ラティオスは大空を駆け、私をトウカシティに運んでくれた。
ありがとう、とお礼を言って彼と別れる。私はジムの隣にある一軒家のドアをノックした。
『トキさんに、話しておきたいんです。』
そんな言葉から始まった彼の告白を、私は一人で抱え込むことができなくなってしまった。
第三者である私が、彼の不思議な経験について結論を下してしまうには、その出来事はあまりにも今の彼を形作り過ぎていたからだ。
私の不用意な言及が、彼を構成している重要な部分にひびを入れてしまうのではないかと恐れていた。
だから私は、私よりも長く彼を知っている人間の力を借りようと思ったのだ。
「やあ、トキちゃん。待っていたよ」
「お時間を取らせてしまって、申し訳ありません」
「とんでもない、ミツルの友達が家に遊びに来てくれるなんて、嬉しいよ。生憎、ミツルは出掛けているみたいだけれど」
寧ろその時間帯を狙って来たのだと告げれば、この人はどんな顔をするだろう。私はそんなことを思いながら家へと上がった。
日曜の午後に時間を割いてくれたことへの感謝を伝えてから、私は単刀直入に話を切り出した。
ミツル君が私に、彼の昔の話をしてくれたこと。幼少期から喘息の発作と高熱に苦しんでいたこと。ポケモンのことについてあまりにも熱心に勉強していたこと。
ポケモンの声が聞こえていたという部分を伏せて、私は彼から聞いた話を簡潔に纏めて話した。
「……お父さんから見たミツル君は、どうでしたか?」
「どう、とは?」
尋ね返されてしまい、私は沈黙した。
まさか「ミツル君から、ポケモンの声が聞こえるという旨の話を聞いたことがありましたか?」などと尋ねられる筈もない。
かといって「何かおかしいところはありませんでしたか?」という遠回しな利き方では、逆に彼の不安を煽ってしまうだろう。
どう切り出せばいいのだろう、と悩んでいると、先に彼の方から口を開いてくれた。
「……私と妻は、あの子の喘息を治そうと必死だった。ミツルが今よりもっと小さかった頃、彼をずっと家に閉じ込めていたんだ。
外で暮らすポケモンの泥や毛が喘息に悪影響を及ぼすんじゃないかと心配で、ミツルの前でポケモンの話をしたことも、ポケモンを見せたこともなかった。
あの子の思いも考えず、自分たちの不安ばかりが先走っていた。出来の悪い両親で、ミツルには本当に不自由をさせてしまったんだよ」
その言葉に、彼の告白の中に抱いていた一つの違和感が弾けた。
いくら5歳の子供で、虚弱体質であったとはいえ、それまでポケモンについての知識がまるでなかったというのはあまりにも不自然だった。
この世界で、ポケモンのいない生活を送るのは不可能に近い。それ程に人とポケモンは密接な関わりを持っていたのだ。
しかし、彼の両親がその情報を意図的に隠し、彼がポケモンへの興味を抱かないようにしていたのだとしたら納得がいく。
彼等は、ミツル君のことを案じていたのだ。案じていたが故に何もかもを恐れ、彼をこの家に閉じ込めていた。私に彼等を責めることなどできる筈もなかった。
「けれど、ミツルが一度、ミナモの病院に入院したことがあってね。その時に突然、ポケモンのことを知りたいと言い出したんだ。
私と妻は焦ったけれど、同年代の子供達が、本当に楽しそうにポケモンの話をしていたのを見て、決心がついたんだ。
この子に元気を与えるのは、もしかしたらポケモンなのかもしれない、とね」
「……ミツル君は、元気になりましたか?」
「ああ、とても楽しそうだったよ。妻が選んだポケモンの分厚い本を、何度も何度も読み返していた。誰に似たのか、とても真面目で勤勉な子に育ってしまったね」
知っている。
ミツル君がミナモシティの病院に入院したことも、そこで同年代の友達から、ポケモンに対する常識を、彼にとって信じられないような「常識」を突き付けられたことも、
知らないのならこれから覚えればいいのだと奮起して、ポケモンに関する本を読み耽っていたことも、ポケモンと話していた事実をずっと隠していたことも、全て知っている。
私は小さく頷いて微笑むことしかできなかった。
実のところ、私が此処へやって来たのは、彼が話してくれた彼の過去と、彼の父親から聞く彼の話との整合性を確認するためだった。
彼が嘘を言っていないことはその真摯な目から容易に読み取ることができたが、あまりにも非現実すぎる彼の告白を、私は信じたくなかったのだ。
正確には、彼がそんなにも大きく重いものを背負って戦い続けているという事実を、認めたくなかったのだ。
けれど、ミツル君の父親が話してくれる彼の過去は、先日の彼の告白と寸分の狂いもなく語られていた。あの話の全ては実際に起きたことだったのだ。
私は彼の告白を直ぐに信じることのできなかった自分を、彼を救うことなどできないのではないかと疑い、心が折れかけている自分を責め始めていた。
「ただ、退院してから暫くは塞ぎ込んでいたなあ。仲の良かった友達と離れてしまって、寂しかったんだろう。
けれどそれとは別に、ミツルは何かにとても怯えているようだった。あれは一体、何だったんだろうね」
私は両手を強く握り締めた。
それは私が犯した罪だったのかもしれない。「トキさんに話しておきたい」と、唯一の告白の相手として私を選んでくれた、彼の思いを踏みにじる行為だったのかもしれない。
私はあの子に誠実で在りたかった。けれどそれと同じくらい、いや、それ以上に彼の心の陰りを晴らしたいと思っていた。彼の苦しみに寄り添いたいと願っていた。
だから私は、伝えることにした。
「ミツル君にはポケモンの声が聞こえていたのだと私が言えば、おじさんは信じますか?」
「え……」
「その入院を経て突然、ポケモンの言葉が聞こえなくなったことがとても恐ろしくて、ずっと塞ぎ込み、ポケモンを拒み続けていたのだと、
ポケモントレーナーになって、言葉以外のコミュニケーションがあると知ってからも、どうしても彼等と話をすることを諦められずにいるのだと、
今もずっと、いつかまたポケモンの声が聞こえるようになると信じて、ポケモンと一緒に戦い続けているのだと、……そんな私の言葉を、おじさんは、信じてくれますか?」
沈黙が降りた。
時が止まったように長い、静かな時間の中で、私の心臓の鼓動さえも、テーブルの向こうで固まっているミツル君の父親に聞かれてしまっているような気がした。
やがて彼は「……そうか」と呟き、小さく息を吐いてから口を開いた。
「ポケモンはとても心の優しい生き物だ」
その、全てを許すような微笑みがあまりにもミツル君に似ていて、私は視界の膜がぐらりと揺れるのを感じた。
強く瞬きをすることで、溢れて来そうな涙を追い払った。
「これは私の想像にすぎないけれど、彼等は、人の世界に溶け込めなかったミツルを、自分たちの世界に招いてあげようとしたのかもしれないね」
「ポケモン達の世界に、ミツル君を……?」
「だから、ミナモシティに入院して、友達を沢山作って戻って来た彼を見て、ポケモン達は安心したんじゃないかな。
ミツルの世界はもう、人間の側にあるのだと確信したんだ。だから彼等は、ミツルに人間の言葉を届けることを止めたのかもしれない」
私は何も言うことができずに沈黙した。
そんなことがあるのだろうか。信じがたいことだったが、それを言ってしまえば、そもそもミツル君の話自体が信じられないようなことばかりだったのだ。
彼の知らない花の名前をロゼリアが教えてくれたという過去も、そのロゼリアと一緒に旅をして、赤い花を見つけるという約束を交わしたことも、全て。
理解の及ばないものに対して、私達は想像することしかできないのだ。そして彼の父親はきっと、ミツル君や私にとって最も優しい答えを用意してくれようとしている。
どうして私が異を唱えることができただろう?
「私が思うに、きっとミツルに再びポケモンの声が聞こえるようになることは、二度とないんだ。
だって彼は、君のような優しい人に会えた。ポケモンを通じて、友達も沢山できた。ミツルはもう、ポケモンの声を聞く必要がなくなったんだよ」
そうして彼は、ミツル君にとって最も残酷な未来さえも、優しいものへと変えてしまうのだ。
ミツル君に似た、穏やかで少し儚げな笑みを浮かべ、彼は小さく肩を竦める。
「トキちゃん、ミツルの拠り所になってくれてありがとう。あの子に掛けるべき言葉を、君に任せたい」
息を飲んだ。そして私は即座に、断るための言葉を考え始めていた。私はそんな器ではないと思ったからだ。
だって私は彼に何もしてあげられていないのだから。彼にかけるべき適切な言葉を選び取ることも、彼の心の陰りを晴らすこともきっとできないのだから。
そうしたいという思いや願いだけでは、どうにもならないことだってあるのだから。
しかし私が首を振ることを、彼は次の言葉で完全に禁じた。
「私や妻は、あの子を理解することはできる。でもそれだけだ。ミツルが心を開く相手として選んだのは、私達じゃない、君だ」
「おじさん、」
「君でなければいけないんだ」
解っている。彼の言葉は大袈裟なものではなく、真実なのだと知っている。
ミツル君の過去を知っているのは、私だけでなければいけない筈だったのだから。私は彼の告白を聞いてしまった、唯一の人間なのだから。
その覚悟を持って、私は彼の話を聞いたのではなかったか。彼の焦りの正体を突き止め、その憂いを取り払いたいと願ったのではなかったか。
その思いは今も変わらない。彼の心に寄り添いたい。けれど、……けれど。
人と関わることって、誰かに寄り添うことって、こんなに難しかったかしら。
私は彼を、救えるかしら。
2015.7.6