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(Memories fade.)

シアさん、と私の名を呼び、白衣をはためかせながら駆けてきたアクロマさんに手を振る。
この町で会うとは奇遇ですね、と告げる彼の吐く息は、冬の色をしていた。

「貴方がリーグチャンピオンに勝ってしまってから、此処の混み具合は一向に解消されそうにありませんね」

「冬なのにアイスなんて、物好きですよね」

「その物好きの中に貴方も入っているのですよ、シアさん」

ヒウンシティに売られているヒウンアイスだが、こんな風に行列を作るようになったのは、私がポケモンリーグチャンピオンに勝利してからのことだ。
「ポケモンリーグ新チャンピオンの行きつけの店」という評判が功を奏したのか、ヒウンアイスの売れ行きは冬でも好調らしい。
私が意図的に集めた行列ではないけれど、それでもこの行列を作ってしまった要因の一部を私が担ってしまっているという事実は、どうにも気恥ずかしいものがあった。

長い待ち時間を経て手に入れたヒウンアイスを、さて何処で食べようかと迷っていた私に、彼が「一緒に食べませんか」と誘いの声を掛けてくれた。
噴水がある広場のベンチに座る。一人分空けて座るその空間の取り方はダークさんのそれに酷似していて、思わず笑ってしまった。
彼は徐にボールからオーベムを出して、その小さな手にヒウンアイスを持たせた。嬉しそうに受け取ったオーベムは、ぺろぺろとアイスの先から少しずつ食べていく。

「アクロマさんが食べるのかと思っていました」

「いえ、わたくしも食べますよ。ですからオーベム、半分程残しておいてくださいね」

しかしオーベムはピコピコと光を点滅させながら、しかしその信号の出し方は何処か彼をからかっているようにさえ見えた。
「こら、少しくらい譲ってくれてもいいでしょう」と苦笑しながら、しかしそのままオーベムに全て食べさせても構わないといった風に眺めている。
ランプラーの仕草を「挨拶」だと読んだ私を彼は評価してくれていたけれど、彼だって自らのポケモンと、このようにコミュニケーションを取ることができている。
彼の目は相変わらず悲しいけれど、そこに落とされた影は少しばかり薄い。きっとポケモンがいてくれるからだと、ポケモンに心を許すことを知っているからだと、思った。

「あの、この間はありがとうございました」

「この間……?」

「ダークさん、やっぱり待っていてくれました。彼が、識字ができないことを知らなくて、その……」

私があの時訪れなければ、彼はあの場所で夜を明かしたのかもしれない。凍死しかねない極寒の地を思い出し、悪寒が走る。
やはり冬にアイスを買うべきではなかったのかもしれない。
どういたしまして、とそんな私を案じるように、困ったような笑みを浮かべる彼に、しかし私は言ってはいけない音を紡いでしまうことになる。

「あ、でも今は、私がダークさんに文字を教えているんです」

瞬間、金色の目が温度を失った。その急速なただならぬ変化に私は驚き、戦慄した。
きっと彼からすれば、私のこの愚行は何ら実を結ばない、意味のないことにしか映らなかったのだろう。無駄なことに時間を割くなと、説かれるのかもしれないと覚悟していた。
それでも私はあの時間を失いたくなかった。彼と、世界を共有したかったのだ。
けれど彼が長い沈黙の後に発したのは、そうした「私のため」の言葉などではなく、もっと深刻な、それでいてもっと強く私を責め立てる、重大なものだったのだ。

「何故ゲーチスが彼等に文字を教えなかったのか解りますか」

地を這うような冷たい響きに背筋が凍る。
その中の彼の名前がエコーのように私の頭の中で紡がれ続ける。

「貴方は単なる思い付きだったのでしょうね。文字を知らない彼を可哀想に思ったのか、はたまた自分の言葉を理解してくれない彼に憤りを感じたのかは知りませんが」

「そんな、」

「しかし貴方にその権利があるとお思いですか?彼等はゲーチスの所有物です。
ゲーチスがそう判断したなら、彼等にとって文字など不要なものだった筈だ。……いいえ、ゲーチスは知っていたのでしょうね。彼等に文字を教えてはいけないと」

「文字を教えてはいけない……?ど、どうしてですか?文字を覚えた方がずっと、いろんなことを効率よく知ることができる筈なのに、」

私にその権利はない……彼等はゲーチスの所有物……ゲーチスは知っていた……彼等に文字を教えてはいけない……。
理解することのできない何もかもが、私の頭をぐるぐると回っていた。文字を解することを忘れた子供のように、私は声を失って息を殺すことしかできなかったのだ。
彼が私を責めているということは解る。取り返しのつかないことをしてしまったのだということも、彼の声音から読み取れる。しかし、それだけだ。
正体の見えない罪悪感は、黒く淀んだ塊となり私の足を縫い付けた。彼との共鳴を禁じるように、その黒い罪悪感は私を飲み込もうとしていた。

「文字は人を自由にします」

その言葉で、私は全てを悟ってしまった。

『見分ける必要などない。』『ゲーチス様はそう判断なされた。』
ダークさんのあの言葉が脳裏を掠めた。
彼が奪われていたのは、「一人」としてのダークさんの姿でもなく、また文字などという道具でもなく、それらを認識するための心なのだと、
その心を縛っていたのは他でもない「不自由」という鎖だったのだと、私はようやく気付くに至ったのだ。

『お前が謝る必要など、ないように思える。私に痛みなどないのだから。』

あれは、そういうことだったのだ。

「文字は自由を得るための手段です。それを覚えた彼は、最早ゲーチスの所有物では居られなくなるでしょう。
自分が持ち得る自由を知る。力を知る。権利を知る。知ってしまえば手を伸ばさずには居られない、それが人間です。果たしてそれは彼を救うことになるのでしょうか?」

「……」

「貴方はゲーチスの支配を受けた彼等を可哀想に思うかもしれませんが、それこそが彼等の安泰なのです。
そこが今までずっと彼の居場所だった筈だ。だからこそ彼等はゲーチスに忠誠を誓っていた筈だ」

がらがらと何かが崩れていく。膝が震える。息ができなくなる。
ヒウンアイスは灰色のアスファルトに落ちていた。

シアさん。貴方はまた彼等の居場所を奪いたいのですか?」

それは、私のそうした後悔をよく知っていた彼だからこそ紡ぎ得た、最も強力な言葉だった。
他の誰でもない彼が放った言葉だからこそ、それは最も鋭利な杭となって私の足を打ち付けるに至ったのだ。

「少々、難しいことを言いましたね」

その声音が僅かに和らぐ。きっと彼の金の目もいつもの温度を取り戻しているのだろう。
しかし私はその確認すらできない。彼と目を合わせられない。
合わせたところで私の、水が溜まったみっともない目では、きっとその色を捉えることは叶わないのだけれど。

「彼等と生きるのは難しいですよ、シアさん」

遠ざかる彼の足音が、いつまでも私を責め立てていた。

目を真っ赤に腫らして現れた私を見て、ダークさんはその端正な顔に様々な色を浮かべた。驚き、困惑、心配、そうした優しい何もかもが私に突き刺さった。
ぎこちない手つきで差し出してくれた灰色のハンカチを、私は首を振ることで拒んだ。

「……「freedom」」

「!」

「freedom。自由、という意味です」

そうして返ってくる彼の言葉を、私はきっと既に知っている。

「自由とは?」


2012.12.6
2016.3.17(修正)
(記憶は薄れる。)

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