10

(Even if not shake the dice, we can choose it by yourself.)

10番道路に降り立てば、微かに春の香りがした。
風が柔らかくなる。草木が鮮やかになる。寄り添って暖を取っていたポケモン達が元気に駆け回る。朝に家を出ても、草木に霜は降りなくなっていた。
彼と初めて「言葉」を交わした冬の始まりの日を思い出し、微笑む。もう風は頬を刺さない。冷たさに身体は震えない。
命の季節がやって来ようとしていた。それは同時に、私の覚悟と選択の季節が過ぎ行くことを意味していた。

そうした10番道路の何もかもを甘受しながら暫く歩いて、私は僅かな違和感に首を捻った。
その違和感の正体はすぐに解った。ダークさんがいないのだ。いつも定刻に訪れる私を、人気のないこの場所で待っていてくれる筈の彼の姿が、何故か今日は見当たらなかった。
何かあったのではないかと少しばかり不安になったけれど、直ぐにそれは杞憂と化した。

「待たせたな」

初めからそこに居たかのように、唐突に彼は現れた。相変わらずこの、煙のように現れて煙のように消えてしまうその姿には慣れない。
「今来たばかりですよ」と笑って告げたけれど、胸につかえた違和感は拭われなかった。
変なの、と思った。何を不安になることがあるというのだろう?だって彼は此処にいるのに。こうして今日も来てくれたのに。
けれど何度そう自分に言い聞かせたところで、どうにもならなかった。暫く考えて、私は思ったままを口にすることにした。

「ダークさんですか?」

案の定、彼はその端正な顔を険しくしてみせた。どういう意味だと尋ねる彼に、私は気後れして言葉を濁す。
間違っているのかもしれない。けれど、そうであるような気がした。
仮に間違っていたとして、もしこの人が「本物」であるならば、「何を言っているんだ」とマスクを外していつものように笑ってくれるであろうと信じられた。
だから私は、少しだけ、勇敢になることを選んだのだ。

「貴方はいつもの、アブソルを連れたダークさんじゃありませんよね」

そう告げるや否や、近くの木から二つの影が降りてきた。三人が揃った姿を見るのは随分と久し振りで、思わず息を飲み、身構えた。
ポケモンバトルをするためにやって来たのだろうかとも思ったけれど、彼等は「私達と戦え」と告げることも、ボールを構えることもしなかった。
何も行動を起こさない彼等の前で、私は二人を交互に見遣り、不安を悟られないように気丈に、さくさくと若葉の生える地面を踏みしめて左の彼に歩み寄った。

心臓が跳ねた。恐怖に何もかもを抉り取られそうになった。先程までの勇敢さを忘れたかのように、私はひどく恐れていた。
他でもない「彼」に試されているのだと、認めた瞬間「間違えられない」という不安が胸を圧迫した。
怖くて怖くて堪らない筈なのに、私はその顔に笑みを湛えてそっとマスクを下ろす。現れたのはいつもの端正な顔だった。

「ダークさん、意地悪しないでくださいよ」

肩を竦めて困ったように笑ってみせる。鼓動が煩い。
どっと押し寄せて来る安堵に泣き出しそうになりながらも、平気な顔をしてみせる。

見つけられた。彼を見つけ出せた。

確信はあった。こうして見てみれば、ダークさんと他のダークさんの違いは随所にある。
彼を選択することに失敗した時の恐怖が私を締め付けた、ただそれだけなのだろう。
見分ける必要などない、それが正しいのだろうと言った彼がとったこの行動。私が彼を見分けられるかを試すようなそれを、反故にしてしまいたくはなかった。

『ダークさんが三人黙って並んでいたら、私は貴方を見つけられるでしょうか?』
『見分ける必要などない。ゲーチス様はそう判断なされた。』

私は見分ける必要があった。必ず、見分けなければいけなかった。
アキルダーを連れたダークさんでも、ジュペッタを手持ちに従えているダークさんでもない。他でもない彼を彼だと、私だけは言わないといけない。そう在りたい。
そうして初めて「貴方でなければいけないのだ」と言うことが許される気がした。

「……へえ、本当に見分けがつくんじゃないか」

最初に現れた彼が、マスクを提げて陽気な、至極楽しそうな笑みをこちらに向けた。
右側のダークさんは私と視線を合わせることなく、背を向けて足早に立ち去ってしまった。

「あの、バトルをしに来たんじゃなかったんですか?」

「お前が見分けることに失敗したらそうするつもりだったさ。だが残念なことにお前は俺でももう一人でもなく、他でもないそいつをお求めのようだ」

邪魔者は退散するよ、と、あまりにも饒舌にまくし立てたダークさんは、ひらひらと片手を振ってから、もう一人のダークさんを追い掛けるように駆け出した。
彼等の足音は小さくなり、やがて春を思わせる涼しい風に掻き消されて、その足音も姿も拾い上げることが叶わなくなった。

「まさか貴方に試されるなんて思ってもいなかったから、びっくりしました」

「……」

「でも私、ちゃんと貴方を見つけられたでしょう?」

彼はそんな私の言葉に「そうだな」と相槌を打つことも「疑ってすまなかった」と謝罪することもしなかった。
ただ、いつかのようにぎこちなく私の頭を撫でてくれた。
そしてもう片方の手で自身の左胸を指差し、その夜色の目を私に鋭く向けた。

「おい、これは何だ」

これ、が指すものが解らずに首を捻る。
その左胸にあるものはおそらく彼の心臓なのだろうけれど、「心臓という臓器がそこにはあるんです」と告げることはどうにも間違っているように思われてならなかった。
回答を渋る私に、ダークさんは小さく溜め息を吐き、彼自身もまた、言い辛そうに続きを紡いだ。

「この感情は何だ」

「!」

「私は知らない。しかしお前なら解るのだろう?この気持ちは何と言うんだ」

文字というのは、ないものを存在させるための力だ。見えないものを見ることができる力、聞こえないものを聞くことができる力だ。
私達の中に漠然と渦巻く想いに、心の揺らぎに、形と質量を持たせることのできる魔法の力だ。

そしてその力を持て余した私は、とても思い上がっためでたい推測をする。
もし彼の言う「この気持ち」が、私が抱いたものに限りなく近いものだったとしたら。
あるいは、彼が言った「見分ける必要などない」という言葉を、今此処で訂正しようとしてくれているのだとしたら。
あるいは彼が二人のダークさんを此処に呼んだ理由、そのずっと奥を推し量り、私と同じものを見ることができるのだとしたら。

「解りません」

けれど、それは私の勝手な思い上がりであって、それを彼の真実としてそのまま伝えることはどうにも躊躇われてしまった。

「予想することはできても、私に答えは出せません。それはダークさんだけが知っていて、貴方だけがそれを形にすることができて、それを伝えるために、言葉があるんです」

嘘なのかもしれなかった。それは殆ど確信に近いものであったのかもしれなかった。
自惚れでも思い上がりでもない、強い信頼に似た何かの正体を私は既に知っていた。

「貴方じゃなきゃ駄目なんです。ジュペッタを連れたダークさんは違うし、アキルダーを持っているダークさんでもないんです。
私のポケモンを幸せそうだと言って、私の気持ちを知りたいと願って、貴方を貴方だと見抜いたことに驚いた、そんな毎日を過ごしたダークさんしゃないと駄目なんです。
だから私は貴方を見分けます。ダークさんが必要ないと言っても絶対に見つけます。……だから、不安にならないでください」

私はもう、差し出した自由に怯えたりはしない。
全てを背負ってくれるダークさんを自由にすることができないのではないかと、自分の選択を悔いたりもしない。

「貴方のことが好きです」

いつかと同じ言葉を紡いで私は笑った。彼の目が僅かに見開かれた。
あの時と同じ言葉が、彼の中で違う温度を持ってくれればいい。相変わらず冷たいままであるなら、しかし、それはそれで構わない。

瞬きを忘れた夜色の目に懇願する。
不安にならないで。私みたいなことを考えないで。私は貴方を見つけられる。大丈夫だよ、だって私は、


2012.12.10
2016.3.17(修正)
(賽を振らずとも、私達は自分で目を選び取れる。)

© 2024 雨袱紗