4 ユウリは地頭がいい。人当たりもいい。強情ではあるが礼節を弁えており、気配りが人並み以上にでき、そして何より、よく笑う。記憶を何処かに置き忘れてきた今でもそれらの気質は健在で、以前のユウリと変わらず、彼女は誰もに愛された。 数日もすれば、彼女は道場内を以前と変わらぬ様子で歩き回るようになり、ミセスおかみの指示のもと、道場内の雑務を何でも進んでこなした。子供の門下生を連れてすぐ傍の砂浜や一礼野原へと遊びに出ることもあった。 他の手持ちのポケモンを手にすることを彼女は頑として拒んだが、あれ以来インテレオンのことは常に連れ歩いている。ボールを握ろうとはしなかったが、彼のことは「信頼に足る」とあの日の一瞬で感じ取ったようであった。インテレオンも、自身のことを忘れてしまった彼女の前であからさまに狼狽することもなく、極めて冷静かつスマートに寄り添った。セイボリーが自らを恥じたくなる程の紳士ぶりであった。もっともインテレオンがすこぶる立派であったのは、ユウリがこうなってしまうずっと前からであったのだけれど。 「ガラルスタートーナメント、開催延期だってさ」 皿洗い当番を共にしていた先輩の門下生が、セイボリーに耳打ちするような形でそう伝えてきた。予定されていたのはシュートスタジアムを舞台とした新しいタッグバトル形式のトーナメントであり、ジムリーダーになったばかりのセイボリーも出場の誘いを受けていた。ユウリがこのようなことになってしまわなければ、あのトーナメントこそがセイボリーの、彼女の隣に並び立つ初舞台となるはずだった。 「今、テレビのニュースでやってるよ。ユウリのことはちびっ子二人が外に連れ出しているから、安心してくれ。あいつらも優秀だよほんと」 「ええ、本当によく気が付く子たちです」 自らがチャンピオンであるという事実どころか、ポケモントレーナーとして旅に出たことさえも未だ認め切れていない彼女に、自身があの大きなスタジアムで行われるトーナメントの「主役」であることを知らせれば間違いなく混乱する。そうした門下生の懸念により、彼女には極力そうした情報を流さないようにという協力体制がこの道場全体に敷かれていた。 彼女の平穏は、道場の皆の細やかな配慮によって成り立っている。シショーやミセスおかみ、インテレオン、小さな子供の門下生でさえも共犯である。事実を知らないのは彼女だけだ。 「主役がこんなことになっちゃあ、流石に開催できないよなあ。でもマスタード師匠はあのダンデになんて説明したんだろう」 「さあ……ただシショーのことですから、ユウリのことを悪いようには言っていないでしょう。彼女が後々不利になるような説明もしないはずです、絶対に」 スポンジに泡を馴染ませるため、ぎゅっと何度か握りながらセイボリーは低い声でそう返した。門下生は全員分のスープ皿を傍らに積み上げながら「へえ……」と含みのある笑い方でセイボリーの方を見る。 「あの、もし? なにゆえそんな表情を?」 「いや、セイボリーも変わったなあと思ってさ。前はユウリやマスタード師匠に対しても、俺らにだってこう……不信! 不満! 不機嫌! みたいな感じだったのになあ」 「ちょ、ちょっと! いつの話をしているのです!」 道場に来たばかりの頃や、ユウリが初めてヨロイ島に来た頃のことを引き合いに出され、セイボリーの白い頬が羞恥にかっと赤らむ。今だけはユウリのように、あの頃の記憶を何処かに置き捨てて早急に頬を冷ましてしまいたくなった。記憶など、捨てようと思って捨てられるものではないし、忘れることで得られる平穏より失う思い出の方が遥かに多いから、本気でそんなことを願いはしないけれど。 「まあ今のユウリなんて、来たばかりのセイボリーに比べれば大人しくて可愛いもんだよ。もっと手が掛かってもいいくらいだ」 「ええ! ええそうでしょうね! あの頃のワタクシときたらもう!」 半ばヤケになって、スポンジでゴシゴシと擦った皿をシンクに放り込んだ。ガシャン、と思ったより大きな音がしてしまい、割れてはいないだろうかと少し焦る。相変わらず力加減が下手だなあ、と笑いながら、門下生はその皿を取り上げてヒビが入っていないことを確認してくれた。 「そういえば、もうあれはやめたのかい? スポンジから皿から何もかも浮かせて次々に泡立てて洗って、それはもう見事な手際だったじゃないか。もしかしてテレキネシスの勘でも鈍った?」 「そういう訳ではありませんよ。ワタクシのエスパーパワー……超すごい能力はいつでも絶好調です」 ただ、と言葉を詰まらせたセイボリーに、彼は「ん?」と窺うように首を傾げてみせる。シショーと同様に、この先輩門下生もセイボリーの信頼に足る人間だ。故に出会ったばかりの頃の不信や不機嫌などはすっかりなりを潜め、偽りない本音がすらすらと出てくる。 「此処だけの話にしてほしいのですが、今の彼女にはワタクシのエスパーパワーを見られたくないのですよ」 「ええっ、見られたくない? そんな大胆に頭へボールを浮かせておいて?」 「こ、これしきのことなら手品だと思われているかもしれないでしょう! 浮いているところではなく『ワタクシが』『浮かせている』その瞬間を見せたくないのです。その……怖がられるかもしれないことが、怖くて」 怖い、などという、自らの弱さを開示する行為をセイボリーは軽く恥じた。しかしその一方で、彼がセイボリーの開示に足る反応を示してくれることを都合よく想定していた。すなわち「そんなことあるはずないじゃないか」「あの子はセイボリーの水色が大好きだったんだから」「きっと目をキラキラさせて飛び付いてくるに違いないよ」と、セイボリーのそれを杞憂だとして明るく笑い飛ばしてくれることを、期待したのだ。それが、あのユウリに対して一際臆病になってしまった自身への、激励になってくれるはずだと信じて。 「……実はね」 けれどそうした都合の良い期待に反して、先輩門下生の顔は少しだけ曇った。 「俺も、同じように感じることがあるよ。他の皆もそうみたいだ」 「あなたがたも?」 「今のユウリの前で、前と同じ話題を出したり、同じ遊びをしたりすることを避けている。不安なんだ、もし全然違う反応が返ってきたらどうしたらいいんだろうって」 セイボリーのささやかな作戦は失敗に終わった。むしろ自らの怖さを共有したことにより、彼等の中で、ユウリに対する認識……懸念や恐れが揃いのものとして結ばれ、より不安を増長させることにさえなってしまったのだ。 「そりゃあ怖いよなあ、今のユウリに、前のユウリを否定されるのは」 そう、彼等もまた恐れている。彼女との記憶や思い出を、他でもない彼女自身に否定され、全く別のものに塗り替えられてしまうことを、恐れている。 「ただいま!」 子供の門下生がユウリの手を引いて道場へと戻ってくる。テレビのニュースはガラルスタートーナメントの報道を終え、二番道路の空に突如として現れた、珍しいポケモンの群れについて話し始めていた。ピンク色の羽を持つ虫ポケモンの大群を指差して、あれはビビヨンだよ、と門下生の一人が言った。綺麗なポケモンですね、と返しながら、ユウリはテレビの液晶画面を穏やかな目で見つめた。 「カロス地方のポケモンなんだ。でもどうしてあんなに大勢のビビヨンがガラルにいるんだろうね?」 ビビヨンのものと思しき鱗粉が夕日を弾いてパチパチと煌めいている。オレンジ色の空にピンク色の橋が細く長く掛かる。どうしてでしょうね、とユウリは微笑み、画面越しの煌めきを眩しがるように目を細める。 「神様の悪戯で居場所を取り違えられて、帰れなくなっちゃったのかな」 2021.10.5
800歩先で逢いましょう(第一章)