800歩先で逢いましょう(第三章)

6

「きみのこと知ってる、セイボリーでしょ?」

 大きなリボンをピンク色の髪に結んだその人が誰であるのか、セイボリーはすぐに思い至った。きっとあのユウリが持っていたハンカチはこの人のセンスであったに違いない。
 口が悪くて計算高くて、悪辣なところのある人。手先が器用でお菓子作りを得意としていて、けれどもスナック菓子やピーナッツの類を好んで食べる人。憎らしそうに、揶揄うように、たまに優しく「ユウリ」の名を呼ぶ人。
 そしておそらくは、この舞台に残された最後の一枠をセイボリーと奪い合い、引き分けと相成ったことで世界を分かたれてしまった、魂の宿敵。

「ええ、ワタクシがそうですよ。お会いできて光栄です、怪盗クララ」
「あはっ、やっぱりそっちでもうちのこと、話題になってたんだぁ」

 肩を大袈裟に竦めつつ、長く濃い睫毛に覆われた目をきゅっと細めて笑ってみせる。気が強そうではあるが、果たしてあのユウリに弁舌で叶うだけの手腕を持っているのかと問われると少し怪しい。ユウリを打ち負かして無邪気に喜ぶ姿よりも、するりと言いくるめられて悔しそうにしている姿の方が容易く思い浮かんでしまうのは何故だろう。きっと己とユウリの力関係のせいだと思った。セイボリーだって、バトルで、そして弁舌で、ユウリに敵った経験などろくにないのだから。

「きみについての惚気も沢山聞いたよ。すんごいステキなバトルで見る人みんな虜にする、手品師……いや、ジョーカーみたいな人、とも言ってたっけ」
「その・とーり! ワタクシが魅せて彼女が暴くんです。ガラルスタートーナメントでも、ワタクシたち、そうやって頂点に上り詰めたばかりなのですよ」
「へえ、すっごい自信じゃん? でも実際はユウリの足引っ張ってばっかだったんじゃないのぉ? 冷や冷やしながらの優勝だったってこと、知ってんだから!」
「あなただって人のことは言えないでしょうに。実力ではメジャーリーグのジムリーダーには遠く及ばず、シングルバトルでは彼女に一勝さえできていないままのはずですよ。もっともこの事実さえ、全力でミラーコートではあるのですが!」

 面白いことに、今まで一度も顔を合わせたことがなかったにもかかわらず、互いのことが手に取るように分かってしまった。互いのことなどお見通しだ、といった愉快な心地で対話ができてしまった。彼が、彼女が、ユウリにとって「どう」であるのか、ユウリへの執心が「どんな」風であるのか、そうしたことについて探りを入れるまでもなかったのだ。
 声も姿も性格も性別も異なる二人である。にもかかわらず、役割を奪い合った魂の宿敵、世界さえ跨いだライバルであるが故に……己が身を振り返りさえすれば、相手のことなどまるきり分かってしまう。答え合わせなどせずとも、己と全く同じ歩みを経てつい昨日、ユウリの隣にようやく立つに至れたのだと、今夜はその至福を噛み締めながら眠りに付いたのだろうと、誰よりも分かり合えてしまう。

「うちら、本当に会えたなら面白かったのにねぇ」
「そうした世界だって、きっと何処かにあるのではないでしょうか?」

 へぇ、と大きく目を見開いて彼女はセイボリーを挑発的に睨み上げる。もし同じ世界に相容れることができたならその時は容赦しない。でもそんな都合の良い面白い世界が実際にあると本気で思っているのか? そうした愉悦と懐疑を同程度に混ぜ込んだギラギラとした目だ。その毒々しい程に強い覇気は、かつて一度だけ戦ったあのユウリ……彼女の見せたそれにとてもよく似ている気がした。

「そちらのユウリが提唱していた仮説をお借りして話しますが、この不可思議な世界というのは、誰かに愛された誰かの分だけ、分かたれるように出来ているのかもしれません。であるならば、きっと」
「うちときみが二人揃った世界を望むような、稀有な誰かがいるってのォ?」
「ええ、きっとそうに違いありません。ワタクシたちきっと、そこでは賑やかに喧嘩してばかりでしょうね」

 少し憂いを帯びた声音になってしまったことに、我が事ながら違和感を覚えていると、彼女は小首を傾げてくらりと笑ってみせた。負けじとセイボリーも肩眉をつり上げふふんと得意気に笑ってみせた。顔を合わせただけ、ほんの少し会話をしただけなのに、まるでずっと前からこうだったのではと思えてしまう。こんな二人が共に在る世界を望む誰かが、本当にいてくださるのではと思ってしまう。
 ユウリの隣へ並び立つことの叶った今の世界ほどではないだろうけれど、そこだってきっと、素晴らしい舞台には違いない。

「なぁに? うちと仲良しこよしがしたいワケ?」
「まさか! 全力でお断りいたします。あなたの口の悪さと計算高さと悪辣さは、あなたのユウリから十分に聞き及んでおりますので!」
「ハァ!? 何それ! うちだってお断りだもん! お綺麗なツラしたきみがその実どんなに質が悪いか、きみのユウリから聞いてよぉーく知ってんだから!」

 そうして睨み合い、言い争いを続けるという面白おかしい記憶を残して、夢の幕が下りる。クララのいない世界、魂の宿敵と争って勝ち取ったこの世界にセイボリーは今日も目覚める。
 眠い目を擦りながら枕元の時計を見て、飛び起きた。朝食の時間をとっくに過ぎていたのだ。今日は手伝いの当番でなかったとはいえ、酷い寝坊だ!

「お、おはようございます! 遅れてしまって申し訳ない!」

 髪を溶かすのもそこそこに冷たい水で顔を乱暴に洗い、裏表反対に付けてしまったジャボを直しながら慌ただしく食堂へと駆け込めば、トーストとサラダの朝食を食べ終えたユウリが、その目の色にとてもよく似た色の濃い紅茶にのんびりと口を付けているところだった。顔を上げてふっと笑う彼女の視線を受け、思わず頭を掻いてしまう。

「おはようセイボリー、ここまで派手に寝過ごすなんて珍しいね。昨日はやっぱり、ちょっと疲れた?」
「いえ、そういう訳ではないのですよ。ちょっと『夢』が、その、ワタクシを離してくださらなかったもので」
「あはは、何それ、含みのある言い方だね。まるで」

 そこまで揶揄うように口にしたところで彼女はすぐに思い至ったらしく、すっと紅茶色の目を細めて嬉しそうに笑った。会えたんだねと祝福するように、いいなあと羨ましがるように、私もまた会いたいなと懐かしむように、きっと元気にしているのだろうねと祈るように、それらの小さな呟き全てを紅茶の湯気へと柔らかく混ぜ込んでいく。

「君がおかえりと言ってくれる此処には遠く及ばないけれど、それでも素敵な世界ばかりだったんだよ」
「ふふん。此処が一番だなんて、それはもう、そうでしょうとも! ですがあなたがそこまで言う場所に、ワタクシも機会があるならいつか馳せ参じたいものですね」

 そんなセイボリーの言葉を受けて、彼女はカップをテーブルに置いて立ち上がり、彼の分の紅茶を用意するためキッチンへと立ちながら、目を細めて笑う横顔のままに「行ってみる?」と少し弾んだ声音で尋ねてきた。

「流石に時空旅行は無理だけれど、普通の旅行ならこっちでもできるからね。今の時期ならホウエンかジョウトがオススメだよ。紅葉がとても綺麗なんだ!」
「ワタクシと二人で? それではまるでデートのようではありませんか」
「そうだよ、君を誘っているんだ。いけない?」

 いけない、などということは在り得ないけれど、もう少し心の準備が必要である気もした。それに今はガラルスタートーナメントに引っ張りだこで、セイボリーはともかく、彼女に長い休みを取る余裕などないに等しいのでは。
 そうした懸念を抱えていることを、彼女はセイボリーの顔色を見て確認せずとも察したらしく「なんて、冗談だよ。今すぐにとはいかないよね」と笑いながら、少し濃い目に蒸らした紅茶を白いカップに注いでいく。彼女の視線がカップの中へ、そして己の喉へと流し込まれていく、そんな錯覚を覚えさえするその色がセイボリーは好きだ。彼女がセイボリーの水色を好むあの程度には少し足りないかもしれないけれど、夕焼けや紅茶の濃い色を見る度に、彼はそこに己が最愛を見た気がして、嬉しくなってしまうのだ。

「君との旅行は、沢山あの場所で苦しみ抜いた後のご褒美に取っておくよ。でもその頃にはまた季節が変わっていそうだね。冬ならやっぱりシンオウ地方か、あるいは逆に常夏のアローラも捨て難い」
「次から次へと候補が出て来るじゃありませんか。一体どれだけの世界を旅してきたのです?」
「そうだね、少しずつ話すよ。一時間や二時間のお喋りじゃとても語りきれそうにない。……少しずつでいいから、聞いてくれる?」

 そうした小さな甘えの言葉に大きく頷いて返しながら、セイボリーはまた満たされていく。何もかもが楽しみだった。彼女の話を聞くことも、彼女とあのスタジアムで戦い続けることも、その苦しみを共に分け合うことになるのかもしれないという未来さえ。
 戦い抜いた、苦しみ抜いたその先に、きっとその全てが二人の絆になる。それを祝福してくれる旅先にあるものを思うと益々楽しみになる。燃えるような紅葉が待っているのだろうか、雪化粧が煌めいているのだろうか、あるいは彼女の好きな花で溢れているだろうか、それとも二人が出会ったあの夏のように、ただただ暑く眩しく素晴らしいばかりだろうか。

「楽しみです。本当に、夢のよう」

 彼女の隣の椅子に座りつつ思わずそう零せば、少し驚いたように見開かれた目がとろりと、まるで紅茶へ蜂蜜を垂らすかのような優しさでとろけた。

「本当だね、夢物語より夢みたい。面白くなってきたじゃないか」

 一か月越しに聞けた彼女らしいその言葉に口元を綻ばせながら、セイボリーは紅茶へと口を付ける。程なくしてこんがりと焼けたパンがトースターからスキップするように飛び出てくる。火傷を防ぐため、一指しでふわりと浮かせてトースターから取り出せば、ただそれだけのことに彼女は声を上げて喜んでくれる。
 もう残り二口も残っていなさそうな紅茶へと満面の笑顔で大事そうに口を付ける、その横顔を見ながら、セイボリーはその横顔の主ではない誰かへ、祈りかける。

 ねえ、今はまだ会うことの叶わない何処かの誰かへ。
 ワタクシなどには及びもつかないような苦しいことが、きっとあなたの世界には沢山あるのでしょう。ままならないことだって数えきれない程にあるでしょう。でもどうか何もかもを捨て置いてしまわないでほしい。頼っても甘えても休んでもいいから、全てを否定して、なかったことにだけはしないでほしい。だって此処はあなたのための世界、あなたのための物語。どうか他の何処でもない「其処」で、苦しみさえ抱き込んで楽しく、面白おかしく生き抜いてほしい。

 進んでいれば、歩いていれば、その重ねた歩数の先であなたを待つ誰かに逢えるはずだから。
 あなたもまた、誰かの愛によって世界を授かった素晴らしい人に違いないのだから。

2021.11.7

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