14:The diary

◇◇

今回の盲目が彼の、正確には彼のジュペッタの仕業であったと認識してから、私の心は驚く程に軽くなっていた。
私のせいではなかったのだという強烈な安堵と、彼が私に盲目たる必要がないと判断したなら、今すぐにでも私の目は見えるようになるのだろうという期待、
それらがふわふわと胸元を漂い、私の心を浮つかせていた。
けれど彼は立ち上がり、パイプ椅子を畳みながら、「お前の目が見えるようになる前に、話したいことがある」と、やや重い声音で切り出した。

「此処からは俺の独り言だ」

「独り言、ですか?」

「そうだ。お前の不気味な目が俺を真っ直ぐに見ない今だからこそ、長々と話すことの叶う独り言だ。俺が話したいから話すだけのことだから、お前は別に聞かなくてもいい」

私は慌てて首を振り、「いいえ、聞きます」と宣言した。
彼はやはり、私の返事に相槌を打つことなく、暫くの沈黙を置いてから、この静かな空間に言葉を放った。

「お前が今回のように自分の行いを悔いれば、その後悔はお前を思う全ての人間に及ぶ。
お前が先輩と呼んで慕うあのトレーナー、N様、アクロマ、お前の幼馴染や母親。他にも多くの人間がお前の後悔を我が物とし、苦しむ。
お前はそうした存在だ。俺はそれをずっと見てきた」

ゆっくりと、諭すように、言い聞かせるように紡がれたそれらの言葉は、私の鼓膜を不思議な温度で震わせた。
盲目であった私が知り得なかったことを、彼はこうして伝えてくれている。
呪いを掛けた相手である私の症状、その経過を観察するだけで事足りた筈の彼が、しかしそれ以上のことを私に教えてくれている。
敵であった筈の彼のそうした行為が、とても有難いものに思えてならなかった。
心臓が大きな音を立てて揺れていた。私は相槌すら打つことができずにただ、彼の言葉を聞いていた。

「だからお前が取るべきは、「これは罰なのかもしれない」などと笑って全てを受け入れることではなく、
「どうして私が苦しまなければいけないのだ、私は悪いことなどただの一度もしていない」と利己的に憤ることだった。
今からでも遅くない。悔いるな、胸を張れ。そうすればもう二度と、お前の目が見えなくなることはない」

その、私と言う聞き手がいなければ成り立ちようのない不思議な「独り言」は、盲目の私に降ってきた、啓示のように思えてならなかった。
いや、「ような」ではなく、きっとそうだったのだろう。
人を逸した力を持ち、人を逸した能力で私を盲目とした彼がそう言ったのだから、それはきっと啓示以外の何物でもなかったのだろう。
彼の独り言を、ただの独り言で終わらせることなど、できる筈がなかったのだ。

「ゲーチス様は再びこの地を脅かすだろう。弱き者たちの居場所となって、あのお方の野望は繰り返される。あのお方が考えを改めるまでそれはずっと続くだろう。
だから必ず、お前が止めに来い。俺達は待っている」

彼等とゲーチスさんの、少し普通とは違う関係は、しかし嘘偽りのものなどでは決してなかった。
その関係は絶対にして強固なもので、だからこそ、彼等はゲーチスさんに忠誠を誓いながらも、私が彼を止めにくるのを待っているのだ。
その、あまりにも複雑な関係から紡がれた言葉を、しかし私が丁寧に紐解く必要などきっとなかったのだろう。紐解かずとも、私のすべきことは変わらないのだから。
ゲーチスさんと彼等の関係の真実は、彼等だけが知っていればいいことなのだから。私はただ、彼等を止めればいいだけの話だったのだから。彼が、そう望んでくれたのだから。

たっぷりの沈黙を挟んでから、「俺を恨んでいるか?」と尋ねられたそれに、私は笑って「いいえ」と首を振った。
彼はやはり、一切の相槌を打つことなく沈黙するだけだった。

「ただ、私はいいんですけれど、私の周りの人に、私、迷惑と心配を沢山かけたんです。
今までは私自身の弱さが招いたことかもしれないと思っていたから、そんなことに皆を巻き込んでしまったことが申し訳なくて、ずっと謝っていたんです。
……だから一度だけでいいので、私の代わりに、皆に謝ってくれますか?」

だって私は何も悪くなかったんだもの、と、後のそれを歌うようにうそぶけば、彼は初めて小さく息を吐くように笑った。
「……ああ、そうだな、その通りだ。それくらいはさせてもらおう」と了承の意を示した彼の独り言はまだもう少しだけ、続いた。

「我々はゲーチス様のお心を取り戻すためにお前を手に掛けようとしたが、どうやらそれは間違いだったらしい。
俺は自身の使命ばかりに気を取られて、あのお方のお心を推し量ることを忘れていた。見えているからといって、全てを知ることができる訳では決してなかったのだ」

「……あの、そのことなんですけど、どうしてゲーチスさんは、私がこんな風になったことを喜ばなかったんでしょうか?」

独り言、に質問を投げてはいけないのかもしれない、と思いながら、どうしても尋ねずにはいられなかった。
全てが明らかになった今、晴れない疑問はその一点だけであるように思われたのだ。
彼は気の遠くなるような長い沈黙の後で「さあ、何故だろうな」と、少し含みのある声音で告げた。

「俺には解らない。情緒豊かなお前でさえ推し量れないものを、俺に汲み取れる筈がない。
その答えを知りたいのなら、お前が探せばいい。多くの人と会話を重ね、その中であのお方の感情に類するものを見つければいい。お前はそうした、欲張りな人間だった筈だ」

『貴方は欲張ることを思い出さなければいけない。』
アクロマさんの言葉が脳裏を掠めた。それは私と長い時間を共有してきて、私をずっと支えてくれた彼だからこそ紡ぎ得た言葉であった筈だった。
そんな彼と同じくらい長い時間、ダークさんは盲目となった私のことを見ていたのだと、
先程の「俺はそれをずっと見てきた」は、誇張でも何でもなくただ真実だけを述べていたのだと、ようやく気付いて、ただ笑った。

彼が本当にゲーチスさんの真実を知らなかったのか、それとも知っていて、敢えて私に教えることをしなかったのか、私には判別する術がない。
けれど、きっとどちらでもよかったのだ。彼の呪いが私に気付かせてくれたことは、数え切れない程に多かったのだから。
今はそれで十分だった。その真実が欲しいなら、私がこれから欲張ればいい話だと心得ていた。

彼は手袋を嵌めた大きな手で、私の目元を塞いでからそっと呟いた。

「不自由をかけてすまなかったな。……暫く、目を閉じていろ。少し眩暈がするかもしれない」

「……大丈夫です、私は何があっても大丈夫なんです。その自信を教えてくれたのは貴方ですよ、ダークさん」

彼はやはり何も言わなかった。私は目を閉じて、彼の言う「眩暈」に備えていた。
それは予想していたような、くらくらと脳を揺らすものではなく、頭を何かで叩かれたような痛みを伴うものだった。私はじっと静止したまま、その痛みが消えるのを待っていた。
ああ、そういえば目が見えなくなった時も、強い眩暈を覚えていた気がする。
それで、痛む頭を押さえながら目を開けて、何もかもが見なくなっていたことに愕然としていたように思う。
突如として私に訪れた盲目が恐ろしくて、みっともなく泣き出したことを覚えている。そんなみっともない私を許してくれた、大切な人の目の色を、私はちゃんと、覚えている。

「……」

目を開けて最初に、眩しい、と思った。視界を突き刺す光の正体は、小さな個室に降り注ぐ白色灯の明かりだった。
ダークさんはもういなくなっていて、一人になった、ようやく一人であると確信するに至ったこの病室、白を基調としたこの空間を、私はゆっくりと見渡した。

テーブルの上には、未開封のままにしていたフエンせんべいの箱があり、その上にはトウコ先輩が持ってきてくれたCDが3枚、積み上げられている。
毎夜、日課のように聴いていたCDのジャケットはこんなデザインをしていたのだと、ようやく知って、小さく笑った。
その隣には果物の入ったカゴがあった。リンゴの赤やオレンジの黄色、メロンの緑、それらが鮮やかに私の目を穿って、果物が光を発している訳ではないのに、眩しさを覚えた。
窓のカーテンに手を掛けてゆっくりと開けば、ヒウンシティの賑やかな町並みが眼下に広がっていた。
地に落ちた星と空を飛ぶ月が眩しく光っていて、その向こうに黒い海と空が揺蕩っていた。

ほんの数週間前まで当たり前だった筈の何もかもが、私の元に戻ってきた。嬉しかった。安心した。どうしようもなく幸福だったと、そして幸せだと、覚えてしまった。
この瞬間に私の胸を占めた何もかもを、忘れることなどきっとできないのだろうと思った。

けれどそれはきっと、この高揚が私に見せた幻想なのだろう。きっと数日が経てばこの、あまりにも眩しい鮮やかさは、私にとってありふれた、当然のようになってしまうのだろう。
何を食べても鉄の味しかしなかった非日常が、数日を経て私の日常へと溶け込んでしまったのと同じように。
それでも、覚えていなければいけないと思った。この数週間、私にかけられていた呪いのことを、簡単に過去へ溶かしてはいけないのだと心得ていた。

ベッドサイドのデスクに目を移せば、そこにはトウコ先輩が貸してくれた、黒いCDプレイヤーと、アクロマさんが用意してくれた、小さな一輪挿しが置かれていた。
その一輪挿しの隣に、見慣れない1冊のノートがあった。誰かの忘れ物だろうかと何気なく手に取って開き、そして、息を飲んだ。


『見えないあの子の代わりに、わたくしが見たもの全てを此処に記します。
あの子を取り巻く、あの子を愛しく思う者の全てを代わりに覚えておきます。』


罫線だけが引かれたシンプルなノートに、科学を生業とする彼らしい、簡素な、けれどとても丁寧な字で、沢山のことが書きこまれていた。
白紙のページは最後の方に数ページしか残っていなかった。ノートの殆どを埋め尽くした彼の言葉を、しかし私は読むことができなかった。
このノートがどういったものであるかを認識した途端、慌ててそのノートを閉じ、二度とそれに触れることはなかった。

この文面からして、目が見えるようになった私にくれるノートであるのだろうから今読んでも同じことだ、とか、けれど許可を得ずに読むのはどうにも倫理に反している、とか、
考えるべきことは数え切れない程にあった。けれど私は、何も考えられなかった。

ただ、読めなかったのだ。

ベッドに潜り、何度も目を閉じたり開いたりしながらゆっくりと眠りに落ちていった。
彼の字で記された、簡潔で丁寧なたった二行が、いつまでも脳裏に焼き付いていた。


2016.2.26
(貴方に贈る記憶)

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