11

(The letter)

「zero。何もないってことです」

「何もないのに表す必要があるのか」

「「何もない」ことがあるんですよ」

そんな会話でアルファベットの勉強は幕を閉じた。すっかり風貌が変わってしまった10番道路で大きく伸びをする。
春を迎えたこの場所には花が思い思いに咲き誇り、ポケモン達が駆け回っている。
大きく息を吸えば、若葉の匂いがした。

「いい季節だな」

そうダークさんは呟き、口元を覆っているマスクに手を掛ける。

「……命の匂いがする」

現れた端正な顔はただただ穏やかだった。しかしその表情は直ぐに険しくなる。手を口元に運び、暫くして下ろす。どうやら欠伸を噛み殺したらしい。

彼がよく眠るようになったことは、ゲーチスさんから聞いていた。
睡眠は身体を休める為だけでなく、蓄えた知識を整理する意味もある。睡眠時間が増えることは必至だったのだろう。
満足に働かないものに用はないと私には吐き捨てた彼だけれど、依然として自分に付き従うことを止めないダークさんを受け入れているらしい。
彼は変わらずゲーチスさんの配下であり、忠実な僕だった。何も、変わらなかった。

現象だけ見れば、変わらなかったのだろう。しかし彼等のあらゆることを、あの冷たい季節で知ってしまった私は、自然と「その奥」を読もうと努めてしまう。
彼もきっと同じく「選んだ」のだろう。自分を知り、責任を知り、自由を手にして、それでも彼はゲーチスさんに付き従うことを選んだのだろう。
私にとって、この冬はそうした季節だった。自由と責任と選択を噛み締めるための冷たい、けれど確かな人の温度を宿した季節だった。

ふと、つい先程書いた「zero」を見遣る。「何もない」ということまで、文字は表すことができてしまう。どこまでも不思議な存在だと思った。
そんな不思議な何もかもを、疑問に思うことなく使い続けてきた今までの私が、とてもめでたい、無知で愚かな人間に思えてならなかった。
けれど、きっとそれは今も変わらないのだろう。彼が文字を知らなかったように、私にだって、見えていないことが沢山あるのだろう。
私がNさんの数学や物理の話を紐解けなかったように、言葉を交わせなかった頃のダークさんを紐解けなかったように、解らないことなど、この世界には沢山ある。在り過ぎている。
けれどそうした「解らないこと」「知らないこと」が「ある」ということだって、きっと私はこの季節を隔てなければ気付くことができなかった。

文字というのは、ないものを存在させるための力だ。見えないものを見ることができる力、聞こえないものを聞くことができる力だ。
私達の中に漠然と渦巻く想いに、心の揺らぎに、形と質量を持たせることのできる魔法の力だ。

目の前に空気を生んだ。ないという事柄に名前を付けた。彼に自由を与えた。
それらが本当に存在しているのか否か、それはきっと誰にも解らないのだろう。けれど私達は、文字がこうして与えてくれた無数の意味を吸って生きている。そう思うことができる。
思わなくてもおそらくは生きていけたのだろう。秋までの彼のように。けれど認識すれば、それでも人は同じように生きていけるのだろう。冬からの彼のように。

そう、決めるのはいつだって私達。

彼は徐に立ち上がって、再びマスクで口元を覆った。
私を見下ろし、小さく呟く。

「セッカシティに来い」

その言葉で、今日が3月の1日であったことを思い出し、はっと息を飲んだ。
家のカレンダーを勢いよく捲った手の感覚を、まだ私の皮膚はしっかりと覚えていた。

「また、相手をしてやる」

そして忽然と姿を消す。先程までそこに居たのかどうか、訝しくなる程に、存在していたという面影を何ら残すことなく居なくなる。
けれどもう、私はそのことに恐怖したりしなかった。人間らしさと人間らしくなさを交互に醸す彼と同じ視線で世界を見ることを、不安に思うことはもうなくなっていた。
そうした時間を、私は彼と過ごしてきたのだった。私にとって冬はそうした季節であった。彼にとっても、そうであってくれれば嬉しいと、思った。

私は急いでボールからクロバットを出し、春のどこまでも青い空に向かって投げた。行き先は勿論、セッカシティだ。
すっかり成長したシャンデラの活躍できる舞台を思い、自然と背筋が伸びた。
大きく息を吸い込めば、彼の紡いだ「命の匂い」がした。

誰よりも速く空を駆けるクロバットは、あっという間に私を北の町へと運んでくれた。
ボールに彼を戻すまでもないことを彼自身も解っているのか、私よりも先に東の方へと滑空した。
慌てて追いかけ、橋を渡り、顔を上げれば何処からともなく彼等がボールを構えて現れている。
今し方現れた筈なのに、その肌は随分前から此処に居たかのように青白く、命の色を感じさせない。まるで時が止まっているようだと思った。
そう思うことにも慣れてしまったけれど、そんな彼等を恐ろしいとはもう、思わなかった。

「私達と戦え」

彼等の顔は私の方へと向いている。けれど当然のことながら、私は彼等の誰とも視線を合わせることができない。彼等の目と私のそれは交わらない。
そうと解っていながらしかし真っ直ぐに彼等を見据える。今、目の前にいる彼等は「ダークトリニティ」としての姿をしていると、解っているから目を逸らすことなく向き合う。
彼等はこの間のように不用意に口を開かない。三人が三人とも、別々の行動を取ったりもしない。
だから私も、「三人のダークさん」ではなく「ゲーチスさんを慕い、彼に仕えるダークトリニティ」として、彼等と向き合う。
これが、新しい月の始まりだった。

私は、私が選び取ったこの世界を絶対に手放さない。

貴方たちの選択を見届けます。貴方たちの自由を尊重します。
力は、言葉は、相手を一方的に屈服させるものではなく、こうして交わし合ってぶつけ合って、そうして新しく答えを導き出すためのものだと、貴方たちも知っている筈です。
だから私は貴方たちのバトルに、私の意思と力をもってして全力で応えます。そうして貴方たちを、ゲーチスさんを、世界が再び動き出す日を、待っています。

これが、私が彼等に歩み寄れる限界だと解っていた。私が縁あって出会うことの叶った彼等に示し得る、最大の誠意であり敬意であると心得ていた。

そうして、長い時間が経ち、私は高鳴る鼓動を鎮めることもままならないままに、連戦を終えて疲れの見えるシャンデラを労ってボールに戻した。
また相手をしてやる、と彼等は言い残し、まるで初めから居なかったかのように消えてしまう。彼等の存在を示していた足跡も、雪のない今では残りようがない。
けれど彼等は確かに此処に居た。私と、向き合っていた。その確信は最早躊躇いようがなかった。

私も踵を返し、しかしいつかと同じ、懐かしい気配を感じて振り向いた。

「……お前は何故、此処に来る」

いつかと同じ言葉を尋ねた彼に、私は少しだけ首を傾げて、微笑んだ。

「きっと、貴方に会うためです。貴方に感謝と敬意を示すためです」

私の口から迷うことなく紡ぎ得たその言葉は、嘘偽りのない私の本心だった。
これが紛れもない私の真実なのだと、しかし饒舌に言葉を重ねて告げることはどこか間違っている気がして、彼にはこれだけ告げれば伝わってくれる気がして、
私はそうした、少しばかりの思い上がりと強すぎる信頼の下に口を閉ざし、もう一度笑った。

すると、不思議なことが起こった。彼は何も言わないままに私の手を取り、高台を下りて速足で歩き始めたのだ。
セッカシティで彼と会う時、いつも待ち合わせをしていた背の高い木。もう雪は積もっておらず、この木も同様に春の匂いを醸していた。

「!」

そうして木の幹に視線を移した私は、少しばかり恥ずかしくなってふいと視線を逸らしてしまう。
そこには私が小石で刻んだ、どうしようもない思いの原石が鈍く鋭く光っていたのだ。彼に届く筈のないたった一言は、しかし季節を跨いでも消えることなくそこに残っていた。
今の私にとって、あの頃の衝撃や狼狽、混乱といった感情は苦い記憶であり、できることなら忘れてしまいたいものだった。
故にその幹に視線を移さないよう努めていたのだけれど、驚くべきことに彼はその幹に手を触れ、窺うようにこちらに視線を向けたのだ。

「お前の言葉の意味を考えていた」

「……」

「おそらく、お前が私に向けるそれと、私がお前に向けるそれは少しばかり異なるのだろう。だが私は他に、こうした感情を表す術を知らない」

そして彼はいつかの私と同じように、足元の小石を取り上げ、その文字の隣に全く同じ形、全く同じ大きさで、全く同じ言葉を、紡いだ。
ぱりん、と音が聞こえた。それは私と彼とを隔てる大きな壁がまた一枚、崩れた音だったのか、それとも彼の新しい世界が生まれた音だったのか、それとも。

頭の先から温かいものがすうっと降りていく。肩を撫で、背中を滑り、足先から地面に広がっていく。
この温度を持った感情の正体を問うまでもない。私は彼に向き直った。上手く笑えているかどうかなど、問題ではなかった。
もし私が泣きそうな顔をしていたとして、今もぼろぼろとみっともなく零していたとして、それでも彼はもう戸惑わないだろう。
そうした私の表情の奥に在る確かな感情を、きっと汲み取ってくれるのだろう。
だって彼はもう、読めるようになったのだから。

伝えずにはいられないこの愛しさを、さあ、貴方に。


2012.12.11
2016.3.17(修正)
(貴方に送る言葉)

Thank you for reading their story !

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