800歩先で逢いましょう(第一章)

6

「セイボリー! ユウリを捕まえて!」

 子供の門下生の甲高い声に呼び止められ、ポケモンの世話をしていたセイボリーが慌てて振り返るのと、長く伸ばした茶色の髪のひと房が、彼のジャボをぺちんと叩いていくのとが同時だった。

「何事です!?」
「ユウリがフケツなんだ! ずっと洗濯を嫌がってるんだよ」
「……ハイ? フケツ?」
「無理矢理取り上げようとしたんだけど逃げられちゃった! いつものテレポートでばびゅーんってやっちゃってよ!」

 子供たちの妙な疑惑から本気で逃れたいらしく、ユウリはかなりのスピードで一礼平原を駆け、砂浜の方へと向かっていく。事情の詳細は掴めないが、今走り出さなければ追い付くのに少々、骨を折りそうだ。
 セイボリーは意を決して地面を蹴った。見守っていた子供たちがわっと歓声を上げるのを背中に聞きながら、砂浜を目の前に捉えつつ勝利を確信する。彼女の足は以前から人並み以上に早かったが、逃げた先の分が悪すぎる。砂浜はセイボリーの独壇場だ。トレーニングのため、ポケモンたちと共に半年以上地道に走り込んだ、その場数を舐めてもらっては困る。

「これユウリ! お待ちなさいな!」
「えっ!?」

 あと三歩のところで声を荒げれば、彼女は振り返りつつ驚きの声を上げた。セイボリーが追い掛けてきたことではなく、彼があっという間に自身へと追い付き、今にも腕を捕らえんとするところまで来ていることが信じられないといった様子だった。
 驚きにだろうか、それとも砂浜という足元の悪さにだろうか、彼女の脚はその拍子に派手にもつれた。しまった、とセイボリーは思ったが時既に遅し。彼のテレポートに安全な急ブレーキの機能は備わっておらず、尻もちを着いたユウリのすぐ隣へと頭から突っ込んでしまったのだった。
 真夏の火傷するような熱さではないとはいえ、晴れた日の砂は秋の穏やかな時分においてもそれなりに熱を持つものだ。ぎょええと悲鳴を上げながら顔に貼り付いた熱い砂を両手で拭い、砂まみれになった眼鏡を慌てて外す。ぼやけた視界の隅で、それらを呆然と見ていたユウリが唐突に声を上げて笑い始めた。
 笑い始めた?

「ふふっ、あっはは! 追い付かれちゃった!」

 手袋で乱暴にレンズを拭う、という普段ならまずしないような荒っぽい処置を済ませ、セイボリーは眼鏡を掛け直し慌ててユウリへと向き直った。
 砂浜に座り込んだまま、彼女は記憶にあるよりやや高い声でコロコロと笑っている。胸元まで長く伸ばした髪が、震える肩に合わせてぴょこぴょこと跳ねている。薄いお腹を抱えて目を細める様は以前の彼女に寸分違わない。こんな風に屈託なく笑うのも、以前のままだ。

「ああおかしい! どうして私、貴方から逃げ切れるなんて思ったんだろう。貴方は男の人なのに! 歩幅だってこんなに違うし、こんなに大きな手、振り払えるはずもなかったのに」
「い、いえ……ゲホッ、あなたの逃げ足もなかなかのものでしたよ。ゼンリョクテレポートでなければ追い付けなかったでしょうね」
「テレポート? ……ふふ、あはは! あれはテレポートだったんですね。どおりで速いと思った!」

 これまでのセイボリーとユウリの間の空気は、滅多に荒波の立たない穏やかで優しいものでこそあったが、お世辞にも明るく楽しいものであるとは言えなかったため、「まるであの頃のような」空気が戻ってきたことに、セイボリーは喜びを通り越して困惑を隠せなかった。ユウリはよく笑う人ではあったけれど、セイボリーの前では、その笑顔は愛想の域を出ていないように感じられていたから。
 ワタクシのことを覚えていないあなたであっても、以前のようにワタクシの前で笑ってくれる。これまで夢物語でしかなかった希望的観測が、この不格好な追いかけっこにより現実のものとなったことに……セイボリーは実感がまだ、湧かない。

「あの、もし」
「はい?」
「これは夢ではないでしょうか」

 穏やかな愛想笑いに徹することを選んだユウリなら、眉を下げつつ「私も、記憶のない今の状況が夢なんじゃないかって思うことがあります」などと、申し訳なさそうに告げたのかもしれなかった。けれども今の彼女はセイボリーのそうした言葉を明るく笑い飛ばし「いいえ」と芯の通った声音で否定してくる。

「現実ですよ。私が貴方に追い付かれてしまったことも、二人して砂浜に転んでしまったことも、この砂まみれの服で戻れば間違いなくミツバさんに叱られてしまうだろうことも、……ふふっ、全部現実!」

 そんな「現実」を喜ぶような音に、セイボリーがどれだけ救われてしまったかは最早語るべくもないだろう。湯水のように湧き出て来る感慨を処理しきれず、セイボリーは砂まみれになった衣服と顔でただ笑った。

 あなたがこんな風に笑える現実ならば、そう悪いものでもないに違いない。
 そうした確信にふと泣きたくなった。笑い泣きということにしておけば、今の彼女の前でなら誤魔化しが効く気がした。全てを思い出したユウリに「あの日の君は随分と泣き虫だったね」と揶揄われることを思ってまた笑った。楽しかった、とても。

2021.10.7

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