夏はセイガイハシティのショップも、海水浴をしにきた観光客が立ち寄ることを前提に、品揃えを大幅に変えているらしい。
セッカシティでは先ず見ることの叶わない、水着やゴーグルの多すぎる陳列に私は目を丸くした。
その中で一番初めに視界を穿った、黒い水着とパーカーを購入。ついでとばかりにプルリルを模した私の分も迷わず手に取った。特別なこの日にお金は惜しみたくなかった。
お金で買えないものなど山ほどあるのだから、買えるものは買っておくべきだと言い聞かせ、私は二人分の水着とゴーグルを抱えて先程の桟橋へと戻る。
「ダークさん、これに着替えてください」
「……水着か?」
「私からのプレゼントです。今着ている分はコインランドリーで洗ってしまいましょう」
男性のサイズなんて全く解らなかったから、取り敢えずこの人は背が高いから大きい方がいいだろうと「L」と書かれたものを購入してきた。
更衣室の場所を示せば、ミズゴロウをアブソルの背中に乗せて、「任せた」と目配せをするように視線を移してから歩き出した。
そのまま更衣室へ向かうのかと思ったのだけれど、暫くしてくるりと踵を返し、駆け戻って来る。
「幾らかかったんだ」
「プレゼント、は相手からお金を取らないものなんですよ、ダークさん」
そう言えば彼はその眉間にしわを寄せたけれど、しばらくの沈黙の後で「そうか」と頷き、受け取ってくれた。
そうしてくれることを知っていて、押し付けたのだ。きっと私は彼に甘えている。
彼は首を捻りながら「……お前の分は買わなかったのか」と尋ねるので、私は鞄の中から青い水着を取り出して掲げた。
「プルリルに似せた水着だそうです。セイガイハシティ限定なんですよ!」
私も着替えてきますね、と告げて、彼の更衣室とは逆の方向にある、女性用のそれへと歩を進めた。
進めながら、そっと左胸に手を押し当てた。音は煩く弾んでおり、ああ、緊張していたのだ、恐れていたのだと直ぐに分かった。
「要らない」と押し返されることを怖がっていたのだろう。つまりはそうした距離なのだ。私と彼というのは、まだ、よく解らないところが多すぎる関係なのだ。
「おい」
肩を掴まれ、思わず声を上げる。まさかもう着替え終えたのかと驚いたが、どうやらあの後すぐに私を追って来たらしく、濡れたいつもの服のままの彼がそこにいた。
どうしたんですかと尋ねれば、彼は私の肩に手を置いたまま、ぐいと更衣室の方へ送り出すように力を加えつつ、たった一言だけ告げる。
「ありがとう」
……水着のことなのだと、プレゼントのお礼を言っているのだと、気付いた頃には彼はもう、浜辺の向こうに小さく消え始めていた。
何故わざわざUターンして来たのだろう。どうせ水着に着替えてから合流するのだから、その時でもよかったんじゃないかしら。そんなことを思いながらクスクスと微笑む。
きっと私の顔はおかしなことになっているだろう。熱があるんじゃないかと疑われるかもしれない。けれどこの暑さなら熱が出たところで何の不自然もない、大丈夫だ。
*
セイガイハの海は青い。それはセイガイハシティ特有のものでは決してなかった。海は総じて青いものである。私達は青を泳いでいる。
私はこの色の出どころを探して深く、深く潜っている。
「色がない水を重ねると青になるのか?」
水着とゴーグルに着替えて現れた彼が、不意にそんなことを口にしたからだ。
私はその質問の答えを持ち合わせていなかった。だからこうして海に潜っているのだ。この深すぎる水の青い所以が、何処かにある筈だと躍起になっているのだ。
「海は青色である」それは私にとって当然のことだった。絵本の海は青く描かれているし、写真に写る海も、私の目に映る海だって青い。
けれど浅瀬の海には色がない。水を何層にも折り重ねて、ようやく青を見ることが叶うのだ。
透明と青の境はどこにあるのだろう。どれくらい深くなれば水は青を示すのだろう。彼の求めている答えは、この海の何処に沈んでいるのだろう。
けれどどれだけ深く潜っても、彼に「そうか」と頷いてもらえるような答えなど落ちてはいなかった。
そろそろ息が苦しくなってきた、と思った頃に、物凄い力で腕を引かれて青ざめる。確か深海には本物のプルリルが住んでいるのではなかったか。
最悪の想像をしながらそちらを見遣り、そして安心した。私の腕を掴んでいるのは、更に深海へと引きずり込もうとするプルリルではなく、もっと見知った相手であったからだ。
銀色の髪がふわふわと揺れている。水に溶けてしまいそうな無機質な彼は、けれど生きているように柔らかく優しく四肢を動かして、上へ上へと泳いでいく。
深い海から上を見ると、水面はやはり青かった。けれどその青は海の持つ色なのか、それとも青空を透かした色であったのか、よく解らない。
そのふわふわとした海面まであと少しのところで、彼は右腕を大きく上に突き上げるようにして私を、放り投げた。
海は中にいる時とは打って変わって眩しく、それは私の目を眩ませた。眩しさからなのか、酸欠からなのか解らない眩暈に頭を抱える。
パシャパシャと水音を立てて、浅瀬からミズゴロウがこちらへと泳いでくる。「大丈夫だよ」と告げるように苦笑すれば、隣から大きな溜め息が聞こえた。
「溺れたかと思っただろう。あまり深く潜るな」
「ごめんなさい。……つい、夢中になっちゃって」
「顔色が悪いぞ」
蝋のように白い肌を持つこの人にそれを言われてしまうのか、と苦笑していると、再び私の手が取られた。
そのまま有無を言わさず浅瀬まで泳ぎ切った彼は、私の背中を軽く押して、もう片方の手で建物の影になっているところを指差す。暫く休憩していろ、ということらしい。
一緒に浅瀬へと上がってきていたミズゴロウが、付いて来いと言わんばかりに私の前を歩き始める。
小さな保護者と大きな保護者に心配された私は「大丈夫なのになあ」と笑いながらついていく。
大丈夫、と言いながら、やはり眩暈は完全に消えず、足取りも覚束ない。楽しいと時間が経つのも体力を消耗するのもとんでもなく早いのだ。
燃えるような砂浜も、木陰の下ではそれほど熱さを感じなかった。
腰を下ろし、そのまま倒れるように砂浜へと貼り付いた。きめ細かな砂が髪を埋めていくが特に気にしなかった。
瞼の裏には海の青が揺蕩っている。波は白いのに、水は透明なのに、海は青いのだ。どうしようもなく青なのだ。
隣で尻尾を振るミズゴロウに手を伸べて、頭を撫でる。
この子はどうして青色なのだろう。水に生きるポケモンであるのなら、どうしてこの子は透明にならなかったのだろう。
……ああ、でもきっとこの子が透明であったなら、私はこの子を見つけることすらできなかった。
「見つけてほしいからです!」
「は?」
何処から調達したのか、サイコソーダを片手に1本ずつ持って歩み寄って来たダークさんの姿を視界の端に収めるや否や、私は勢いよく起き上がってそう叫んだ。
足をぴたりと止めて沈黙し、怪訝な表情を示すその人に、何故海は青いのかと純粋極まりない疑問を呈したその人に、私は更にまくし立てた。
「海に色がないと、誰も見つけてくれないからです」
「……」
「私にも貴方にも、ミズゴロウにだって、色があります。形があって温度があります。だから私は貴方を見つけられるんです。だからミズゴロウと出会えたんです。
だから沢山集まった水が、ここにいるよって私達のように存在を主張したとして、それはきっと、おかしいことなんかじゃなかったんですよ」
私達に形があり、色があり、声があるのは、きっと祝福なのだ。私達はその祝福を受けて此処に在るのだ。だから私が貴方を見分けられないなんてこと、きっとあり得ない。
そんな、突飛の過ぎる答えを浴びるように聞いていた彼は、暫くしてその端正な顔をふわりと歪めて笑った。
それが、私の答えをそのまま受け止めて了承するだけの意ではないことが解っていたから、まだ尋ねたいことがあるという顔だったから、私は彼の言葉を待つ姿勢を取った。
しかし彼はすぐにその疑問を口に出すことはしなかった。代わりに首を捻りながら、サイコソーダの一缶を私に投げる。
氷のように冷やされた缶に思わず歓声を上げ、ありがとうございますと上擦った声で叫んでからプルタブに手を掛ける。
そうして冷えたサイコソーダを喉へと流し込もうとした瞬間、彼は油断した私にとんでもない爆弾を投げる。
「ではお前が鮮やかなのは、私がお前を見つけたいと強く思っているからなのか?」
サイコソーダの泡が槍となって、私の心臓を貫いたのかと思う程の衝撃だった。胸が、強く締め付けられた。痛くなった。
私は鮮やかではないと言い返せばよかったのだろうか。それは貴方の目が見せた幻想であり気のせいなのだと切り捨てるべきだったのだろうか。
いつもの私なら確実にそうしていた。けれど今は水着を着ていて、セイガイハシティの砂浜に腰を下ろしていて、ミズゴロウが隣にいて、そしてこんなにも嬉しいのだ。
「……そうですね、そうかもしれませんね。でもダークさん、気付いていますか?」
だから、少し浮ついたことを言っても許される気がした。私が許さずとも、この優しい人はきっと許したのだろうけれど。
「貴方の方がずっと鮮やかです」
黒と白しか身に纏っていない筈の彼を指して、私はそう強く断言した。
彼はやはり怪訝そうに眉をひそめたけれど、私と同じように、その言葉を否定したりはしなかった。
2013.8.4
2016.8.27(修正)