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久々の休日だった。ゆっくりと時間が流れていた。
つい数か月前には雪の名残を残していた寒いこの地は今、肌を刺すような暑い日差しを受けて煌めいていた。
薄く伸びた水溜まりは、しかし明日辺りに雨が降らなければ干上がってしまいそうであった。
干上がる心配のない深い沼地を探して、マッギョが群れを作り、ゆっくりと移動している。隣に立つ彼はそれを静かに見ている。呼吸の音さえ黒いマスクの外には滲まない。

彼の手を取り、強く握った。無機質な美しさを纏った彼の、死んだように冷たい手に、私の温度が伝わるようにと包んで笑った。

「ダークさん、海は好きですか?」

「海?……好きでも嫌いでもないと思うが」

「じゃあ、これから好きになりに行きましょう!」

ポケットからクロバットの入ったボールを取り出し、宙に投げた。
今日はもう一匹、頼もしい鳥ポケモンを連れてきていたので、その子も外に出し、彼にその背に乗るようにと促した。

そう、私は鳥ポケモンを2匹連れてきていたのだ。たとえ彼が海を嫌いであろうとも、この誘いに苦い顔をしようとも、どのみち、この町から二人で飛び去るつもりだったのだ。
だって折角の夏なのだ。折角の休日なのだ。丸一日、この人と一緒にいられるのだ。
いつもと同じ、ではあまりにも勿体ない。いつもと違うこと、を体験することは、いつもの時間を過ごしているこの町ではあまりにも難しい。

「セイガイハシティの海は、きっと綺麗ですよ」

綺麗、という言葉に彼は怪訝そうな顔をしながらも、「分かった」と頷いてくれた。まだ彼の心に「綺麗」という感覚は馴染んでいないらしい。
構わない。私はもう、その認識と感性の隔絶に悲しんだりしない。だからその怪訝な表情を見届けて穏やかに笑う。そのままクロバットに指示を出す。
セッカシティは今日も快晴だ。おそらくこの青空と眩しい日差しは、イッシュの遥か東に在るあの町でも、変わらない。

変わらない……と思っていたのだが、どうやら私の考えが甘かったようだ。

「暑いですね……」

「そうだな」

ここは南国だろうか、いや、イッシュである。なのにこの暑さはどうしたことだろう。
空の日差しもさることながら、真っ白な砂浜に降り注いだ日光、この照り返しが思いの外、厳しい。キュレムの影響がないセイガイハの暑さを舐めていたようだ。
砂浜がとにかく暑かったので、近くにあった桟橋に取り敢えず避難する。コツ、コツと二人分の足音が響く。
歩きながら「すみません」と彼に謝ったけれど、ダークさんはその目を僅かに見開いて首を捻った。

「なぜ謝る」

「とんでもないところへ貴方を連れ出してしまったから」

「違うな。私が付いてきたんだ」

心臓が跳ねる。世界の彩度がぐっと上がる。
この人はこうやって私の何もかもを取り上げるのが得意なのだ。大事なことは滅多に口に出してくれないけれど、こうした、些末な私の重荷でさえ平気な顔をして奪っていく。
些末な罪悪感、ささやかな重荷、そうした何もかもを取り上げようとしてくれる彼の誠意を、私は正しく理解している。
要するに、大事な言葉が滅多に彼の口から紡がれないところで全く構わないのだ。そんなこと、何の問題もないのだ。少なくとも、私とこの人との間では。

「青いな」

不意に彼がそう零した。その視線の先には海が広がっていた。その吸い込まれそうな色に私の視線も釘付けになる。
彼の灰色の瞳がずっとこの青を見ていたら、その目も青く染まってしまわないかしらと、少しだけ思った。そうしたらお揃いなのに、と少しばかり夢を見た。
大きな波の音がその夢を割り、私は首を大きく振ってもう一度、人の多い浅瀬に目を遣る。
水着を着ていない人も多かったのだが、彼等は服が濡れるのも構わず浅瀬で遊んでいるようだ。水着を調達できずとも、これなら存分に楽しめそうだと少しばかり安心した。

そんなことを考えていると、左足への違和感を覚えた。どうやら何者かが私の足をつついているらしい。
慌てて視線を下に向ければ、水色の小さなポケモンが、くりくりとした大きな目でこちらを見上げていた。
イッシュでは見慣れないポケモンが、遠くの「ホウエン地方」に生息するミズゴロウであることに気付くまでに数秒を要した。

何故、ホウエン地方のポケモンが此処に?誰かのポケモンだろうか?野生だろうか?
数多の疑問が泡のようにぶくぶくと浮かんできたが、それら全ては目の前のミズゴロウの愛くるしさになかったことにされた。
パチン、と思考の泡が弾ける音さえ、今の私には聞こえなかった。思わずその冷たい身体を抱き上げて、隣で眩しそうに目を細めていた彼の眼前に突き出す。

「ダークさん見てください、ミズゴロウですよ!」

するとミズゴロウは私の腕からひょいと飛び出し、彼の右肩にぺとりと貼り付いてしまった。
驚きに目を見開く彼を、ミズゴロウはその小さな尻尾を振りながら、くるくるとした目でじっと見上げていた。この小さな訪問者は、私の腕よりも彼の肩をお気に召したらしい。
彼は私よりもずっと背が高いから、彼の肩に乗った方が広く海を見渡せる。
だから彼を選んだのかもしれないと、ミズゴロウの言葉が分からない私はそんな推測をしながらクスクスと笑った。
笑いながら、困ったように眉を寄せる彼と嬉しそうなミズゴロウとの、珍しい組み合わせを楽しんでいた。

「……見たことがないポケモンだが、こいつは野生なのか?」

彼の質問に私は首を捻った。
ミズゴロウは水辺を好むポケモンだが、確かこの子の生息地は淡水だった筈だ。海で群れを為しているとは考えにくい。
ホウエン地方のトレーナーと一緒にこの海を訪れたのかとも思ったのだが、辺りを見渡しても、このミズゴロウを探しているらしき人物を探すことはできなかった。
そもそも、ミズゴロウは「トレーナーとはぐれてしまって困っている」という表情をしていない。言葉を拾えずとも、それくらいのことは私にだって読めるのだ。

「貴方のトレーナーさんは何処にいるの?」と確認のために尋ねれば、ミズゴロウはフルフルと首を振って得意気に笑った。どうやら本当に野生のポケモンであるらしい。
「何処かへ行く途中なのかな」という質問にも首を振ったこの子が何処から来て、どういった経緯でこの町の海辺にやって来たのかは解らない。
解らないけれどこのミズゴロウは独りで、しかも彼の肩をこの上なく気に入っている。それだけ解れば十分だと判断し、私はその小さな頭を撫でた。

「それじゃあ、行き先が決まるまで私達と一緒に遊ぼうよ!」

徐に立ち上がり、ポケットから全てのボールを取り出した。「出ておいで!」という大声と共に全てのボールを投げ、皆を外に出す。
ミズゴロウを肩に乗せた彼も、私の行動を真似るようにして3つのボールを投げた。中から出てくるのは勿論アブソルと、2匹のキリキザンだ。
強い日差しと広がる青い海に早速はしゃぎ始めた皆を呼び集めて、私は声を張り上げる。

「今日は一日、自由行動にします!遠くへ行ってもいいけれど、ちゃんと夕方にはこの桟橋に戻ってきてね。いい?」

揃って頷くポケモン達の中に、ミズゴロウはぴょんと飛び出して行った。新しい友達を見つけたかのように、私のクロバットや彼のアブソルはミズゴロウを温かく迎え入れる。
ようやく解放されたというように、肩を逆の手で押さえながら彼は大きな溜め息を吐いた。

その背後にそっと、そっと忍び寄る。靴は予め脱いであるから、桟橋に足音は響かない。
彼のアブソルが私の不審な行動に気付いたようだけれど、人差し指を口に添えて「内緒だよ」と示した。彼は大きく頷き、私の愚行を許してくれた。

「じゃあ、解散!」

両手を思い切り伸べて、彼の背中をありったけの力で突き飛ばす。小さく声を上げてこちらを振り返るよりも先に、彼の身体は桟橋から青い海に落ちていった。
ザッバーン、と派手な音を立てて海の青を頭から被った彼は、顔を海面に上げるなり黒いマスクを片手で乱暴に外した。
大きな溜め息を吐いた彼は、しかし次の瞬間、私を挑発的に睨み上げる。白い肌に埋められた二つの目が、にっと弧を描く。
その場の勢いだけで動いた私は、すっかり忘れていた。彼が下に落ちても、彼のポケモンは下に落ちてなどいないということに。

「成る程、よく解った」

彼のその言葉と同時に、アブソルが私の背後にさっと立った。

「つじきり!」

勿論、本当に技を繰り出したりはしない。彼とアブソルを私はよく知っていた。
しかし目の前で宙を切るようにして繰り出された迫力満点のつじきりに、慌てて飛び退いたのは不可抗力だ。その手を彼が掴み、ぐいと海へ引きずり込む。
彼の時と全く同じ音を立てて、私の身体は海へと落ちる。

冷たい、と思った。外はあれだけ暑かったのに、海は程良い温度で私の肌を撫でていく。気持ちがよかった。此処にきてよかった、と思った。
顔を上げると同時に飲んでしまった海の水を吐き出しながら、みっともなくむせ始めた私に、彼は不安そうに眉をひそめながらも、
私が「大丈夫です」と笑うや否や、「なら謝らなくていいな」などと呆れたように、それでいて至極楽しそうに告げるのだ。

塩水を飲んだ喉の痛さも忘れて、私はお腹を抱えて笑い始めた。あまりにおかしくて楽しくて、止まらなかった。
ただこの楽しさに浸っていたかった。生きた時間をこれからも沢山、彼と迎えたかった。
彼も数拍置いて微笑んだ。マスクを外した白い顔に日差しが注いでいた。彼は間違いなく此処に居た。やはり、笑い止むことはまだできそうになかった。
だって海がこんなにも心地いい。だって彼がこんなにも笑っている。だって、こんなにも楽しい。

「さあ、満足か?」と彼は手を差し伸べる。私は首を振って彼の手を取る。彼の手は海の水より少し、ほんの少しだけ温かい。


2013.7.13
2016.8.26(修正)

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