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「ねえ、ミツルは元気になったら何がしたい?」

いつものように、窓際に集まったポケモン達と、少年は会話を楽しんでいた。
プラスルのそんな質問に、彼は迷うことなく即座に答えた。

「ボク、旅をしたいんだ。この町を出て、広い世界の色んなものを見たい!」

「ミツル、いなくなっちゃうの?」

「そうだね。でもそれはもっと、ずっと先の話だよ」

困ったように笑いながらミツルはそう告げた。
彼の夢は確固たる揺らがないものだったが、しかしそれはあくまでも夢の話だった。
旅を可能にするには彼は幼すぎたし、何より繰り返される高熱と喘息の発作がそれを許さなかった。

けれど、いつか訪れる別れを思い、ポケモン達は悲しんでいた。プラスルは寂しそうにその赤い耳をぺこりと折った。
そんなプラスルにゴクリンが駆け寄り、一際明るい声で紡ぐ。

「名案があるよ、プラスル。僕等がミツルの旅についていけばいいんだ」

「あ、そっか!あたし達も一緒に冒険すればいいのね!」

「私も」「俺も」という、ポケモン達の声が重なった。
そんな彼等にミツルは慌てて「全員は流石に連れていけないよ」と告げた。
ポケモンがモンスターボールというものに入ることも、そうしてポケモンを連れ歩く人間をポケモントレーナーと呼ぶことも、彼はまだ知らなかったのだ。
そのポケモン達の輪に入っていたロゼリアは、何も言わずにミツルを見上げ、小さな笑みを浮かべた。ミツルもその笑顔に釣られるようにして微笑んだ。
ロゼリアだけは、連れて行こうと決めていたのだ。それが彼女と交わした約束であり、少年とロゼリアだけの秘密だった。

「燃えるような赤い色をした花」を、ロゼリアにどうしても見せてあげたかったのだ。

ポケモンと共に毎日を過ごすのが当たり前になった頃、彼は大きな喘息の発作を起こした。彼が6歳の頃だった。
彼はシダケタウンやトウカシティから遠く離れたミナモシティという町の病院に入院することとなった。
8階建ての病院の5階に位置する彼の部屋の窓からは、広い海が見えた。
シダケやトウカの家の窓から見える町の風景よりも、遥かに大きな世界が外には広がっていた。そのことを知り、少年の胸は高鳴った。

重い喘息を扱う小児科病棟で、彼は同年代の友達と出会った。
このことに歓喜したのは少年ではなく、彼の母親だった。我が子の初めての友人に、彼女は自分のことのように喜んでいた。
勿論、少年も嬉しかった。けれど彼にとってその友達は「初めて」の友達ではなかったのだ。彼はトウカやシダケの窓際で、沢山の友達を既に作っていたからだ。

けれど、その友達のおかげで少年は寂しい思いをすることなく病院での時間を過ごした。
ロゼリアやプラスル、キャモメといったポケモンと会うことはできなかったけれど、彼の孤独は新しくできた友達によって癒えていたのだ。
その数は二人、三人と増えていった。入院病棟だとは思えない程の賑やかさに、看護士が注意をしに来たことも一度や二度ではなかった。

「私のお兄ちゃんが来月、ポケモンと一緒に旅に出るのよ」

そうして数日が経過したある日のこと、病棟のレクリエーション室で、友達がそんなことを口にした。彼よりも一つ年上の女の子だった。
彼女はポケットから写真を取り出し、少年にも見せてくれた。そこには青い色をした小さなポケモンが、男の子に抱き上げられてカメラの方を向いていた。
その姿に見覚えがあった少年は、思わず声を上げていた。

「あ、マリルだ!」

「そうよ、お母さんがハイパーボールで捕まえてくれたんだって」

ハイパーボール、という聞き慣れない言葉に少年が首を傾げると、彼女は写真の中に写っている小さなボールを指差した。
黄色いそのボールは、男の子の左手に握られていた。人間の手の平にすっぽりと収まってしまうそのボールに、一体どうやってマリルを入れるというのだろう。
尚も怪訝な表情をする彼に、女の子はクスクスと笑いながら「ミツル君、もしかしてモンスターボールを知らないの?」と尋ねる。

「そのボールでポケモンを捕まえるのよ。それで、一緒に連れて歩いたり、ポケモンバトルをしたりするの。お兄ちゃんのマリルもバトルをするのよ、かっこいいでしょう?」

「……どうして?」

少年が絞り出したその声は驚愕に震えていた。
彼女は少年が何に驚いているのかを理解することができないまま、「どうしたの?」と少年に尋ね返した。

「どうして、そんな酷いことをするの?ポケモンを狭いボールの中に閉じ込めておくなんて」

「酷いこと?……そうかなあ。皆やっているよ。人とポケモンはモンスターボールで繋がっているんだって。ボールにポケモンを入れておけば、いつでも一緒にいられるのよ」

人とポケモンはモンスターボールで繋がっている。人はポケモンを捕まえて、ボールに入れて連れ歩く。
それらの異質な言葉に少年は沈黙した。頭が押し潰されそうな程に重く、発作でもないのに息が苦しくなった。

彼にとって「ポケモン」とは、友達だった。外に出られない自分の窓際にやって来て、色んな話をしてくれる優しい友達。
そんな彼等を、この写真に写る小さなボールの中に閉じ込めてしまうことに、彼は強烈な違和感を覚えていた。
けれどそれを「皆やっているよ」の一言で一蹴されてしまい、彼は反論することができずに沈黙する他なかったのだ。

「私も持っているよ」と言って、彼女は小さなピンク色のボールを取り出して少年に見せた。彼はそれを手に取り、じっと見つめた。
この何の変哲もないボールに、ポケモンが入ってしまう。その事実は彼にとってあまりにも衝撃的で、直ぐには受け入れることのできないものだった。
しかし更なる衝撃が、この少年の心臓を貫いたのだ。

「ヒールボールっていうの。可愛いでしょう?私、ポケモントレーナーになったら、初めのポケモンはこのボールに入れてもらうんだ」

「……ポケモンは、嫌がっていないのかな」

「うーん、分からない。だって私達にはポケモンの声なんて聞こえないもの」

ポケモンの声が聞こえない。
その言葉が警鐘のように、少年の頭をかき鳴らしていた。

「聞こえないの?」

「そうよ。ミツル君、本当に何も知らないんだね」

クスクスと笑う少女にヒールボールを押し付けて、少年は病院の廊下を駆けた。
走っちゃ駄目よ、という看護士の制止も聞かずに走った。止まらなかった。
勢いよくドアを開けた少年に、同室の男の子は驚いたように目を見開いた。どうしたんだよ、と掛けられた声に、少年は縋るように尋ねてみた。

「君は、ポケモンと話をしたことがある?」

「……ある訳ないじゃないか」

その言葉が全てだった。少年は床に崩れ落ち、大声で泣き出した。
途中からその鳴き声に喘鳴が混ざり始めて、男の子は慌てて看護士を呼びに廊下へと飛び出した。

『ねえ、ミツルは元気になったら何がしたい?』
『でも私やミツルは、その花よりもずっと長く生きていられるわ。だから枯れてしまうことを怖がるよりも、今を懸命に生きた方が素敵だと思うの。』
『待っているわ、ミツル。必ず私を連れていってね、約束よ!』

まだ6歳の少年には、何もかもが理解できなかったのだ。

自分には確かに聞こえていた筈のポケモンの声が、他の人には聞こえていなかったという事実。
友達のように慕っていたポケモン達を、平気であのような小さな狭い空間に閉じ込めることができる人間がいるという事実。
ポケモンと人間はモンスターボールで繋がっていて、その両者が操る言葉は当然のように異なっているのだという、真実。

それらが意味するものを理解するには、この少年はあまりにも幼すぎた。
ただ、自分と同じ経験をした人間が一人もいないということが酷く悲しいことに思えて、平気な顔でポケモンをボールに閉じ込めてしまえる人間が恐ろしくて、涙が止まらなかった。

世界の崩れる音を、少年は確かに聞いた。
その音にはきっと、絶望という名前が付いていたのだろう。


2015.7.5

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