閑話1:死角から刺客

 ヨロイ島のバトルコートが大好きだ。ガラル粒子の満ちる島であり、ダイマックスをしても十分にバトルができる広いフィールド。この素晴らしい環境でありながら、観客は遥か頭上を通る鳥ポケモンくらいしかいない。すなわち「魅せる」ためにではなく「勝つ」ためにダイマックスという選択肢を入れることが叶うのだ。チャンピオンのバトルを見てくださる皆様のためではなく、舞台を整えてくださるリーグスタッフのためでもなく、ただ私のために、ダイマックスバトルを楽しむことができるのだ。
 シュートスタジアムのように、相手が最後の一匹を繰り出したタイミングで、同時にダイマックスを指示する必要はない。そのような形で「盛り上がり」を狙い、見に来てくださる方々の熱が不足なく満たされるよう気を配る必要もない。此処ではただ、私と私のポケモンのために戦えばいい。道端でトレーナーと戦うような、温泉の前や鉱山の奥やスパイクタウンの裏口でライバル達と対峙するような、そうした、ただわくわくする心地で挑めばいい。その「私の戦い」のためだけにガラル粒子が瞬いてくれる。なんて贅沢なことだろう。

 入門希望の門下生として誤認識され、流されるままに道場入りを果たしたことにより手に入れた、この素晴らしいバトルコートの利用権。それを私はたいへん気に入っていた。簡単には手放すことの叶わない中毒性、そうした高揚と充実がこのコートには満ち満ちていた。
 勿論そんなことは、道場入りをして授かることの叶った幸福の、ほんの一部に過ぎない。

「見せてあげましょう、絶対的な強さというものを!」

 さて、そんなバトルコートの外、道場から伸びる細道の影で今、私は本来存在するはずのない「観客」として兄弟子、セイボリーのバトルを無断見学している。

「おっ、セイボリちん、調子良さそうだね」

 理由は簡単だ。マスタード師匠にバトルの誘いを受け、快諾した勢いでコートへと飛び出したはいいものの、既に彼という先客がいたから此処で待機せざるを得なくなっている、というだけの話なのだ。コートの空きを待つためにこの細道に立っているのであって、決して、第三者の視点から彼のバトルを見られる機会を逃すまいとしている訳ではない。
 などという言い訳はこの際やめておこう。私は見ていたかった。彼の戦う姿を、正面からではなく横から、より遠い場所から見ていたかった。何故と問われても答えようがない。見ていたかったのだから、仕方ない。

 マスタード師匠は、地面に足を縫い付けられたかのようになった私を見て、盗み見を咎めることもからかうこともせず、ただニコニコと微笑んで隣に立ち、共犯になってくれた。サイコキネシスを飛ばすフーディンから目を逸らすことの叶わぬまま、私は「ありがとう、師匠」と小さく、本当に小さく呟くので精いっぱいだった。勿論そんな言葉にだって、マスタード師匠は「何のことかな? それよりほら、ちゃんと見ておかないと!」と、優しくおとぼけてくださるばかりで、決して私の感謝が正しいものであることを認めようとはしなかったのだけれど。

「ワタクシたちのエスパーパワー、真の力、今目覚めん!」

 男性の門下生さんの手持ちが残り一体となった段階で、セイボリーはフーディンをボールに仕舞い、ガラルヤドランを繰り出して不敵に笑った。覚えのありすぎる表情だ。これはダイマックスで仕留めにかかろうとしているに違いない、と私は確信する。左の口角だけをくいっと上げたアシンメトリーな笑顔は、フィールドを挟んで見ることが大半であったために、コートの外から、しかも横顔でそれを見るという行為に新鮮さを覚える。少し嬉しくなる。
 出てきたヤドランを再びボールに収める。勿論、そのボールに彼は触れていない。彼のテレキネシスの対象に選ばれたものが淡い水色の光を纏う様はどの角度から見ても美しく、全くもって隙がない。投げる時までボールに触れないというその徹底ぶりにひどく驚かされた、最終試練時のバトルを思い出しながら、私はヤドランのダイマックスを見届けようと目を凝らし、……彼が巨大化したボールを背後へ投げ飛ばすその一瞬に、息を飲まされた。喉に強烈な痛みが走った。

「えっ」

 別に何が起きたという訳でもない。彼はごく普通にボールを投げただけだ。そう、普通の人がするように、大きく腕を使って、歯を食いしばって、空高くを睨み上げるようにして、思いっきり。

「……」

 けれどもその「普通」が彼には当てはまっていないと思っていたのだ。彼はそんな風に投げる人ではないと頑なに信じていたのだ。それは私の妄執などではなく私の確固たる真実であった。間違いないはずだった。
 だって彼はボールを浮かせている時だって、それを投げようとする時だって、ヤドランのダイマックス化を見届けてからこちらへと振り返る時だって、いつも、あの上品な表情を、澄ました微笑みを、私にとっては馴染みのありすぎる笑顔を浮かべていたはずで。

「いやあ、本気のセイボリちんはかっこいいねえ」
「ええ」

 対戦相手、フィールドを挟んで向こう側にいる人物からは絶対に見えない角度。彼の横顔が見えなくなってから、ボールが宙へ投げ出されるまでのコンマ数秒。その一瞬に彼がどんな表情をしていたのか、などということ、こうして品のない覗き見なんてものをしなければきっと私は永遠に、知ることが叶わなかったに違いないのだ。

「ええ。……とても」

 私は右手を首元に添え、喉を探るようにぐっと爪を立てた。そこに深く突き刺さった何かを引き抜こうと努めてみた。今ならまだ、取り返しが付くと思ったのだ。
 けれど、あっという間に勝利した彼はヤドランをボールに収める最中、ふいにこちらへと視線を寄越した。そして、見られていたという事実を認識するや否や、聞き慣れた甲高い悲鳴を上げ、シルクハットを巡回するボール達を一斉にポロポロと落としてしまった。その有様は紛うことなきいつもの、私のよく知る彼であり、その姿にとても安心した私は「それ」を否定することさえ馬鹿らしくなって、思わず声を上げて笑ってしまったのだった。

 彼は対戦相手の門下生さんに歩み寄り、コートの中央で握手をしてから言葉を交わしていた。けれども門下生さんは彼との会話も早々に、私とマスタード師匠がいる方向へとセイボリーの背中を強く押した。抵抗するかと思った彼は、けれどもそのままずいっとこちらへ駆け寄ってくる。いつものテレポートでもそんなに全速力ではなかろうと思える程に、その時の彼は速かった。疾走、と形容しても差し支えないほどであった。
 「盗み見」を責められることを避けたかったのか、マスタード師匠はひょいと私の背中に隠れた。私は師匠より背が低く、かつセイボリーは私よりかなり背が高いのだから、隠れ場所としてこれほど不適切な場所はないはずなのだけれど、こと慌てている彼に対してその効果はてきめんであり、彼は師匠のことなど見えていないような勢いで、私のことだけを、ピンポイントで責めてきたのだ。

「あ、あああのですねユウリ、いつからそこに! 『こうそくいどう』の使い手か!」
「君がフーディンにサイコキネシスを指示したあたりからは、目を離していなかったよ。師匠とバトルがしたくてね、コートが空くのを待っていたんだ」
「……だ、だとしても道場の中で待機していればよかったでしょう! 隠れてこっそり盗み見などノン・エレガント! 卑劣の極みです、これには眼鏡も曇らざるを得ない」

 本当に眼鏡が曇っている。いつもながら見事な一芸だと微笑みながら私は彼の叱責を甘んじて受け入れる。無断見学というマナー違反を私が犯したのは事実であるのだから、彼の憤りはもっともなことだ。
 彼は怒っている。きっと私の卑劣具合を軽く憎みさえしている。けれども構わなかった。このことで多少、彼に嫌われてしまったとしても、それは私が支払うべき代償であり、正直、そんなことではまだ足りないのでは、とさえ思える。だってこの無断見学で私が手に入れてしまったあの一瞬はあまりにも、……あまりにも。

「ねえ君、あんな顔でボールを投げるんだね」
「なっ!」
「普段、正面からしか君を見ていなかった私には完全な死角になっていたからね。あんな表情で対戦相手を刺しに来ているなんて、知らなかった」

 私も刺されてしまった、とは声に出すまい。そう思いつつ右手で喉元をもう一度撫でた。そこに深々と刺さった見えない何かを、引き抜くことさえもう諦めていた。仕方なかった。

「とてもかっこよかったってさ。よかったね、セイボリちん」

 背後から飛んでくるマスタード師匠の言葉を、もう今更否定しようとも思わない。私は彼を見上げてにっと笑ってみせた。質の悪い笑顔であればいいと思ったけれど、きっとそう都合よくその表情は作れていないだろうとも思った。そうした、不格好な意地を張る形での肯定が私の限界だった。

 これ以上、心を掻き乱されると今からのマスタード師匠とのバトルに支障が出る。私は何か言いたそうに口をぱくぱくとさせていた彼の隣をそっと通り抜けた。先鋒として繰り出すインテレオンで、今日は師匠のポケモンに何体、膝を付かせることが叶うだろう。そうしたことを考えながらコートへと歩みを進める。彼は私を呼び止めない。今から本気のバトルに挑もうとしている私への気遣いだと分かってしまった。ひどく嬉しかった。
 クスクスと笑いながら振り返ることなく「ありがとう」と告げて、駆け出す。大好きなバトルコート。私とポケモンのためだけに瞬くガラル粒子。それを楽しむためには他のどんな心地も不要だ。君に寄せてしまいがちになる、この想いさえ。

 マスタード師匠がフィールドの向こう側に立つ。インテレオンの入ったボールを握り締める。繰り出されたコジョンドを認めつつ、最愛のパートナーを送り出す。その瞬間、まだこの場を去ることをしていない彼が、コートの外、先程の私の位置に足を縫い留めたまま、じっとこちらを見ている様が目に飛び込んできた。どうやらノン・エレガントの仕返し、つまり彼らしく言うならば「ミラーコート」をやってのけるつもりらしい。
 先んじて罪を犯した私に、彼の無断見学を咎める理由などあるはずもない。見ていきたいなら見ていくといい、と思った。それくらいのことなら難なく許せた。きっと私が無断見学をしていない状況であったとしても、私はそれを許しただろう。彼が為すことであれば私は、大抵のことに関して受け入れてしまうのだろう。それだってどうしようもない。受け入れていたいのだから、仕方ない。

「さあいくぞ! 見惚れるなよ!」

 フィールドの向こう、背筋を伸ばした若々しい立ち振る舞いの師匠がよく通る大声でそう告げる。勿論だ、一瞬たりとも気を抜くものか。そうした決意を込めて私は大きく頷く。素晴らしい時間の始まりだ。
 一方、コートの外では何故だかセイボリーが盛大にむせていた。

2020.6.27

© 2024 雨袱紗