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(What does it mean to be a man?)

「やめましょう、ダークさん」

気が付けば、そう呟いていた。

ざあっと風が草木を撫でていく。風の音が聞こえる。さわさわと葉を揺らし、鼓膜をひゅうと叩いて通り過ぎていく。
私は文字として捉え、言葉で表すことの叶うそれらの音は、彼の耳にどう聞こえているのだろう。

けれどそんなこと、もう知らなくていい。知る必要などない。私は彼に謝りに来たのだから。
彼の世界を歪めてしまったこと、もう少しで彼から居場所を奪ってしまうところだったこと。
しかしそんな謝罪にだって、きっと意味などないのだろう。
取り返しのつかないことをしてしまったのだと理解した今、私が彼のためにできることがあるとすれば、それは一刻も早くこの場から、彼の前から姿を消すことだった。

私も忙しいからダークさんに文字を教えている暇なんかないだとか、寒いから外に出るのも億劫になったのだとか、そんな意味の無い言い訳を羅列する。
だから、と続けようとした口が言葉を失う。彼は私の両肩を強く掴んだ。離してください、という懇願は聞き届けられなかった。
近くにあるその端正な顔を直視できず、逃げるように視線を逸らせば肩を掴む力が一層強くなった。

「私を見ろ、シア

「……、」

「何故そんな事を言う?お前は一体何を考えているんだ。……答えてくれ」

彼の懇願にますます涙が止まらなくなる。
何か、何か言わないといけない。しかし彼を説得する言葉が見つからない。
私が差し出してしまった文字の世界、そこに足を踏み入れてしまった彼を、どうすれば以前の場所に引き戻すことができるのだろう。

「私はダークさんを傷付けるかもしれない」

「私を?」

「ダークさんから、大事な居場所を奪ってしまうかもしれない。そうしたらダークさんは傷付きます」

彼にしたら、文字を奪うことが何故そんな事態に繋がるのかと不思議で堪らないだろう。
私だってそうだった。文字がこんなに大きな力を持つものだなんて、今まで意識したことすらなかった。
彼が文字を知らないと知って、そこに生じる隔たりを見て、初めて私は文字の力を認識するに至ったのだ。
そしてその素晴らしい力を、彼と共有できたなら、その上で同じ世界を見られたなら、とても素敵なことだと思ったのだ。

けれど私はその力を見誤っていた。その力は、私の手には負えないものだったのだ。そんなものを教えようとして、挙句、彼から居場所を奪ってしまうところだった。
彼が文字を学ぶとは、自由を知るとは、そういうことだったのだ。

私はもう、私の勝手な正義で居場所を失い、途方に暮れる人の姿を、見たくない。

彼は小さく溜め息を吐いて小さく屈む。私の目線に降りて話をしてくれようとする優しい彼を、私は拒まなければいけない。
それが悲しくて堪らない。

「そんな心配は不要だ。私に痛みはない」

「痛くなるかもしれないんです!」

文字を知るとはそういうことだ。言葉を手にするとはそういうことだ。彼の言葉に被せるようにそう叫んでいた。
優しい彼を両手で突き飛ばす。思いもしない衝撃に彼の身体は大きく後ろに傾いた。
素早く受け身の姿勢を取り、膝をついた彼に「見てください」と絞り出すように発してから右手を掲げて、冬の寒空を、風の踊る冷たい青を、指した。

「空です。ダークさんは何とも思わないかもしれない。でも私は違います。今日も空は高くて青くて、小さな雲が流れていて、綺麗だなって笑顔になります。
その中で私が生きていて、大切な人も生きていて、それが嬉しくて、無性に泣きたくなったりするんです」

彼は私の言葉をじっと聞いていた。間で口を挟むことも、目を逸らすこともしない。
だから私は次から次へと溢れてくるものを拭いながら言葉を続ける。

「傷付いたポケモンを見たら、胸が詰まって悲しくなります。
自分のパートナーだったら、そんな風にさせてしまった私が情けなくて悔しくて泣きたくなります。
人に傷付けられたポケモンだったら尚更悲しくて、やっぱり泣きたくなるんです」

思いのままに、意味を為していないかもしれない言葉を次から次へと吐き出しながら、私はやっとのことでそれを口にする。

「ねえ、ダークさん。言葉を覚えるってそういうことなんです」

悲しい。
こんなにも素晴らしい世界を、貴方と共有できるかもしれないと思い上がった愚かな私が、そうして知った自由が彼の居場所を奪うことになるかもしれないという残酷な可能性が、
そして何より、貴方の居場所を守るために、貴方との時間を今日限りで絶やさなければいけないことが、悲しくて悲しくて、堪らない。

もし、私がアクロマさんの言葉に反論できるだけの弁術を備えていたなら。
ダークさんの手にするものと失うもの全てに責任を持てるだけの力があったなら。
私が文字を知らなかったら。
……ああ、けれどそれで何が変わったというのだろう。何も変わらない。私は何もできない、悉く無力な人間だったのだ。私はただ、思い上がっていたのだ。夢を見ていたのだ。

そんな私の渦巻く感情に名前を付けることを知らない筈の彼は、真っ直ぐ私を見据え、長い沈黙の末に口を開いた。


「知りたい」


ぱちん。そんな音を立てて、底で渦巻いていた全てが弾けた。それはいつか聞いた、壁の壊れる音にも、新しい世界が生まれる音にも似ていた。
あれだけ際限なく溢れていた涙がぴたりと止む。目に張り付いた水の膜が薄くなり、彼の姿が鮮明になる。

「私は知りたい。お前が何故、空を綺麗だと思うのか、傷付いたものを見ると悲しくなるのか。……何故、涙を流すのか」

「でも、……でも、そうしたらダークさんは、ゲーチスさんの忠実な僕で居られなくなるかもしれない。貴方の居場所がなくなってしまうかもしれない」

「構わない。私が望んだことだ」

その言葉が私を、あまりにも残酷に許していく。文字を操ることを知らない筈の、言葉で彩ることを知らない筈の彼のその音で、私は許されてしまう。

もう、手遅れなのかもしれなかった。
おそらく、彼に文字を教えたあの日から。彼の口から「読めない」と聞いたあの時から。
私の「悲しいなあ」に「よく、解らない」と返って来た、あの瞬間から。
彼の自由を解する心というのは、あの全ての時から芽を出していたのだろうか。
それとも、私が見つけられなかっただけで、彼の心はずっと、此処に在ったのだろうか。私が名前を付けることを忘れていただけで、彼はずっと、ずっと。

「……「heart」」

だから私は、次の言葉を紡ぐことにした。空に掲げていた震える手で、彼の左胸に手を当てた。

「心です。私もダークさんも持っています。言葉にも、文字にも、心があるんです」

ああ、きっとそうであったのだろう。
だから彼が「読めない」として、紙に書かれた言葉を解さなかったとして、それでも彼は私と同じ言語を操っていた。私の言葉を聞いて、答えてくれていた。
だから私と同じ言葉を操る彼が、私と同じ心を持っていないなどということが、起こる筈がなかったのだろう。

彼は暫く考えた後で、私の左胸にそっと手を当てた。
割れ物を扱うような優しい手、その主である彼は、きっと優しい人。「優しさ」なんて、きっと彼はずっと前から知っていた。

「私にはまだよく解らないが、」

その唇が弧を描いた。

「お前の此処に想われるのは好きだ」

私は間違っているのかもしれない。彼を拒み通した方が、彼のためになったのかもしれない。
けれど彼が求めてくれた。知りたいと、私と同じ温度を持った言葉で私に訴えてくれた。私はどうしても、彼のその訴えを切り捨てることができなかった。
恐ろしさは拭えない。アクロマさんはきっと私を責めるだろう。けれど、それでも。

足元を掬う温かい風が、遠い春を知らせ始めていた。


2012.12.8
2016.3.17(修正)
(人間であるとはどういうことか。)

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