手を引く影は赤

「だって、だってねパキラさん。私があの人を殺したんですよ」

そう言って少女は泣いている。貴方も私を責めてくださいと案に懇願している。

ポケモンリーグの火炎の間、対峙する二人の人間が交えるのはポケモンバトルではなかった。
ぽつりぽつりと紡がれる言葉の掛け合い。泣くことを止めない少女の頭を撫でるパキラのぎこちない手。訪れる沈黙。
この空間はそうしたもので成り立っていたのだ。それを他でもないパキラが許したのであって、その理由などもう忘れてしまった。忘れなければならなかったのだ。
ねえだって、私がこの子供を許さなければ、誰がこの子を許すというの。誰がこの子を生かすというの。

「だから貴方はいつまでもそんな喪服を着ているの?」

パキラは自分の大好きな色であった筈のそれを、まるで忌々しいものでも見るように目を細めて見つめた。
赤いブラウス、赤いスカート、赤いバッグ、赤い靴、赤い帽子に髪飾り。少女は赤を纏っていた。纏い過ぎていたのだ。
その姿があまりにも痛々しくて、パキラは情けを掛けてしまったのだ。
よりにもよって、自分の敵であった相手に。自分の道標を粉々に踏み砕いていった憎らしい少女に。

「だからパキラさんも私を憎んでいたんでしょう?全てを奪った私が憎くて仕方ないんでしょう?」

「あら、そんなこと言ったかしら」

パキラはおどけたように肩を竦めて笑った。少女もそれに釣られたように、泣きじゃくるその傍ら、嗚咽の合間にほんの少しだけ笑ってみせる。
その姿すら痛々しくて思わずパキラは目を背けた。

背負い過ぎたのだ。パキラはそんなことを思っていた。
この少女はポケモンバトルの腕に関しては一流だったが、まだ幼かった。学がなかったし、学ぶ姿勢を知らなかった。
それなのにその手に余る程の大きなものを守ろうとして、失敗した。
否、大多数の人間にとっては、それは紛れもない成功で、またとない快挙だったのだろう。現に少女の赤いバッグにはそれを称えるカロスエンブレムが付いている。

しかし少女はその成功に甘んじない。安定に留まることを選べない。成功の陰に隠れた、少女が取り零してしまったものを思って今も泣き続けているのだ。
お得意のポケモンバトルが生かせないこうした問題に関して、少女は悉く無力であった。
彼女には学がない。学べない。そんな彼女の世界は極端に狭い。解決策を探すための糸口が狭すぎるのだ。妥協案を構築するための知恵が少なすぎるのだ。

「確かに私は貴方が憎いわ。でもね、そのことは私の感情を鬱屈させ得るものではないのよ」

「……?」

少女は涙を拭いながら首を傾げた。
貴方にはまだ難しかったかしら。パキラは苦笑し、この頭の悪い少女にも解るように言葉を噛み砕き、その鉛色の目に刻むように言い聞かせた。

「私は貴方を憎いと思っているけれど、同時に心配もしているのよ」

「……どうしてですか?」

「貴方が死にそうな顔をしているからよ。この答えじゃご不満かしら」

その言葉に嘘はなかった。少女は死にそうな顔をしていた。
目の下に深く彫られた隈、ろくに食事を摂っていないことが窺えるこけた頬、梳かすことをしなくなった長い髪、全てが彼女の死の影を落としていた。
特にその褪せた髪の痛々しさたるや、目を逸らしたくなる程のものだった。
初めて出会った時には美しいストロベリーブロンドをしていた筈のそれは、今や毒々しさを放つ鮮やかなオレンジ色に染められていた。
この少女は服や持ち物に飽き足らず、あの美しい髪までも、喪の作業のために手放してしまったのだと、認めて、どうしようもなく呆れた。それと同時に、恐れていた。

彼女は疲れ果てていた。非現実的な救済が大きな口を開けて彼女を飲み込もうとしていたのだ。それは死という魅力的で破滅的な救済だった。

いけない。このままではいけない。この子を死なせてはいけない。
そう思ってしまったのは、パキラが少女を憎んでいたからだろうか。
健康体でなければ相手を憎むことすらできない。それ故の心配だったのだろうか。だから自分はボールも構えずに、彼女の涙をそっと拭ってやっているのだろうか。
それとも自分には、死にそうな虚弱な少女を見過ごすことのできない健気な精神が備わっていたとでもいうのだろうか。
咄嗟に組み立てた2つの選択肢を、しかしパキラは一笑に付した。
違う。そうではない。私が彼女を案じているのはそんな事象の為ではない。

自分の理想を踏みにじった当人が目の前で苦しんでいる。その姿はパキラにとって歓喜の対象となる筈だったのだが、しかしそうではなかった。
その時、パキラも同じように苦しかったのだ。それは大きな誤算だった。死が彼女を誘惑しつつあることを知ってからは更に焦りも加わった。
彼女が一人で苦しみ続け、いつしか生を放棄する時が来たとして、しかしそれをパキラは許さないだろう。きっと許せないだろう。
秘密基地でフラダリが忽然と行方を眩ませてしまった、あの時よりももっと強烈に、パキラはその不条理を憎むだろう。
そして、今度こそパキラは憎悪の対象を失くし、らしくない感情を抱くのだ。

寂しい、だなんて。

「苦しんではいけない、とは言わないわ」

パキラは少女に真っ直ぐな言葉を投げていた。
この学に乏しい少女には婉曲した表現が意味を成さないことを知っているからであったが、そうした正直な、裏のない会話はパキラを楽にしていたのだ。
こんな風に誰かと話すのは久しぶりだ。そんなことを思っていた。懐かしさと心地良さが入り混じった複雑な感情だった。

「私に話しなさい、シェリー

「!」

「何でも良いわ、私に話して。あの日のこと、フラダリ様のこと、貴方のこと、私に聞かせて。……お願い」

それは懇願だった。少女の為ではあったが、半分は自分の為でもあったのだ。
寂しい。この少女が死という救済に飲み込まれてしまうのは寂しい。フレア団のこと、フラダリ様のことを思って涙を流し続けてくれる、この少女を失うのは、寂しい。


お願い、フラダリ様。この子を連れていかないで。


少女の涙はいつしか止まっていた。パキラは自分の手を少女のこけた頬に這わせた。
この痛々しい少女を死なせたくない。貴方は死んではいけない。
死ぬことがいけないことだなんて言うつもりはない。ただ、パキラは寂しかった。
この少女までもがフラダリを追うように消えてしまうことを想像し、途方もない寂しさを感じたのだ。

私が寂しいからよ。貴方の為ではないわ。だからいなくならないで、お願い。

パキラは自分の心が大きく揺れるのを感じていた。そしてそんな自分を嗤った。
しかしその表情が顔に現れることはなかった。何故なら少女が彼女の頬に手を伸ばしたからである。
冷たい手はパキラの目元にそっと触れた。あまりの冷たさにパキラは目を丸くした。サングラス越しのその変化に彼女は気付いたらしく、その手を慌てて引っ込めた。
反射的にパキラはその手を掴んでしまった。

「……」

「ああ、違うのよ。貴方の手があまりにも冷たいからびっくりしただけ。それより、私の目に何か付いていたかしら?」

すると少女はほっとしたように微笑んだ。涙の跡が僅かにひび割れた。

「泣きそうな顔をしていたから」

誰が?そう尋ねたくなった。そう尋ねることもできたのだ。
おどけたように笑い、少女の頬をつねることだってできた。しかしそうしたことを行えるようになるには、もう少し、二人の距離を詰める必要があった。
二人の間にはまだ隔絶があり過ぎたのだ。故にそうしたことはまだ不可能だった。
だからきっと、これくらいが丁度いいのだろう。馬鹿な子ねと嘲笑の合間に零しながら、その手を強く握りしめる、これくらいで。


2014.3.5
2016.3.14修正

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