、私の手を振り払わないのだろう?

雨宿りをするために、ポケモントレーナーが大勢駆けこんでいたポケモンセンターの扉を抜けると、外は驚く程に静かだった。
建物の中よりも、こんな広い世界の中で素敵な静寂が保たれていることに、私は少しだけ嬉しくなる。
霧のような細い雨は音を立てない。それなのに雨が降っていると解ったのは、ポケモンセンターの開いたドアから雨の匂いがしたからだ。
湿気のある、やわらかな自然の匂い。雨の訪れを静かに告げるその香りが好きだ。絹糸のように垂れ下がる雨の雫も、それを浴びながら歩くことも同様に好きだ。

「雨の匂いがしますね」

「ああ」

私は水溜まりをわざと強く踏み付けて駆け出した。ぱしゃぱしゃと水が跳ねる音が楽しくて、私は満面の笑顔で振り返り、彼を手招く。
最低限の相槌しか打たない彼は、しかし私に付いて来てくれる。彼の大きな手を取り、歩く。

「雨の音がしない雨って、不思議な気持ちになりませんか?」

「……そうだろうか」

「だって、普段は雨の日ってもう少し賑やかだったでしょう?こんなに静かな雨もあるんですね」

クスクスと笑いながら、私はふと、あることを思い付いた。
もう一度、わざと水溜まりを強く踏む。彼は咄嗟に自分の服に水飛沫が掛からないように避けたけれど、それでも私の手が放されることはなかった。
何がしたいんだ、というように首を捻った彼に、私は問い掛ける。その手に、少しだけ力を込めて。

「どんな音がしますか?」

彼は私の質問の意味が解らなかったようで、その身体の動きをぴたりと止め、暫くの沈黙の後に「……どういう意味だ?」と尋ね返してくれた。
私はもう一度、今度は少しだけ弱く水溜まりを踏む。私にとっては聞き慣れた、水の音だ。

「ダークさんには、この音がどんな風に聴こえていますか?」

「……水が跳ねる音に聴こえる」

「そうじゃなくて、跳ねる時の音がどんな風に聴こえているかを知りたいんです」

彼は益々訳が解らないという風に首を捻ってみせた。
そうしていつもの、言葉の授業が始まる。私と彼との世界を縮めるための、私の世界を彼に知ってもらうための、傲慢で我が儘な、私のための授業が始まる。

「『ちゃぷちゃぷ』とか『ぱしゃぱしゃ』とか、聞いたことありませんか?こういうの、擬音語っていうんですよ」

彼は真っ黒なマスクのその下で「ギオンゴ」と、その聞き慣れない言葉を反芻する。
擬音語とは、こうした「音」を文字にするための言葉だ。同じように「様子」を文字にするための言葉として、擬態語というものもある。
どちらも聴いたものや見たものを文字にするための、人が考え出した言葉だ。

私は擬音語の説明を簡単にした後で、水溜まりを踏む。ぱしゃぱしゃと水の音がする。
勿論、水がぱしゃぱしゃと喋っている訳でははい。けれど、ぱしゃぱしゃという音に聴こえてしまう。
それは私が「水溜まりを踏む音」を「ぱしゃぱしゃ」という言葉で表すことに慣れ過ぎているからだろうか。
こうした音を表す術を知らなかったダークさんにしてみれば、いきなりこの音を「ぱしゃぱしゃ」と言い表されても納得できないのではないか。

私達の世界は交わらない。
文字や言葉に慣れ過ぎてしまった私と、つい最近まで文字を知らなかった彼との世界の隔絶はあまりにも大きい。
だから私はこうして「授業」を続けている。彼との世界を交えたいが為の、私のための授業を時折、思い出したように初めている。
それが私の欲張りによるものだと知っていた。けれど、止められなかった。私の罪悪感は、彼のあの時の「知りたい」という言葉が拭ってくれた。

彼は暫く考え込む素振りをした後で、少しだけ、その黒いマスクの下で微笑む気配を見せた。

「音にも言葉があるのか」

そう紡いだ彼の言葉を手繰り寄せて、その言葉の糸に好奇心と感嘆の色を見つけることで、私はようやく安心することができるのだ。
こんな私の我が儘が、欲張りが、他でもない彼によって肯定されている。それはとても幸せなことであると解っていた。
だからこそ、私は彼に自分の伝えられるものを限界まで伝えようと決めていたのだ。

「今の雨は、音がしないでしょう?でも、ちゃんと音のない雨を表す言葉だってあるんですよ」

「どんな言葉だ?」

「静かな雨は「しとしと降る」っていう風にいうんです」

私は絹糸のように細い雨に手を伸べた。手の平に糸がするすると落ちていくような、ほんの僅かな感覚を拾い上げて微笑む。
雨はしとしと降る。ダークさんはその言葉に納得がいかないような顔をして首を捻った。

「……私には、この雨がしとしと降っているようには思えない」

「それじゃあ、ダークさんにとって、この雨はどんな風ですか?」

貴方にとって、この雨はどんな風に映っているのですか?
それは何気なく尋ねた言葉だった。しかし同時に、私の聞きたいことの全てでもあった。
この静かな雨に、貴方は何を見ているのですか。貴方は何を思って、何を感じているのですか。
雨がしとしと降っているようには思えないと言った貴方は、私とは相容れない場所に居る筈の貴方はどうして、私の隣にいてくれるのですか。

「お前のようだ。雨はお前の言葉に似ている」

彼の口から紡がれたその一言に私は息を飲んだ。
つい数か月前に文字を覚えた人物の口から出た言葉とは思えないその難解さに私は愕然とする。
雨は私の言葉に似ている。彼のその発言は「何」を意味しているのだろう?

言葉を、文字を共有しても、二人の世界が同じ目線で交わっても、相手を完全に理解することなどきっとできやしないのだろう。
それでも「もう少し」と欲張って私は手を伸ばす。そして、たまにそうした、他者が他者であることによる限界に直面し、少しだけ悲しくなる。

「……晴れた方がいいですか?」

「何故?」

けれど相手との隔絶を思い知るのが言葉であるならば、同時に相手との距離を埋めるのだって言葉なのだ。
だから私は言葉を紡ぐ。雨のように、時に激しく、時に静かな音を立てて。
きっとそういうことなのだろう。彼は雨である私の言葉を許してくれているのだ。

「私は雨が好きだ。お前に風邪を引かせる点を差し引けば、の話だが」

ダークさんはそう言って、繋いでいた私の手を少しだけ強く引く。
霧雨は私達の服をそこまで濡らさなかったけれど、今はこの手に引かれておくことにした。

先程は避けて歩いていた筈の水溜まりの前で、彼は少しだけ歩く速度を弱め、躊躇いがちに水溜まりを踏み付ける。
ぱしゃり、という水の音に私がクスクスと笑う。つい先程まで全く意味をなさなかったその水の音を、きっと今の彼は言葉にしてくれている。
きっと今なら、その音は「ぱしゃぱしゃ」と聴こえている筈だ。

「ね、聴こえるでしょう?」


2015.4.15
素敵なタイトルのご提供、ありがとうございました!

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