3(flashback) 「もし私がチャンピオンを辞退しようとしたなら、その時どういう手続きをしなければならないのか教えてほしい」 バトルタワーの執務室へ入ってきた私の姿を認め、笑顔で椅子から立ち上がろうとしてくれた彼の顔が凍り付いた。笑顔が一瞬にして消えた、というのではなく、本当に笑顔のまま固まって動かなくなってしまったのだ。 私はこの人が怒っているのを見たことがない。彼はポケモンバトルをしている時だけがいつもいっとう荒々しい。だからきっと今回も私を叱ったり怒ったりはしないだろうとは思っていた。ただ、こんな風に傷付かれるとは想定していなかった。 「滅多な……ことを、言うものじゃないぜユウリ。冗談でも」 「冗談でこんなことを言っているように見えるのかい、ダンデさん」 凍り付いた笑みを引き取る形で、にっこり笑って尋ね返す。いよいよ彼は顔を青ざめさせて椅子に深く腰掛け、押し黙った。長く、本当に長く黙っていた。木目の美しいツルツルとした立派なデスクに両肘を付いて、首の前で組んだ両手の上に額を乗せて、呼吸さえ留めてしまったかのように静かに、黙っていた。長い、長すぎる沈黙の間、私は執務室のドアを後ろ手に閉めた状態のまま、その分厚い扉からいつでも逃げ出せるようにと、そこから一歩も動かずこの空気が動く瞬間を今か今かと待っていた。 何事か、私などには考えも付かないような何事かを、真剣に考えてくれていることが分かる。彼が愛したガラルのポケモントレーナーたち、その中に私が含まれていることも痛いほどによく分かっている。でも、いやだからこそ、彼は決してこの私に辞退の許可など下さらないだろう……ということまで手に取るように分かってしまう。 「あるんだよね、方法が。過去にピオニーさんがそうやって辞めているはずだもの」 それでも私は慈悲を求める大罪人のように、みっともなく笑いながら恩赦などを求める始末だった。刑を宣告される被告人の心地でありながら、無期懲役の檻が壊れることなど在り得ないと知りながら、それでもやはり最後の最後まで人間というものは希望を捨てきれないものなのだ。 ダンデさんはようやく、顔を上げた。 「!」 それは、私が旅に出る前にホップのスマホロトムで何度も見せてもらったチャンピオンの表情でも、ローズ委員長の後任としてトーナメントやジムチャレンジを取り仕切る大人の表情でも、バトルタワーのオーナーとして毎日のバトルをこの上なく楽しむ少年の表情でもなかった。キバナさんの前で見せる友人の顔とも異なっている。もっと近しくもっと個人的で、もっと利己的になれる……そう、家族に見せる表情とするのが最も適切であるように思われた。 「これは元チャンピオンでありローズ委員長の後任としてではなく、ホップの兄として聞いてほしいんだが……」 「ホップの?」 果たしてダンデさんは弟であるホップの名前を出す。ただ彼の発言の意図するところをすぐには読み切れなかったため、私は首を捻ってしまった。 「ガラルのチャンピオンを空席のままにはしておけないだろう? 君の希望を聞き入れるならば、チャンピオンの役を誰かから繰り上げる必要が出てくる。ジムチャレンジやトーナメントの臨時開催は、前例がないからな」 彼のような「存在自体に前例がない」人間であっても、前例がないことに対して怯んだりするのか、と少し驚かされた。ローズ委員長くらい場数を踏んでいれば融通を利かせることもできたのかもしれないけれど、ダンデさんはポケモントレーナーとしては大ベテランであっても、委員長や経営者としてはまだ初心者の域を出ない、ということなのだろう。それを分かってほしいと前置きした上で、彼は更に続ける。 「ガラルの皆が認める次のチャンピオンがいるとするなら、それはもう、今期のセミファイナルで準優勝の成績を残し、かつザシアンと共にムゲンダイナの事件を解決したホップを置いて他にいないだろう。ガラルの皆に望まれたなら、何より友人である君がそう願うのなら、彼は喜んでチャンピオンの座を引き継ぐはずだ」 「……」 「自らがやっとの思いで選び取った、研究者としての歩みを全部なかったことにして」 頭を殴られるような衝撃と共に、すっと心臓が冷えていった。セミファイナルでの勝利時に「どうして勝ってしまったのだろう」と強く感じたあの後悔が昨日のことのように思い出された。 ホップの「おまけ」として参加したジムチャレンジの果てに、私は彼を制して彼の兄と戦う資格を得た。彼から奪い取ったその資格で、私はチャンピオンにまでなってしまった。その責任はとても、とても重い。少なくとも、彼の兄であるダンデさんの前で「こんなもの要らない」と捨て置けるようなものでは決してない。 「ユウリ、オレはホップが大事だ。何にも代えがたく大事な家族だ。彼の選択を尊重してやりたい。応援してやりたい。もう何も諦めさせたくない。何も」 私とホップを天秤に掛けられてしまってはもうどうしようもなかった。実の弟の選択を重んじたい、もう何も諦めさせたくないとする彼の実に人間らしい言葉に、それでも嫌だと駄々を捏ねるだけの気力は最早私には残されていなかった。 「つまり、私にチャンピオンを辞退させるつもりはないということだね」 「……」 「ホップにはどうしても任せたくない。ダンデさんはやるべきこととやりたいことが多すぎてそれどころではない。他の人ではガラルの皆さんが納得しない。私がチャンピオンで在り続けるしかない」 「すまない」 ダンデさんは深く、それはそれは深く頭を下げた。彼は正しいことしか言っていないし、そんな彼を責める気持ちには全くなれない。ただ、後ろ指を指されながらでも逃げられるのならその方がいいと覚悟して申し出た相談であっただけに、どうすることもできないと突き返されてしまったことへのショックが大きすぎて、彼を労う言葉を掛けることはどうにもできそうになかった。 「なあユウリ、チャンピオンとはそんなに苦しいものだったろうか?」 「貴方も少なからずその苦しさを感じていると思っていたよ。だってチャンピオンを降りてからの貴方は、とても自由で楽しそうだ」 「そりゃあ、新しく始まった冒険はわくわくするものだろう? キミにとってはチャンピオンとしての生き方がまさに『新しい冒険』であるはずだ。それでも、もう窮屈かい? もう退屈かい? 何がそんなに苦しい? 何が君に合わなかった?」 どうにもしてやることができないと暗に告げながらも、彼は私の愚痴、もとい弱音を聞く姿勢を取ってくれる。あまりにも優しいから……優しいから、私は思わず「優しくなくなる」ことでこの場のバランスを取りたくなってしまう。 「貴方の敷いてくださったレールが、私には合わなかった」 「オレの、レールだって?」 「私は貴方のように上手に戦えない。皆さんを喜ばせるような勝ち方がどうしてもできない。私のバトルを見ている皆さんは随分と退屈そうだよ。このままでは貴方の育てたガラルのバトル熱は冷めゆくばかりだ。私には熱を取り戻す術がない。取り戻して差し上げなければとも、最近はあまり、思えない」 自身が十年かけて守り育ててきた「誰もが強くなるガラル」を諦めるような発言を受けて、流石の彼も表情を曇らせた。そう、彼だってこの状況は本意ではないはずなのだ。私の下手なバトルによってガラルのトレーナーたちの心が離れていくのを、一刻も早く食い止めたいに違いないのだ。 私もできることならそうしたい。愛着があるガラルのため全力を尽くしたい。でもエンターテイナーとしての才は私にはなく、替えの人材を今のガラルは用意できず、不適切な私が不適切な位置に留まるばかりで……ほら、誰も幸せになっていない。 「私はチャンピオンにはなれてもエンターテイナーにはなれない。ポケモントレーナーの皆さんをすべからく強くして差し上げることもできない。落胆と非難と陰口を受け止めながら戦い続けることも、もうできそうにない」 「待ってくれ、そんな、そんな下らないものはいつまでも続きはしない! 変わる時が必ず来るんだ。キバナにもそういう時期があった」 変わる時。それは皆さんが変わる時だろうか。それとも私が変わる時? 私が、このガラルという土地に作り変えられてしまう時? いや……いっそ作り変えてくれた方が楽だったかもしれないとさえ今は思う。立派に皆さんを楽しませることができたなら、もっと上手にバトルができたなら、もっと非難や陰口に強い人間で在れたなら。 やめよう。全て仮定の話だ。私は相応しくなかった。 「私の腕、もうボールを持つとぴくりとも動かないんだ」 「!」 「もう少し踏ん張れればよかったのだけれど、体が言うことを聞いてくれなくてね。辞めることができないのならせめてお休みを頂くよ。ガラルスタートーナメントは欠席扱いにしてくれないかな。皆さんに申し訳なかったと伝えてほしい」 今はボールを握っていないため都合よく動いてくれる右手をヒラヒラと振って笑う。そういえば今日は一度もインテレオンたちを出してあげられていない。ボールを地面にコロコロと落とし転がせることしかできない今の私は、彼等にさえ呆れられてしまったっておかしくない。こんなのがガラルのチャンピオンなんて、とんだお笑い草だ。 愕然とした表情でゆっくりと立ち上がった彼の顔をいよいよ見ていられなくなって、私はふいと顔を背けた。早く此処を出よう。出て、そして帰ろう。 「君、いつの間にそこまで追い詰められて……いや、でも、流石にチャンピオンがこれだけの大きな舞台で席を外すのは」 「非難でも何でもしてくれて構わない。不相応だと判断したなら私をチャンピオンから外してくれたっていい。それができないから困っているのだろうけれど」 「ユウリ!」 「でも、困っているのは私だって同じだ。少し時間が欲しい。この我が儘さえ通らないのなら私はもうポケモントレーナーをやめて何処か遠くへ逃げるしかない」 後ろ手にドアを開けてすっと後退りながら、私は目蓋の裏に「帰る場所」を想起する。ハロンタウンの自宅には定期的に雑誌やテレビの取材がやって来るためおちおち休息も取っていられない。ならば向かうべき場所は一つしかない。 「頼むからそんなこと、言わないでくれ。君に苦しんでほしい訳じゃないんだ」 「貴方に苦しめられているとは思っていない。ホップのことだって今もずっと大好きだよ。だからどうか自分を責めないでほしい。本当にごめんなさい、ダンデさん」 極力意識して静かに閉めたはずなのに、音が大きく響いてしまい少し焦った。この扉を再度開く権利はきっともう二度と、この私には訪れないだろうなと思われてしまった。 扉に背を向けてズルズルと座り込み、ポケットに手を差し入れてハンカチを強く握り締めながら、そうだ、彼に浮かせてもらえばいいんだと現実離れしたことを考えた。こんな私のみっともない思いも、ガラルのあちこちから飛んでくる落胆や陰口も、私の責務も逃げられない立場も全部、全部、あの世界一綺麗な水色に包んで、浮かして飛ばして、なかったことにしてもらおう。 本当はそんなことできずとも、ただあの頃のように笑って「おかえり」と言ってくれさえすればそれで、それだけでよかったのだけれど。 2021.10.21
800歩先で逢いましょう(第二章)