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彼女の告白が、私の仮説をいよいよ確信に近付けているように思えました。
彼女はそれを「私が二人いるみたい」だと表現しましたが、彼女にとっての「二人目の私」が、彼女の意思を離れて独り歩きを始めていることは明白でした。
そのため、何か別の、第三の力が介入しているのだと勘繰らずにはいられなかったのです。
◇◇◇
シアが病院に入院してからも、一日に数回は誰かがお見舞いにやって来ていた。
毎日のように顔を出しているのは私とアクロマさん、それにシアのお母さんくらいのものだけれど、チェレンやベル、それにシアの幼馴染であるヒュウも頻繁に訪れている。
私はNをお見舞いに誘うときもあれば、誘わないときもある。
あいつの方から「ボクも一緒に行っていいかい?」と尋ねてくるときもあるし、「シアによろしく」と笑顔で送り出してくれるときもある。
Nは私よりもシアから遠い位置にいた。そのためか、彼が今のシアを見る視線は、私よりも幾分か冷静で、正しく、それでいて残酷だった。
そんな彼と一緒にいることは私の神経をいろんな意味でかき乱した。彼ほど冷静でいられなかった私は、彼の無神経とも取れる言葉の数々に苛立ち、憤った。
けれど、それでも彼がいてくれてよかったのだろう、とは思う。
少なくとも私だけだったなら、私よりもずっとシアのことを大事に思う、アクロマさんやシアのお母さんの存在だけだったなら、私は、押し潰されてしまっていただろう。
私よりもずっと彼女を愛する人の苦悩ばかりを間近で見続けていたなら、それこそシアより先に私の方が参ってしまっていたに違いない。
シアから少しだけ離れた位置にいるNは、所詮、私とシアは他人で、私にはどうすることもできないことだってあるのだということを、
だから私がそこまで思い悩む必要などないし、するだけ無駄であるのだということを、冷静に、残酷に、そして優しく、知らしめてくる。
私はそんな彼に時に憤り、時に苛立ち、呆れ、けれど最後にはいつだって救われていた。
激しい口論や八つ当たりの後に「ごめんね、ありがとう」と消え入りそうな声音でそう紡げば、彼は「何を言っているんだ」というように笑いながら首を傾げる。
「キミだって2年前、こうしてボクを助けてくれたじゃないか」
「……そんなこと、あったかしら?」
「ポケモンの近くに在り過ぎたボクでは気が付かなかったことを、キミはボクに教えてくれただろう?だから今度は、ボクの番だよ」
シアを支えるべき立場にあった筈の私も、しかし彼女と同様に、誰かの支えがなければ立っていられないのだろう。所詮、一人では生きてなどいけないのだろう。
私もシアも同じ人間なのだから、シアが支えを必要としていて、私に必要ではない道理などきっとない。
そんな当然のことを、この大きくて小さな王様は思い出させてくれる。私はこいつを支える時だってあるし、こいつに支えられる時だってある。
だからこいつの手を振り払えなかったとして、こいつとこれから先もずっと生きていくしかなかったのだとして、それはしかし、当然のことだったのだろう。
*
シアに近い位置に在る私が、今回のことについて心を痛めているように、彼女の周りにいる人全てが、大なり小なり私と同じ気持ちを味わっていた。
中でも私よりも年下の、シアの幼馴染の男の子の絶望たるや、見ているこちらが目を背けたくなる程のものだった。
毎日、点滴の針を刺し続けているため、シアの両腕には痛々しい針の跡が残っている。消えるより先に新しい傷が次から次へと増えていくため、治りようがないのだ。
彼はその傷を目にして、今にも泣きだしそうな表情をしてみせた。励ましの言葉、他愛もない世間話、自らの近況報告、そのどれも口にすることができずに彼はただ、沈黙した。
おそらく、何も言えなかったのだろう。口を開けば言葉の代わりに目から溢れてしまいそうだったのだろう。
見た目に反して泣き虫な子だ、と思っていたけれど、彼はようやく「また来るからな」と声が震えないように細心の注意を払って紡ぎ、くるりと踵を返して立ち去ろうとした。
「待って、外まで送っていくわ。この病院は広いから、一人だと迷子になるわよ」
「そ、そこまで子供じゃねえよ!」
そう言い返す彼の涙が引っ込んだことを確認してから、私はその肩をやや乱暴に叩いて病室を追い出した。
来てくれてありがとう、とシアの声を背中に受けて、けれどまたしても彼は泣きそうな顔をする。呆れている私の隣をとぼとぼと歩きながら、彼は消え入りそうな声で呟いた。
「あいつが何をしたっていうんだ……」
その問いは私に向けられたものではなかった。かといって、この子が自身に向けた問いでもなかった。
それはおそらく、私達のようなちっぽけな生き物の手では到底及ばず、抗うことのできない大きすぎる力に対する問いだったのだ。
その力はきっと、運命という名前を持っていたに違いない。
「何もかもを、しすぎたんじゃないかしら」
絶望は犯人を求めて彷徨い続ける。原因が分からなれば、犯人が見つからなければ、この苛立ちと憎しみは方向を持たず、ただ重く熱い塊となって自身を蝕むだけであるからだ。
だから私はこの子に対して、シアに対する少しばかり冷めた目と残酷な思考をもってして、この子が苦悩し続けないように導かなければいけなかったのだ。
Nが、私にそうしてくれたように。
「あんたは、自分がシアをプラズマ団と戦うように誘導したんじゃないかって思っているのかもしれないけれど、それはきっと違うわ。
あんたがシアを誘わなかったとしても、アクロマさんがシアを導かなかったとしても、いずれあの子はあの子の意思でプラズマ団と戦うことになったと思うの」
「それじゃあ、シアが間違っていたのか?心因性って、そういうことなのか?」
「私にも分からないけれど、少なくともあんたのせいじゃないわ。だから思い悩むのはもう止めなさい。
今はあの子も酷い顔をしているけれど、でもきっと元気になるから。間違っても、死んでしまったりしないから」
本当か、とその赤い目が縋るように問うている気がして、私は大きく頷いて気丈に笑った。
彼は今度こそ納得したように「あんたも無理をするなよ」と告げて去って行った。
人は一人では生きてはいけない。だから支える必要がある。支えられる必要がある。
シアみたいなことを言ってしまうけれど、彼女がこんなことにならなければ、私はきっと、こんな簡単なことにも気付けなかった。
「つい数週間前まで元気だった幼馴染の衰弱というのは、彼のような子供には過ぎる絶望だったのかもしれませんね」
「あら、盗み聞きするなんて感心しないわよ、アクロマさん」
階段の角から姿を現した彼にそう言って苦笑したけれど、彼は私の笑顔に同調してくれなかった。
代わりにその金色の目を真っ直ぐにこちらへと向ける。病院の白色灯が彼の眼鏡に反射して、まるで太陽のようだと思った。
この色を今のシアは見ることが叶わないのだと、そう思うと、居た堪れなくなった。
「チェレンさんにベルさん、先ほどのヒュウさんも、心因性という医師の言葉を疑ってはいないようでしたね」
そんな彼が淡々と紡がれたその言葉に、私は眉をひそめて首を傾げた。
どういうこと?と怪訝な表情のままに尋ねれば、彼はその金色の目を僅かに伏せた。
言葉を発することを躊躇うかのような視線の揺らぎを見せたけれど、しかしそれに反して、彼が次に紡いだ音は異常な程に凛とした、一切の迷いを感じさせないものだった。
「皆さんはどうやら、シアさんが自分を追い詰めすぎてあのようになったのだと考えているようですが、わたくしは、そうは思いません」
それは頭を殴られたかのような衝撃だった。驚愕、混乱、懐疑、恐怖、そうした何もかもがよく分からないままに渦を巻き始め、何も分からない私を飲み込もうとしていた。
お医者さんは心因性のものだって言ったじゃない。検査にも、異常は見られなかったんでしょう。シアは頑張りすぎていたんでしょう。だから、こうなってしまったんでしょう。
次々に浮かぶ疑問はしかし、ただの一つも音の形を取ってはくれなかった。
この賢すぎる真っ直ぐで誠実な科学者が何を言わんとしているのか、私には全く解らなかった。
「あの子の強さは本物です。でなければプラズマ団というそれなりにしっかりとした規模の組織を、単身で解散に追い込むなどということができる筈がありません。
チャンピオンになり、ポケウッドやPWTでも活躍を続けていた彼女が、仮に追い詰められていたとして、それはしかし、彼女の視覚と味覚を奪う理由にはなり得ない」
「……でも、それじゃあ、どうして?」
呆然と紡がれたそれらの言葉は驚く程に弱々しく、私は自分が狼狽していることを自分の声でようやく知ることとなった。
彼女は追い詰められていなかった?仮に追い詰められていたとして、今回の彼女の衰弱はそれが原因ではなかった?それじゃあ、誰が、何が、どうしてこんなことを?
「それを、これから考えましょう」
「……医者でもないあんたに、原因の究明とシアの治療ができるの?」
「医師でないからこそ、できることがあるのかもしれません」
ああ、遣る瀬無い思いでいたのは何も私やヒュウだけではなかったのだ。彼だって、ずっと恐ろしかったのだ。不安で仕方なかったのだ。私はようやくそのことに気付いた。
けれども彼はその不安と恐怖に飲まれない。私達のように傷の舐め合いをしてなんとか立ち続けることなんか選ばない。彼はそんなところに留まらない。
だからこうして、提案している。ただシアの回復を待つ私達に、共に動き出そうと、呼びかけている。
その声音に見える決意と覚悟は、この狡く醜い世界を構成する一人のそれだとは思えないほどに眩しく、美しいものだった。
きっとこの人には、シアを元に戻すための最善が見えている。そして彼は絶対に、その賢さを狡いことに使ったりしない。
少なくともシアに対しては、彼がその誠実を崩すことは、あり得ない。
「明日、貴方の最も信頼できる人を連れて、此処に来てください。取り組む人は少しでも多い方がいい」
私に、頷く以外の選択肢が残されている筈がなかった。
2017.2.19
(彼は諦められなかったのだろう)