青色のニットベレーを頭に乗せてネズを訪ねてきた少女の手には、珍しく土産が提げられていた。
マグノリア博士に貰った高級茶葉だと得意気にネズへと差し出してくる。その小さな紙袋を受け取り開いた瞬間、花の香りが飛び込んでくる。
上品の過ぎるこの芳香はキームンで間違いないだろうね、と嬉しそうに少女は語るが、別段キームンが好きであるという訳ではないのだろう。
ただ、普段はなかなか口にすることの叶わない味に、探究心から来る期待を寄せているだけの話だ。
何か入れますか、と念のため尋ねる。ストレートで構わないよと相変わらず同じように返ってくる。
様々なものに興味を示す彼女だが、自らの好みに沿ってものを選んでいるのを見たことはほとんどない。
もてなす側としては楽でいいと思う一方で、ネズの側に選択を一任するか、あるいは選択を放棄し「要らない」と笑うだけの彼女にある種の狡さを覚えさえもする。
「ソファにでも座っていればいいんじゃないですかね」
「ふふ、ではお言葉に甘えようかな」
湯をポットに注ぎつつ、そう告げれば、彼女は肩を竦めていつものように微笑んだ。
ネズの横を通り過ぎる彼女から、小さな鼻歌が聞こえる。珍しいこともあるものだと思い、ネズは振り返ってその後ろ姿から音を拾う。
3秒ほど耳を傾ければすぐに何の曲か分かってしまった。先程までネズがデスクの上で、アレンジのために譜面へ筆を走らせていた、まさにその曲であったからだ。
随分と恥ずかしいことをしてくれる、とネズは眉をひそめ、またそのように感じた自身のことを疑問に思った。
ミュージシャンとして活動している身である以上、曲を知る人間にそれを口ずさんでもらえるというのは光栄以外の何物でもなく、純粋に喜んで然るべきことであるはずだった。
けれどもその相手が、ロックに何の縁も興味もなさそうな、黙っていれば品の良いこの少女であったがために、心臓を捻られるようなむず痒さを覚えてしまっているのだ。
おれは、この少女に自らの弱さを知られることを恥だと思っているのだろうか。
「……そんなの嘘だよ、無理だよ。歌で誰かを、幸せになんて……」
ついには鼻歌どころの騒ぎではなくなってきたその曲を、けれどもソファに体を沈めた少女はとろけるような笑顔で歌っている。
居たたまれなくなってネズはふいと目を逸らし、そして茶葉の蒸らし時間を大幅に超えていることに気が付いて、慌ててティーセットを3つ出す。
その間にも少女の声はキッチンまで届いている。ネズがリビングに続く扉を開けっぱなしにしているのだから、聞こうとしてそうしていたのだから、届くのは当然のことだ。
彼が、自らの耳で拾える音の大きさと距離を聞き誤ることなどあるはずがない。
上手くはなかった。音程に間違いはないが、あまり歌い慣れていないらしく声の末尾は震えているし、抑揚に欠け、平坦が過ぎるし、そもそも声量がないに等しい。
いつも、大きな声で小難しい厄介なことばかり堂々と口にしているにもかかわらず、旋律を操るにおいては人並み以上の緊張と不安を手放すことができずにいるようであった。
それでも、微かな声で歌っている彼女は本当に楽しそうで、彼女をそんな風に楽しくさせているのは他でもないネズの歌で、ネズは歌を介して自らの弱みを彼女に、知られていて。
「どうぞ」
歌声を遮るようにわざと音を立ててソーサーを置く。ガシャンという音は耳障りではあったが、彼女のそれを聞き続けるよりは遥かにネズの心地を楽にした。
驚いたように肩を跳ねさせこちらを見上げた少女は、先程のとろけた目のままにありがとうと告げる。
カップを摘まみ、目を閉じて香りを一気に吸い込んでから、次にぱっと開いた時にはもういつもの凛々しい笑顔であった。
少女の隣に座り、愛読書を手に取る。彼女はにっと笑顔を愉快なものに変えて、3割程しか飲んでいない紅茶をテーブルに置き、悪戯っ子のようにネズの膝へと滑り入る。
その挙動はこの本の中で欠伸をするエネコのようだと思う。こんな大きくて厄介なエネコがいては堪ったものではないと思いつつ、ネズは自らの想像に音もなく苦笑する。
呼吸の音、心臓の音、それらが安定したリズムでネズの聴覚と触覚に飛び込んでくる。先程の歌とは違い、彼女が立てるこの音はネズをいよいよ安心させた。
昨日は来なかった。今日はやって来た。
本の栞の代替品として用いているメモ用紙は、一昨日、彼女と共に読んだところと全く同じ位置に挟まっている。目ざとい少女は勿論、それに気付く。
昨日は読まなかったのかい、と尋ねてくる。ええ全く、とネズは当然のように返す。私を待っていてくれたのかな、と口にしたので、そうですが何か、と乱暴に告げてやる。
楽しそうに笑う少女を大切に思う人間はネズの他にも大勢いることなど分かり切っているが、
それでも「貴方だけだよ」と告げた彼女の言葉に思い上がれる程には、ネズはこの少女の来訪を信じている。
「昨晩のトーナメント決勝戦、いい試合だったじゃありませんか」
ぴたり、と彼女の指が止まる。その指の先は、エネコが噴水の水を大きな尻尾で掬い上げ、主人である老紳士の足元にかけてちょっかいを出そうとするところに丁度、触れていた。
この日の散歩を最後に、老紳士は外へ出る頻度をぐっと減らす。原因は単純明快なもので、病を患ったからである。
それらしき不調の伏線はこれより前の文章にも僅かに敷かれてあるが、果たして少女はそれに気が付いているのだろうか。
「来てくれていたのかい」
むしろ来てほしくはなかったのに、というような不満そうな声で小さく呟く彼女に、
ネズは苦笑しながら「まさか」と、彼女を安心させられる言葉を、それでいて彼女に、ネズ自身を叱責する余地を残した言葉を選ぶ。
「TV中継で観ただけですよ。おれの姿を見ただけで、口喧しくおれをトーナメントに参加させようとしやがる輩があの場所には大勢いるから、あまり顔を出したくはないんです」
「ああ、そうだったんだね。……それにしても、貴方も身勝手なことじゃないか。ジムリーダーではなくなったとはいえ、貴方は今年度のトーナメント出席者だ。
私はサイトウさんとの試合中だったから見ることができなかったけれど、キバナさんとそれはそれは盛り上がる、素晴らしい試合をしたのだろう?
ガラルの皆さんが貴方を待つのは、無理もないことだと思うけれど……まさか貴方まで、私のようにあの場に立つという重責から逃れようとしているのではあるまいね?」
これは調律の作業に似ている。ネズは最近、そう思い始めている。
己の調律によっていい音を鳴らしてくれるのは、己の喉ではなく彼女の魂である。
力を抜いて、覇気を失って、彼に凭れ掛かるようにしてくずおれて、エネコと老紳士の日常、紙面上に保証された幸福に心から安堵してしまっているようなこの少女が、
けれども追及や叱責の隙を見つけた途端、勢いを少しばかり取り戻して元気にまくし立ててくれることを、ネズは彼女との時間の中で分かり始めていたのだ。
少女はきっと「くずおれる」ために此処に来ている。「貴方だけだよ」とかつて口にしたあの言葉だって、そうした「みっともない私」を晒す相手としての限定表現であったはずだ。
けれどもネズの意図は少し違う。勿論、彼女の「くずおれる」という願望を叶えることはやぶさかではないし、それによってもどかしくなることだって、もう慣れてしまった。
ただ、それだけで終わらせてやるものかという気概が常にネズの中にはある。
彼女がくずおれて、膝をついて、それでもその蹲った後でぐっと顔をこちらに向けて、ネズを睨み上げて恨み言なり叱責なり糾弾なりを口にする……。
そこまでがネズの「役目」だと思っている。そこまでしなければ、彼は次の日、少女を心から歓迎してあげられない、と考えている。
そのためにはネズの側が言葉を少しばかり工夫する必要があり、ネズ自身はそれを「調律」と呼ぶ。
そして今日の調律は、……なかなかいい具合に、成功してくれたのではないかと考えている。
「君と一緒にしないでもらえませんか。おれはそんな下らない理由でトーナメントを連続欠席したりしませんよ」
「では、何故?」
さて、とネズはしばし考える。今、この切り札を出していいものかと逡巡しているのだ。
何を考えているのかイマイチ掴めない相手に対して、自らの思惑を開示することには多少の危険が伴う。
思惑、本音の開示は一歩間違えれば「弱み」となる。この新チャンピオンに己の「弱み」を自ら譲り渡すだけの覚悟があるだろうかと、ネズは考えている。少しばかり迷っている。
けれども、自らの妹と同じくらいの年齢である彼女が此処にいるのだ。
それでいて妹よりも色々と考えを拗らせており、妹よりも重いものを背負いすぎている彼女が、本を閉じてネズを見上げているのだ。
聞き分けの良い、大人びた新チャンピオンとして知られる少女。ネズの前でのみ、こうして年相応の、もしくは幾分か幼い振る舞いを見せている少女。
けれどもその小さな口から零れ出る言葉はどうにも癖がありすぎている少女。大人びているとするには捻くれており、聡明だとするにはやや打算や策謀に欠ける、少女。
そんな、言ってしまえば「ガタガタの」少女が、本当に「くずおれて」しまいそうな彼女が、唯一の拠り所として、支え棒としてこちらに視線を向け、こちらに手を伸べている。
……その事実を認識するだけで、要するに少女と目を合わせるだけで、自らの思惑を誤魔化す理由が完全に失われてしまう。
「一人はいる時間は、心が泣きそうになるでしょう」
「……というと?」
「君だけが立ち止まっているのは寂しいでしょうから、おれも迷ってみることにしたんですよ。まあ、余計なお世話だったかもしれませんが」
ぱっと弾かれたように少女は振り向く。
おや、とネズは思った。彼がこれまで見たことのなかった表情がそこにあったからだ。
紅茶にたっぷりの蜂蜜を混ぜ込んだような、毒めいた感情の一切がそこにはなく、ただ澄み切った驚愕が、驚くほどの静寂を保ってそこにあるばかりだったからだ。
呼吸の音も、鼓動の音も、今のネズには拾い上げることができなかった。彼女がぱっと立ち上がってネズと距離を取ったのだから、それも当然のことであったのかもしれない。
ああ、まさか君は、おれが君の訪問を渋々、仕様がなしに受け入れていたと本気で思っていたのですか。
おれにだけだとして愚痴や諦念や弱音を開示する君を、重い荷物を一方的に押し付けては去っていくだけの厄介な存在だと、そう認識している、などと信じ切っていたのですか。
君にはおれが、そんな厄介者に好き好んで紅茶を出し、ソファへ座ることを黙認し、愛読書の世界を共有することを許すような、人の良い存在にでも見えていたというのですか。
君も、年相応に馬鹿だったんですね。
喉を震わせることをしないまま、ぱくぱくと口ばかりが動いている。ネズはその動きを追って言葉を拾おうとしたが、しばらくして諦めたように苦笑する。
生憎、音にならないものに関してネズはめっぽう弱い。故に彼女が何を言おうとしているのかは、やはりその喉を使ってくれないと分からないのであった。
「君らしくない」と、軽く調律を済ませた揶揄の言葉を口にする。それでも彼女の言葉は音になってくれないため、ネズは更に続ける。
「君がいつまでどのように停滞して、その結果ガラル地方の文化やバトルを愛する人々の熱狂がどれほど衰退しようとも、君は、構わないんじゃないんですか。
私のせいではないと、そんなのは知ったことではないと、強い君ならば言えてしまうのではないのですか。そうした覚悟で君は、停滞しているのではなかったんですか」
ややあってから、「貴方の……」と、ほとほと彼女らしくないか細い声で返事が来る。
随分と頼りない音だ、とネズは思い、新たに晒された少女の弱みを少なからず嬉しく思う。
「貴方の言う通りだ。確かに私は、他の誰の熱狂が衰退しようとも、ガラルの文化が廃れてしまおうとも、そんなことはちっとも気にしない人間だよ。
私如きの停滞でそうなってしまうのならばその程度だったのだと、ちっとも惜しくなんかないと、そう思っていたよ。でも、貴方は違う。貴方は、貴方にだけは」
「おれにだけはそうなってほしくなかった?」
「そうだよ、その通りだ! 貴方はそんなにも分かっているのに、分かってくれているのに、……ねえ、どうして貴方がそんな、私のような愚かで軽率なことを」
もっとだ。もっと吐き出せばいい。弱みを晒してしまえばいい。いっそ泣いてしまえばいい。此処にくずおれることで君が君の形を保てるのなら、どれだけだってそうすればいい。
そのようなこと、ネズはもうとっくに許している。
その心地を証明するように、愛読書をテーブルの上に置いてから両手を軽く広げて、愕然とした表情の少女を今度はネズの側から招く。
「生半可な気持ちで、君をおれの膝の上に座らせてなんかいない、とか、そういうことなんじゃないんですかね」
2019.12.20