7:Memories fade.

昨日まで美味しそうに食事をしていた彼女が、今では水を飲むことすらままならない。
生き物が生き続けるために欠かせない「摂食」を奪われてしまった彼女は、鉄の味がするという高エネルギー食品をなんとか口に流し込み、水分は点滴で補っていました。
それでも健康的に生きるためのエネルギー量には少なすぎるらしく、彼女は少しずつ痩せていきました。
彼女の目が見えなくなってから、2週間が経とうとしていました。

◇◇

小さな200mlのパックにストローを刺して、その先を喉の奥の方へと持っていく。
味は舌で感じるものだから、こうすれば少しは紛れる筈だという信念のもと、一気に半分程飲み干して、ため息を吐く。
「イチゴ味」だとして看護師さんから手渡されたそのパッケージに「嘘吐き」と悪態を吐きたくなった。
イチゴ味だろうがチョコレート味だろうが、私の口の中に入ってしまえばそれらは全て「鉄の味」になる。味などない筈の水にさえ、鉛が混じっているように思えた。

そんな異常な感覚は、しかし3日目を過ぎた辺りから私の日常と化した。
ストローを喉の奥のギリギリまで差し込んで高エネルギー飲料を流し込むことも、水を全く飲めなくなってしまったことも、何を食べても同じ味がすることも、「日常」になる。
そうして私の毎日に馴染んでいく「異常」は「異常」ではなくなった。毎日の苦みと戦うことに、私は疲れ始めていた。
もう、イチゴ味がどのような味だったかも、思い出せない。

私の味覚は何処へ行ってしまったというのだろう。そう、自身に問い掛けながら、しかし失われたその「味覚」がどのような形をしていたのかということを私は忘れ始めていた。
「異常」に馴染む私のことを、皆はどんな風に見ているのだろう。……見えないから、知りようがないのだけれど。

「病院の中庭に出てみませんか?」

点滴の針が外された午後4時頃、アクロマさんがそう提案した。
入院してからというもの、検査室とこの個室を行き来するだけの生活だった。
見ることのできない、味わうことのできないというこの状況は私に何も与えてはくれなかったけれど、同時にそれは平穏という形で私に些かの退屈をもたらしていたのだ。
故に外の風に当たることのできるその誘いは、とても魅力的な響きで私の鼓膜を揺らした。
「でも、見えないからゆっくり歩くことしかできませんよ」と尋ね返した私に、彼はやわらかなテノールを震わせてクスクスと笑った。

「ええ、構いません。今日のわたくしは、貴方の手を引いてゆっくり歩いていたい気分なんです」

「ふふ、それじゃあお世話になります」

彼らしくない不思議な言い回しが楽しくて、私も笑いながら彼を探すために手を伸べた。けれど手をヒラヒラと宙で動かすより先に、彼の手が私の指をそっと掴んだ。
ゆっくりと病室を出て廊下を歩く。エレベータのボタンを押す音が聞こえる。ドアの閉まるアナウンスの後に、ゆっくりとエレベータが下がり始める気配がした。
気分は悪くありませんか、と尋ねてくれる彼に、大きく頷いて笑ってみせた。
変なの。貴方が外へ連れ出してくれるというのに、どうして気分を悪くするようなことが起こるというのだろう。

立ち止まる、歩き出す、段差を超える。彼はその動作の度に声を掛けてくれる。注意を促し、歩幅を揃え、その上で「大丈夫ですか」と確認を取ってくれる。
果たして私が彼の立場ならば、同じような配慮を盲目の人にできるだろうかと考え、それでも私は盲目の体験者だから、できるのではないかと思い上がり、
けれどやはり彼のような完璧な気配りはできそうにない、という結論に達して、思わず苦笑する。
そんな「完璧な気配り」は、しかし他でもないこの人の所作だと認識すると同時に、何倍もの意味を持ち淡く鋭く輝くのだ。見えない筈なのに、眩しいと思ってしまうのだ。

「さあ、外へ出ますよ」と彼の声が隣から聞こえてくる。自動ドアの開く音が聞こえ、数歩進めばふわりと温かい光が肌に降る心地がした。
くらくらと眩暈がして、思わず立ち止まる。私があの病室に入院してから10日程が経っていたから、おそらく久し振りに陽の光を浴びて身体がびっくりしたのだろう。
大丈夫ですか?と尋ねてくれる彼に頷き、「此処には何がありますか?」と尋ねれば、彼は暫くの沈黙の後でクスクスと笑いながら「何があると思いますか?」と逆に尋ねた。

「何があるんだろう……。中庭だから、植木や花壇があってもおかしくありませんよね。でも、今は冬だから花は植えられていませんか?」

「いいえ、そんなことはありませんよ。この中庭は一面が芝生で覆われていますが、ベンチの近くには広い花壇もあります。今は背丈の低い、白い花が植えられていますね」

「白い花……水仙ですか?」

その言葉に彼は苦笑し、「水仙ではなさそうですよ」と私の手をそっと引いて、おそらくは花壇があるであろう場所へと連れていってくれた。
その場に膝を折って屈み、手をヒラヒラと動かしてその「白い花」を探す。
指先を掠めた冷たい花弁は、どうやら一つの花に6枚付いているようだ。花弁の先は水仙のように尖っておらず、加えて花全体の背丈がかなり低い。
花だから香りを拾えるものだと思っていたけれど、どうにもあまり強く香るタイプの花ではないようだった。
知らない花ですね、と正直に言えば、「残念ながらわたくしも知らないのですよ」と苦笑して返ってきた。
私がその丸い花弁やすっと伸びた細長い葉っぱを、指先でなぞりながら調べていると、暫くして彼は「少し移動しましょうか」と私に提案した。

「わたくしでも名前を知っている、有名な植物を見つけました」

「え?……ふふ、何だろう」

立ち上がり、芝生の植えられたふわふわとした地面を少し歩く。
再び膝を折って屈んだ私の手を彼はそっと取り、先程の「白い花」よりもずっと下の方へと誘導した。
何だと思いますか?と問われ、私は先程の花よりもずっと小さくて薄いその花弁を指先で挟んだり、なぞったり、包んだりした。
花弁が3枚しかなく、かなり小さい。加えて彼が「花」ではなく「植物」と口にしたことから、私の頭は一つの単語を弾き出すに至った。

「これ、クローバーですね」

「ええ、そうです。本来の名前は「シロツメクサ」ですが、クローバーという呼び名の方が一般的ですね」

クローバーは割と何処でも見ることのできる植物で、花を咲かせることも珍しくない。小さな丸い、白の花を沢山摘んで、トウコ先輩と一緒に花の冠を作ったことがある。
手をヒラヒラと動かしてそれらしき形を探したけれど、見つけることはできなかった。多くの花と同じく、クローバーも冬には咲かないらしい。

すると隣でカサカサと、枯れ葉と芝生が擦れるような小さな音が聞こえた。おそらく彼も私と同じように、クローバーに手を伸べているのだろう。
私よりもずっと背の高い大人である彼が、その長い白衣の裾を芝生へと垂らして屈み、クローバーに触れている。
できることならその姿を見て「なんだかおかしいですね」と笑いたかった。けれど見えずとも、そこにいてくれることは解っていたから、私はまるで見えているかのように笑った。

「ふむ……。四つ葉があればと思ったのですが、なかなか見つかりませんね」

どうやら彼は群生するクローバーを掻き分けて、四つ葉のクローバーを探しているらしい。
私も真似してみようと両手を伸べて、クローバーの葉っぱの数を指先で数え始めた。
小さい頃の経験から、そう簡単に見つかるものではないと思っていただけに、数本目で運良く私の指が四つ葉のそれを捉えたことに思わず驚きの声を上げてしまった。
「もしかしてこれ、そうじゃないですか?」と確認を取れば、彼は「おや、」と小さく声を発してから、困ったように息を吐いて笑った。

「やれやれ、わたくしの目よりも、貴方の指の方がずっと優秀なようですね」

「そんなことありませんよ。アクロマさんが私の手を引いてくれなければ、私はこの中庭に来ることも、此処に生えるクローバーに気付くこともできなかったんですから」

けれど確かに、ここ暫くの間、指先であらゆるものの存在を拾い上げることが常習化していた私は、触覚や聴覚といった、残っている五感に対する鋭さに少々、自信があった。
そのことを冗談交じりに彼に告げれば、「例えば?」と、興味深そうに続きを促す声が隣から聞こえてきた。

「今回の四つ葉を探し当てることもそうですし、音を聞き取ることも得意になった気がします。
私、病院の個室に向かってくる靴音だけで、誰が来てくれているのかすぐに解るんですよ」

すると彼は暫く考え込んだ後で、とても面白いことを教えてくれた。

「脳には視覚から得られる情報を処理する領域、視覚野と呼ばれるところがあるのですが、目の見えない人はその視覚野を全く使っていない訳ではなく、
他の感覚、たとえば点字を読むために使う触覚からの情報を処理する領域として、視覚野の一部が使われる、ということが起こることが分かっています。
より広い領域で情報を得ればその分、自然と感覚も鋭敏になります。そのため、盲目の方が触覚や聴覚、嗅覚といった他の感覚に優れるというのは珍しいことではないのですよ」

「そんなことが起こるんですね」

「ええ、こうした脳の変化、可塑性のことを「感覚処理の越境」と呼びます。シアさんも一時的にではありますが、そうしたことを体験しているのかもしれませんね」

彼は、私が今まで出会ったどんな人物よりも博識だった。
その知識は些か、生物や化学といった分野に偏り過ぎていて、それは少し「変わった人」という認識を私に植え付けたけれど、別にそれは彼を嫌う理由にはならなかった。
彼の秀でる分野に関して私は全くの無知だったから、彼の口から紡がれる知識に熱心に耳を傾けては、それによって世界の広がる感覚に感動を覚えた。
それらの解説には難しい単語や言い回しが多く含まれていたけれど、彼は今回のように、日常の実体験を照らし合わせて説明するよう努めてくれていたので、
理解が及ばず置いていかれる、ということはあまりなかった。あったとして、その場合は諦めの悪い私が何度も解説を求めたから、結果、同じことだったのかもしれないけれど。

「また目が見えるようになったら、アクロマさんの靴音を聞き分けられなくなるのかな」

「では代わりに姿や声でわたくしを見分けてください。見えなくなるまでは、ずっとそうしていた筈ですよ」

小さく笑いながら、そうですね、と望ましい相槌を打って笑ったけれど、見えていた頃の「彼」の判別の仕方を、どうにも上手く思い出すことができずにいた。
彼の金色の目は、どのような輝きをしていたのだったか。


2016.2.24
(記憶は薄れる)

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