Translation

「それ、よく似合っていますよ。君はピンク色が好きだったんですね」

その言葉がある種の「挑戦状」であることを十分に理解しながら、アクリル板の向こうに座る少女は拳を強く握りしめつつ、泣きそうに眉を下げ、首肯しつつ笑った。
随分と忙しい挙動であり、表情であり、情緒になったものだと、ローズもまた、ニコニコとしながら彼女の変化を受け入れた。

「そうだよ。……好きなんだ、この色のニットベレーが」

「そうですか、それはよかった」

「よかった? 私が特定の色やものに愛着を持つことで、貴方に何かいいことがあるとは思えないけれど?」

「愛した相手の成長を喜びたいと願うのは人間として当然のことでは? ……ああ、もしかしたら君には分からないのかもしれないねえ、そういうことが」

そうした余分な付け足しに、挑発の意図を多分に含んだその言葉に、しかしもう彼女は動揺しない。
そうだよ、分からなかったんだと、でも貴方の益になれているのなら喜ばしく思うよと、貴方の愛は本当に無尽蔵だねと、これが本当に成長であればいいなと、
そうしたことを隠すことなく呟いては穏やかに微笑む彼女に、もう、「何もできないんだ」と癇癪を起こしていた以前の面影は見当たらない。
成長、とすればいよいよ喜ばしいことには違いないが、以前の粗削りな彼女のこともローズはそれなりに愛していたため、若干の寂しさを覚えてしまうのは致し方ないことであろう。

「人からの期待や指示を受けて動くことばかりが得意だった君が、どうやって自分の想いを持つことができるようになったのか……興味をそそられるね」

「貴方に教えるつもりはないよ。私は貴方のことを信用していないし、貴方に愛されていると明言されたところで全く喜べないし……とにかく、好きじゃないんだ、貴方のことが」

「あっははは! それはすまなかったね! けれどそんな相手のところにまでわざわざこうして出向いてくるなんて……君の誠実さには畏れ入りますよ、ユウリ

誠実、という単語に少女の眉が訝しげに動いた。そのような形容を自分に当て嵌められることを、ついぞ想定していなかったというような表情であった。
事前に称賛の形で相手を持ち上げることによって、その後の攻撃による傷をより鋭利なものとしようとする、ありがちな策略とも取られてしまったかもしれない。
アクリル板の向こうで首を僅かに捻る少女の顔色を窺いつつ、そういうつもりではなかった、と示すようにローズは両手を挙げてひらひらと振る。

「いやいや! お世辞で言っているのではないんですよ。
君は旅に出て、ジムチャレンジに参加し、勝ち続け、チャンピオンになった。全ては君以外の誰かの誘いや期待や懇願に応えるためだ。これを誠実と言わずして何と言うんです?
少なくとも君が誠実でなかったなら、今頃ガラルはブラックナイトに飲まれていましたよ。その方が、わたくしにとっては都合がよかったのですけれどね」

「今更、フォローなんて要らないよ。私が滑稽で憐れなのは私自身が一番よく知っているんだ」

「ええ、そうだね、憐れで可哀想だ。君は悉く誠実に生きた。周りの期待に応え続けた。そうして頂点に立ち、誰もが憧れるものを備えておきながら、でも君は不満足だった。
君が旅の中で必死になって探していたもの、君が一番手に入れたかったものだけが、君の手元になかったからだ。
それが何なのかは判り兼ねますが……でも今の君にはそうした不満足な気配が、憂愁が見当たらない。手に入れたんですね、「それ」を」

判り兼ねる? まさか。
そんなはずはない。

誠実で従順で最強で優柔不断で、しかも愛着への恐怖心がある。その恐怖心や不安を、下手な癇癪を起こしてまで隠そうとする。
そして、その「一番手に入れたかったもの」をようやく手にして満足そうに微笑んでいるらしき彼女が、不安そうに、誇らしそうに「ピンク色の帽子が好きだ」と、言っている。
ここまでの情報が揃ってしまえば、彼女の歪みの源泉に辿り着くことは、ローズにとってはもう「困難を極める」ことなどではなくなってしまっている。

……好きなものを好きだと胸を張って言いたかった。

……相手の望むものになることでの肯定ではなく、自分が望むものになることでの肯定により自身の心を支えたかった。

……自らの選択に対して「どうしてそれを選んだの?」と尋ねられたときに、凛とした姿勢で答えられるだけの、愛着の土壌を、基盤を、ずっと探していた。

だが、必死に走り続けて、ふと気が付けば、そうした我を通すことができなくなる程の立場に置かれてしまっていた。
力を付ければ付ける程、期待に応えれば応える程に、自らの「愛」を表出することが恐ろしくなっていった。
きっとそういうことなのだろうと、ローズは考える。

10代の多感な時期に、そうした「当然のこと」に対する願いや戸惑いや恐れが生じるのは無理からぬことであり、
彼女のような若干の臆病性を持つ子が「確信」を求めて彷徨い力ばかりを付ける方向に流されてしまったのも、頷ける。
……もっとも、そのような理由で「まともでなくなる」のは、彼女だけではない。だからこの子ばかりを贔屓するつもりは毛頭ない。

それでも「よくやった」と思う。彼女は十分すぎる程に頑張った。そしてこれからも、頑張るつもりなのだろう。彼女はきっと、そういう子だ。恐ろしい程に従順な子だ。
そして、ガラルにこれから蔓延ることになるかもしれない「悪い大人」の餌食にならないよう、自ら考え、動くための判断基準となり得る愛着さえ今は手に入れた。
他に何が必要だったというのだろう。

「でも、大丈夫かな? 君はそうした愛着を抱えて尚、チャンピオンとして強く在るつもりなのだろう? その愛着が、君の強さを殺いでしまわなければいいけれどね。
……どう思う? 愛着と強さは両立し得るものだろうか? どちらも拗らせた結果、わたくしのように道を違えるリスクさえあるように感じるけれど?」

「ふふ、それを貴方が言うんだね、ローズさん。まあそこで見ていてほしい、貴方の作ったガラルを壊さないようになるべく上手くやってみせるよ。
それに私も、端から器用に両立できるとは思っていないよ。愛着なんて個人的なものは隠して、傍目には、寄せられる期待に従順なチャンピオンとして振る舞うつもりだ。
私が本当は、いっぱしに愛着なんてものを持ちたがっている酔狂な人間であるという事実、……それは、たった一人に肯定してもらえるだけでいい。それ以上を求めるつもりはない」

努力を怠らない人間は好ましい。自らの愛着をたった一人以外には全て隠して振る舞おうとする、自己犠牲めいた姿勢は殊更に美しい。
その努力がガラルのために為されることであるならば、尚のこと。
そういう訳で、今後も彼女が、ローズの「クレイジー・ラブ」の対象で在り続けることに変わりはない。まともでない人間は、まともでない人間を愛さずにはいられない。

「『気が済んだ』からもう行くよ。時間を取らせて済まなかったね、ローズさん」

長い付き合いである秘書に頼み込んで、彼女を再びこの場所へ招いたのはほかならぬローズだ。
故に感謝や謝罪の言葉を述べるのもローズであって然るべきなのだが、彼は敢えてその言葉を取り上げることをせず「どういたしまして」などと笑いながら答えてみせる。
その面白さを理解している彼女は、華奢な肩を揺らしながら目を細め、すっと席を立ちローズに背を向ける。
その瞬間、目に飛び込んできたひとつのものに、ローズはどうしても言及せずにはいられない。

「ああ、待ってくれ、訊きたいことがあるんだ。君のその、腰に増えているモンスターボールについて」

「!」

勢い良く少女は振り返る。肩上でやわらかく切られた髪が風を起こすようにふわりと舞い立つ。ピンク色のニットベレーが少しだけ、ずれる。
子供っぽさを残す短い爪が誇らしげに腰へと伸び、ボールの開閉スイッチをぽんと押す。
至福の笑みを浮かべた彼女の腕の中、そこに現れ出たポケモンは、果たして彼女が初めて手にしたであろう、愛着の色をしている。

「この子は私の師匠だよ」

「……ほう」

「無理をすることのつまらなくなさを、諦めずにいることの面白さを、好きなものを好きだと言える喜びを、こんな私に教授し続けてくれる、最高の師匠なんだ」

そうして少女はエネコと共に立ち去っていく。開いたドアから、その一人と一匹と交代する形でオリーヴが入ってくる。
わたくしも少し時間を頂きますね。気にしないでいいよ、私も長く話し過ぎてしまったから。では3分ほど、すぐ戻りますわ。分かった、待っているよ。
そうした遣り取りが二人の間で交わされ、少女は一度だけこちらを振り向いたものの、特に何も言うことなく部屋を出ていく。
入れ替わる形で椅子へと腰掛けたオリーヴにローズは微笑みかける。

「あの子を連れてきてくれてありがとう。おかげで大体のことは分かったよ。あの子の歪みの正体も、あの子の愛着への恐れの程度も、あの子の言う「たった一人」が誰なのかも、ね。
まあ、あの子が自ら腹を割るはずがないから、全てわたくしの邪推に過ぎないのだけれど」

オリーヴは淑女を極めた上品な笑みで「それは何よりです」とローズの言葉を首肯する。
「うん、当分は此処でのんびり楽しく眺めていられそうだよ」など、悪趣味とも取られかねない発言を付け足したところで、オリーヴは眉ひとつひそめやしないのだ。
無条件の肯定に賛同。最も近しい相手に否定されないということ。それらを叶えてくれる人物とこうして随分と前に出会えたローズもまた、オリーヴと同じくらい僥倖であった。
その幸いと同程度のものをあの少女が「たった一人」という形で得たことへの祝福など、このまともではなさすぎるローズが「意地悪をしなかった」という事実だけで十分だろう。

ユウリがおれのところにやって来て、馬鹿なことばかり言いやがる。最近のあの子は不気味な程に不可解だ。あの気持ち悪さは貴方に似ている。
だから此処に来たんですよ。貴方にこんなことを相談するのは癪ですが、何か事情を知っているかと思って』

目を閉じて、その「たった一人」がローズを訪ねてきた日のことを思い出す。
ダイマックスを行うためのパワースポットがないという理由で、ガラルの文化を取り入れることなくシンプルなポケモン勝負に拘り続けてきた彼とは、
スパイクタウンのスタジアムにおける今後についての「話し合い」という名目で、何度か対話の機会をローズの側から設けてきた。
けれども、彼の方からローズを訪ねてきたのは今回が初めてであった。
しかもその理由が、ネズ自身のことではなくネズが最愛としようとしている女の子のことであるというのだから、そんなもの、面白くならないはずがなかったのだ。

『ああそのことですか、心配せずとも大丈夫でしょう! 君だけじゃない、皆にそうやって喚き散らしているみたいだからね』

『皆に? それは……ユウリが、そう言ったんですか?』

『いいや違う、皆が、そう言っていたのだと、わたくしはオリーヴくん伝いにそう聞いていますよ。
ダンデくんやキバナくん、ソニアくんにオリーヴくん。皆、彼女の毒を彼等なりに案じているそうですよ。それがどうかしたのかい?』

『いえ、少し拍子抜けただけですよ。ユウリはおれに「貴方だけだ」と言って、無礼な訪問を繰り返して、愚痴を零して……とにかくそういう、迷惑なことばかりしていたから』

彼女の「貴方だけだ」という言葉が確かな真実味を帯びていること、そのくらいローズには容易に察しが付いた。
同じように見える「毒吐き」「悪態」「弱音」「駄々捏ね」でさえ、皆とネズとの間には何か決定的な違いがあるに違いないのだ。
そうした結論に、第三者であるローズはすぐ思い至れる。
ただ当事者であるネズにはついぞ辿り着けない結論であっただろうから、ローズは面白がって、風を吹かせて、彼の思考の船をより厳しい嵐の方向へと押し流してみる。

『貴方にだけ、などということ、あれだけ賢い子供なら、ご機嫌取りのために誰にだってそう口にするのでは?
現に、あの子が停滞していることを知っている人間は、君以外にも大勢いるようですよ』

ローズが導いた「クレイジー」な嵐は、どのような形で二人を飲み込んだのだろう。その顛末を詳細に知る権利は、傍観者であるローズにあるはずもなかった。
けれども過程をすっ飛ばした結果が、今日、こうして此処にやって来てくれたのだ。十分すぎる程だ。ローズはもう十分に楽しんだ。

「一介のジムリーダーでしかなかった『彼』に、ユウリを救い上げるだけの力があるようには思えませんでしたが」

ローズの思考を読んだように、長く美しい爪でコツコツとアクリル板を叩きながらオリーヴが囁く。
それは居眠りをして夢想に意識を遊ばせる子供を優しく起こそうとする母親の囁きにも似ていて、ローズはやはり微笑まずにはいられない。

「甘いねオリーヴくん。あったんだよ。彼にしか持ち得ないものがあったからこそ、彼だけがあの子の傍にいられたんだ。彼だけがあの子を救えたんだ」

「まさかそれが「愛」だ、などと言うおつもりじゃないでしょうね?」

オリーヴの、羽毛のようにやわらかな叱責がローズの鼓膜をくすぐる。くつくつと喉の奥で笑いながら、ローズは目を閉じたまま、その笑みの奥で希う。
いつか、まともではない人間が弾かれずに済み、誠実な人間が後ろ指を刺されずに済み、諦めの悪い人間が辛酸を舐めずに済むような、そうした、全てが許される世界がきっと来る。
そんな風に、おめでたい夢を見る。そんなものが本当に叶うほどやさしい世界ではないと誰よりもよく知っているからこそ、彼は夢を見る。
それこそが彼の愛である。誰にも否定しようのない、彼の、彼だけの。

2020.6.11
(翻訳書)

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