800歩先で逢いましょう(第二章)

12

「モンスターボール……」
「ジャングルに出掛ける前に、ネット通販で取り寄せていたんだよ。無事届いていたみたいでよかった。僕もこうして手に取るのは久しぶりだなあ」

 赤と白で構成された大量のそれを視界いっぱいに収めた途端、先程まで、借りていたカメラと共に在った楽しい気持ちも、ビビヨンという面白い性質の羽を持つ興味深いポケモンへ寄せていた感動も、珍しい模様を撮影できたことやトオルさんに褒めてもらえたことへの喜びも、彼とミュウとの昔話に抱いた微笑ましい心地も、あっという間に弾けて、潰れて、なかったことになってしまった。

「荒療治だと笑うかい? でもこうするしかないと思ったんだよ」

 ルイがかつて撮影したというビビヨンの羽の模様を思い出す。赤と白の眩しいコントラスト、あれは間違いなくモンスターボールの模様だったのに、それにピンと来ることができなかった。すぐに思い出せない程に、私はこの世界においてボールと疎遠になってしまっていたのだ。そういう意味でトオルさんの「こうするしかないと思った」はきっと正しい。私ではボールを手に取る機会を自ら作ることなど到底できなかっただろうし、トレーナーとしてバトルをする習慣のないこの地方では、ボールを手にするようなタイミングなど訪れない。どれだけ待ったところで時間が無為に過ぎるだけだ。
 ならば自分が動くしかない。自分が、ちょっと嫌な役回りをするしかない。トオルさんにそのような結論を出させた自分がひどく恥ずかしかった。その不甲斐なさに対して私はまず謝るべきだ。けれどもそうした判断に「恐怖」がストップを掛ける。

 何も言えない。指先ひとつ動きやしない。息の音が鼓膜へといやにこびりついて離れない。こんなときに限ってムックルは鳴かず、夕暮れの静寂を割くものは何もない。

「怖いかい? 大丈夫だよ、ふわりんごの下半分が白くなっただけだと思えばいい」

 余程悲惨な顔色をしていたのだろう、ほんの少し揶揄うように目を細めつつトオルさんは笑った。確かにポケモンの入っていないボールの重量は、軽くて柔らかいふわりんごのそれにとても良く似ている気がした。
 狂いなく狙ったところにふわりんごを投げて、ポケモンたちの様々な反応をそのカメラに収めてきたキミなら、同じように掴んで投げ返すことなんて造作もないだろう?
 彼の目がそう語っている。取ってみせろと訴えている。でも無理だ、だって目の前にあるのは私の罪の証であってふわりんごではないのに。私はきっと、まだこれに許されてなどいないのに。

「改めて訊こう。ユウリ、君は帰りたいんだね?」
「いや、でも今はまだ」
「帰れるかどうかを尋ねているんじゃないんだよ。キミは帰りたいの? それともずっと此処にいてくれるの?」
「……帰りたいとは、思っているけれど」
「じゃあ帰ろう。そのために、ほら、できるようにならなきゃいけないことがあるよね? その言葉が口先だけのものじゃないって、分かってもらわなきゃいけないよね?」

 耳の痛い言葉だ。胸に突き刺さるような鋭い叱咤激励だ。キミの覚悟を今此処で神様に見せてみろと、トオルさんはそう言っているのだ。
 彼は何も間違っていない。私だって、そうするのが最善手であると知っている。そうできればすぐにでも戻れる。神様はきっと私を許してくださる。でも……でも!

「無理だよ! だって私、まだボールを見ただけでこんな調子だし、あのフィールドに立つことを思うと怖くて堪らないんだ。何も解決していない。戻るために必要なものだって見つかっていない。それなのに」
「此処にはないよ」

 どうして。……どうして?
 彼の言葉にショックを受けている。此処に来てからというもの、ただひたすらに優しいばかりであった彼が、今になって為し始めた突然の暴挙に怯えている。敢えてだろうか、酷い言葉ばかりを投げる彼の惨い選択に傷付いている。彼にそんなことをさせる自分をただひたすらに情けなく思っている。

「そんなものはない。楽しいことばかりのこの世界、キミにとって生温いこの場所じゃそんなものは絶対に見つからない。だからキミは、苦しむことを承知の上で、何にも解決していないまま戻るしかないんだよ!」
「見つからない……?」

 置き捨ててきた全てを苦しみごと取り返すために必要なものを探していた。今の自分に持ち合わせのなかった覚悟を手にすべく探していた。珍しい羽を持つビビヨンの写真より、トオルさんや博士からの誉め言葉より、本当はずっとそれが欲しかった。それこそ、私が見つけなければいけないものだった。
 でも彼はそんなもの、此処にはないと言う。この世界にいるだけで無条件に与えられる平穏が私の目を曇らせているんだと、そんな風に叱られるのだろうと思っていただけに、そもそもキミはありもしないものを必死になって探しているだけだったのだと嗤う彼の姿は、強烈な意外性と絶望をもって私の胸を抉るばかりだ。

「キミにとっての大事なものの代わりをこの世界で用意しようとしたのなら……やっぱり『神様』の愛は間違っていたんだろう」
「トオルさん」
「僕にルイでなければいけないように、キミには『彼』でなければいけないんだ。どんなに似た水色も、キミの最愛に成り代わることなんかできやしないんだ。替えなんて効かない。キミの傷は、キミが傷を負ったその辛くて過酷な世界でしか塞がらない!」

 私の最愛も彼の最愛も揺らがない。何にも誰にも取って代われるものではない。それは私の苦しみにおいても同じだと宣言して、トオルさんは足元に転がったボールを両腕へと大量に抱え、右手を大きく振りかぶって私に、投げつけてきた。

 コツン、と私の額にボールが当たる。受け身を取れなかった私はそのまま少しふらつく。何をするんだと抗議しようとしたけれど、そんな口を挟む隙さえ与えずトオルさんは次のボールを投げるべく腕を上げる。
 今の私には決してできない動きで、今の私を物理的に傷付けにくるその姿を、泣き出しそうな顔でそんなことをしてくれる彼を……見ていられなくなって、とても辛くて情けなくて……両腕で目を覆い蹲ってしまう。その間にも彼の投げたボールは私の膝へ、肩へ、靴先へと当たる。当たり、転がり戻ってきたボールを拾い上げて彼はまた投げる。

 嫌だ、寄越さないで。怖い、怖い。お願いだから責めないで、もう私を責めないで!

「此処は楽しかったろう、幸せだったろう! でもキミを本当の意味で救うものは何もなかった。それでいいんだ。そうでなくちゃいけないんだ!」

 痣になるような威力ではない。ふわりんごのダメージときっと大差ない。それでも痛かった。当てられたところではない部分が痛くて痛くて堪らなかった。だってこんなことまでさせているのに、彼は私のため、悪役にさえなろうとしてくれているというのに、私はまだ「恐ろしい」としか思えないなんて!

「ほら、言えよ! こんな世界での最低な平穏なんか御免だって、お前の生温い愛なんかもう要らないって、神様に聞こえるように声張り上げて、叫んじゃえ!」
「トオルさん、待って、お願い待ってよ」
「何だい、怖気づいたか? それともキミ、僕にとってのルイに成り代わる気になったとでも?」

 貴方にとっての、かけがえのない相手の代わりに?

「いつ僕の前からいなくなるかもしれないルイの代わりに、キミがずっと此処にいてくれるの? 本当の意味での替えになんてなれっこないと分かった上で、それでも妥協案として犠牲になってくれるとでも?」

 顔を上げた。泣きそうに眉を歪めつつ、口元を吊り上げて笑う彼の胸元、ボールを投げるために振りかぶった拍子に「それ」がカットソーの内側からころんと飛び出てきた。
 会ったこともない、写真を見たこともない、そんな少女が「笑っている」姿が私には見える。指輪の色と共に私の網膜へとはっきり焼き付いている。夕暮れの中、彼女のイルミナフォースが彼の胸元で今も仄かに愛を灯している。

 あれはトオルさんとルイの色であって、私の焦がれた水色ではない。私が取り上げて、置き換わっていいようなものでは決してない。

「まさか」

 私の水色だって同じだ。譲るものか、何にも誰にも譲るものか。
 彼の水色を、信仰の心地さえ抱いたあの色を、一粒だって取り零してなるものか!
 私に信仰を抱かせたあの色はすり替わったりしない。他の何色にも染まるものか。たとえよく似た水色であったとしても、染まり替わることなど許せない。

 貴方のものでなければ、意味がない!

「そんな犠牲はお断りだ」

 最愛の色を掴もうと伸ばした手の中に収まったのは、「彼」の操る水色の光ではなく、赤と白で構成された冷たく硬いモンスターボールだった。パシっと小気味よい音を立てて、空のそれは私の手の中に収まった。強く、強く握り締めて爪を立てた。力を入れ過ぎて先が割れてしまいそうだった。構わなかった。

「ああそうかい、でも戻れないんだろう。あっちの世界の誰もキミを引っ張り上げることができていないものね。キミの言う『彼』だってキミを救えなかった。違う?」
「そうとも、私は誰にも救われないままに此処へ来た。こんな私を受け入れてくれる人はいたけれど、引っ張り上げてくれようとする人はいなかった。『彼』でさえ、ただ静かに傍にいてくれただけだった」
「そらみろ、そんなところに戻ったってキミは救われない」
「上等だ!」

 彼がジャングルへ向かった日の前夜、互いに足りない覚悟を「合わせてみよう」と提案してくれたことを思い出す。
『空元気さえ振り絞って、覚悟のかさ増しをしてみようじゃないか、お互いにさ』
 あれはこういうことだったのかもしれないとようやく思い至る。本当は「上等だ」なんて思っていないのかもしれないけれど、トオルさんが示してくれた覚悟の分に引きずられるようにして、足りないピースを埋め合わせるようにして、欠けたもの同士が引き合うようにして、不思議なほど、するすると言葉が出てきてしまう。
 空元気だ。分かっていた。構わない。それでも今、ボールは私の手の中に在るのだから、それが空元気であろうとも、補い合った継ぎ接ぎの覚悟であろうとも、構わない。

「そうとも私は救われない。そんな簡単に救われるはずがない。誰かに救ってもらおうだなんて、癒してもらおうだなんて、思い上がりも甚だしかったんだ!」

 臆病な私への荒療治のため、此処までしてくれた彼の気概に応えたい。だって私は戻るべきだし、貴方とルイさんはやっぱり一緒にいるべきだ。そうでしょう。

「戦い続けてやる。勝ち続けてやる。苦しみ続けてやる。どんなに落胆されようとも、私のやり方でインテレオンたちと共に走り続けてやる。この苦しみは私だけのものだ。誰にも私を救えやしない。貴方にも、世界にも、神様にだって」

 神様にだって。
 そう宣言するや否や、腕がすっと軽くなった。腕に流し込まれていたように感じていた鉛が一瞬のうちに蒸発したようにさえ感じられた。信じられないような心地で大きく振りかぶって投げれば、ボールは薄暗い夕空をとんでもない豪速で駆け、トオルさんの額にゴツンと鈍い音を立てて、派手にぶつかった。
 低い呻き声と共に蹲ってしまった彼へと慌てて駆け寄る。平謝りを繰り返す私に、顔を上げた彼は豪快に笑って、涙目で許してくれた。

2021.10.30

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