小さな窓から見える景色が、少年の全てだった。
病気がちだった彼は、外で遊ぶことも、走り回ることもできずに毎日を静かに、穏やかに過ごしていた。
幼少期の頃から、少年はトウカシティの実家とシダケタウンの叔父の家を行ったり来たりしていた。
両親のところで共に過ごすのがいいのか、それとも空気の澄んだ町で暮らす方がいいのか、大人たちも計り兼ねていたのだろう。
しかしその逡巡が結果的に彼の孤独を深める結果となった。友達も作ることができないまま、彼は最も人肌恋しい時期をずっと一人で過ごすこととなった。
毎夜、繰り返される喘息の発作と、それに引きずられるようにやって来る高熱に、彼は苦しめられていた。
彼は苦しんでいた。けれど寂しくはなかったのだ。
彼は一人だったが、独りではなかった。トウカシティにある自宅の2階、彼の自室の窓から、沢山の鳥ポケモンの姿が見えたからだ。
立派な翼を広げて空を飛ぶ、そのポケモン達の姿を見ることが、彼の唯一の楽しみだった。
白と青の翼を持つ、このポケモンは一体、なんという名前なのだろう。彼等は何処で暮らしているのだろう。あの遠くに見える空からは、どんな景色が見えるのだろう。
疑問が次々と少年の中に湧き上がっていった。しかし驚くべきことに、その疑問を、彼は他でもないそのポケモン達に尋ねることができたのだ。
「こんにちは!」
窓ガラス越しに目が合った、その青と白の翼を持つポケモンの口から、人間の言葉が出てきたことに、しかし彼は微塵も驚かなかった。「そういうもの」だと思っていたのだ。
当時5歳だった少年の世界は驚く程に狭く、ポケモンがどんな姿をしているのかも、どんな声で鳴くのかも、人とポケモンでは操る言葉が異なることも、知らなかったのだ。
故に彼はポケモンの声が聞こえることを「当然のこと」と思い、窓を開けて彼等を迎えた。
窓のサッシに止まったポケモンは、少年の手に頭をすり寄せた。
ポケモンの身体は驚く程に温かく、毛布に包まれているかのように心地良かった。少年はふわりと微笑み、甘えるように頭を寄せるポケモンをそっと撫でた。
「君、いつも僕たちのことを見ていただろう?だから気になっていたんだ」
「それで会いに来てくれたの?ありがとう!ボクはミツル。君は?」
「キャモメだ、よろしく!僕はいつもこの町から少し離れたところにある海辺を飛んでいるんだ。また遊びに来るから、その時はまたこうして窓を開けておいてよ」
「うん、待っているよ」
少年にできた、初めての友達はポケモンだった。そのことに彼は微塵も疑いを持たなかった。
この窓から見えるトウカの町では、人とポケモンが共に暮らしていて、皆がとても楽しそうに毎日を過ごしていたからだ。
彼の目には、人もポケモンも同じように見えていたのだ。
そうした感性を「おかしい」と糾弾する人間などいなかった。というよりそもそも、彼がそうした感性を持っていることに気付く人間がいなかったのだ。
両親は彼の体調を案じすぎていて、彼の自由な発想にまで気を配ることができずにいた。それ程に彼の身体は虚弱であった。
また、当然のように、彼に同い年の友達など居る筈もがなかった。彼等が持つ感性と同じものを、彼は手にすることができずにいた。
彼の世界は悉く閉じられていた。それ故に彼は、あまりにも無垢で、純粋だったのだ。
5歳という幼子の前には、ポケモンと人間の境界などありはしなかった。
ただ一つ、決定的な違いがあるとすれば、このキャモメと名乗ったポケモンには翼があり、自分にはないという、ただそれだけのことだったのだ。
「空が飛べるなんて、羨ましいなあ」
「人間だって、その器用な両手を使って、かっこいい船を造ったり、美味しいパンを焼いたりできるじゃないか」
「あはは、それじゃあボク達、お互いにないものねだりをしているんだね」
そんな会話を、少年は当然のように重ねていた。夢のように楽しい時間だった。
そうした心の変遷は彼の体調にも変化を及ぼした。高熱にうなされる夜が減り、喘息の発作も弱まっていた。
少年は勿論、そのことをキャモメに報告した。彼は少年の体調が少しよくなったことを、まるで自分のことのように喜んでくれた。
シダケタウンの叔父の家で暮らしている時も同様に、ポケモン達が遊びに来ていた。少年は窓を開け、彼等と会話をすることを心から楽しんでいた。
長い耳を持った電気を放つポケモン、プラスル。丸い和菓子のような緑色のゴクリン。
小さな羽で宙を舞い、夜になると身体を光らせるバルビート。青い浮き袋のような尻尾を使って、器用に泳ぐことができるというマリル。
沢山のポケモン達が少年の元を訪れた。彼は全てのポケモンを窓際に向かえ、当然のように会話を重ねていた。
中でも、赤と青の薔薇を両腕に咲かせたポケモン、ロゼリアは、少年がシダケタウンで暮らしている期間はほぼ毎日のように、彼の元を訪れていた。
彼女の頭に生えている3本の棘のうち、真ん中の1本がくるりと円を描くように曲がっていた。
「かわいいね」と少年がその棘を褒めると、彼女は驚いたように頬を染めて俯いてしまった。
そんな彼女は毎朝、決まった時間に彼の窓を小さく叩いて現れた。雨の降る日も風の強い日も、彼女は欠かさず少年の家の窓際にやって来たのだ。
「この町は私のお散歩コースなのよ」
彼女は赤い薔薇を口元に押し当ててクスクスと笑った。
確かにこの町の空気はトウカシティに比べて随分と綺麗だから、彼女が気に入るのも当然のことなのかもしれないと少年は思っていた。
「ミツル、体の調子はどう?」
「今日は息がしやすいんだ。やっぱりこの町は過ごしやすいね」
挨拶代わりに彼の体調を尋ねるのが、ロゼリアの日課となっていた。
彼が高熱にうなされている時は、彼女は窓を叩かなかった。その代わりに、自らが摘んできたと思われる花を1輪だけ、窓際にそっと置いて行ってくれるのだ。
彼女は赤と青の花を好み、摘んでくる花も決まって赤か青の色をしていた。
やがて熱が下がり、窓際でポケモン達と話ができる程に回復すると、ロゼリアはそれまでに届けていた花の解説を少年にしてくれた。
「昨日の花、綺麗だったでしょう?冬に咲く花で、1枚ずつ花弁を散らすことをせずに、一気に地面に落ちてしまうの。人間は「ツバキ」と読んでいるわ」
「コスモス、気に入ってくれた?白いものもあるけれど、私はその赤い花弁が好きなの」
「それは、雨の多い夏に咲く花よ。変わった形をしているでしょう?ツユクサっていうらしいけれど、私は「雨の花」と呼んでいるの」
ロゼリアは、花のことにとても詳しかった。少年はそんな彼女の説明を、目を輝かせて聞いていた。
けれど、花はいつまでもその鮮やかさを保ってはくれない。やがて色褪せ、枯れてしまう。
当時5歳だった少年はそのことに驚き、悲しんだが、ロゼリアは毅然とした態度で「当然のことよ」と言い放った。
「生き物は、いつまでも今のままでいることはできないの」
「君も、ボクも?」
「そうよ。でも私やミツルは、その花よりもずっと長く生きていられるわ。だから枯れてしまうことを怖がるよりも、今を懸命に生きた方が素敵だと思うの」
彼女の難しい言葉に少年は首を捻り、しかし長い時間を掛けて、その節理を自分なりに理解したようだった。
そうした、死の概念と生の素晴らしさを少年に教えたのも、ポケモンだった。
彼の時間は、常にポケモン達と共にあったのだ。
「この世界の何処かには、燃えるような赤い色をした花があるらしいの」
ある日、彼女はいつものように窓際にやって来て、自らの赤い薔薇を見ながらぽつりとそんなことを呟いた。
「見てみたいなあ」と続けた彼女に、彼は一つの提案をする。
もっとも、それは彼女の想いを汲んだ上での発言ではあったが、それと同時に、その言葉は彼のかねてからの願いでもあったのだけれど。
だからこそ少年の言葉は、真摯な温度をもってロゼリアに届くに至ったのだけれど。
「それじゃあ、ボクが元気になったら、一緒に旅をしようよ」
「……私と?」
「この町を出て、遠くまで冒険するんだ。その花が見つかるかもしれないよ」
「わあ、素敵!」
ロゼリアは赤と青の薔薇を合わせて微笑んだ。ふわりと薔薇の甘い香りが少年の花をくすぐった。
この家を出て、冒険をすること。それは少年の夢だった。窓から見える世界が全てであった少年は、その更に外にあるものをどうしてもこの目で見たかったのだ。
そして、その旅の傍らにこのロゼリアがいてくれたら、とても楽しいものになるだろうと思ったのだ。
「待っているわ、ミツル。必ず私を連れていってね、約束よ!」
こうして少年は、ポケモンと約束を交わした。
未だ見ぬ広い世界に恋い焦がれながら、少年は無垢で純粋なままに育っていた。彼はその無垢な心が招く絶望の心地を、まだ、知らなかった。
2015.7.5