800歩先で逢いましょう(第一章)

3

 ユウリは道場での共同生活に驚く程早く順応した。というのも、ミセスおかみや年上の門下生たちが風呂場や洗濯場や寝室などの説明をして回るまでもなく、彼女は日常生活の大半をすらすらと卒なくこなしてみせたからだ。

「電気のスイッチの位置や寝具の場所、どの歯ブラシとコップが私のものか。そういうことは何となく分かるんです。私ってやっぱり此処で暮らしていたんですね」

 大きな目をキラキラとさせつつ、明るい声音でユウリはそう答えた。此処が自らの居場所であることを心底喜ぶような表情に、セイボリーを含めた道場の皆が安心しきっていたのは言うまでもないことである。

 ただ、そんな彼女が「馴染む」ことを頑として拒んだものがある。それは「ボールを握る」ことだった。
 シショーが「ユウリちんはそれはそれは優秀なポケモントレーナーでね」と話しつつ、昨日、部屋に置き去りにされていたモンスターボールたちを差し出したのだが、彼女はそれを、驚きと恐れの入り混じった目で突き返したのだ。

「分かりません。覚えていないんです。ポケモンなんてそんな、怖くて受け取れません」

 シショーやミセスおかみ、門下生たちの説得にも彼女は耳を貸さなかった。以前のユウリなら弁舌で彼等を言い負かすこともできただろうが、今の彼女は怯えた目で肩を竦ませつつ「受け取れません」「会いたくありません」と幼子のように拙く駄々を捏ねるばかりだ。
 彼女の我が儘だけで済めば、その子供らしさを昨日のように受け入れることもできたのかもしれない。ただ拒まれた相手であるポケモンのことを思うとそうも言っていられなかった。かつてのユウリがどれだけポケモンに愛され、またどれだけポケモンを愛していたかを近くで見てきたセイボリーには、シショーやミセスおかみのように「仕方ないねえ」と笑いつつ優しく許してやることなど、できそうにない。

「ユウリ、あなたの恐怖ももっともですが、一度冷静になっては? 何の前触れもなしに唐突に拒まれたパートナーたちの身にもなってごらんなさい」
「し、知りませんそんなの。パートナーって、貴方がたが勝手にそう言っているだけじゃないですか。今の私はとてもじゃないけれど、彼等のことをパートナーだなんて」
「ならそれをあなたの口から説明するべきです。今のあなたにその自覚がなくとも、あなたは彼等のトレーナーであることを選んだ。その責任は取らなければいけませんよ」

 説教じみた言葉をスルスルと紡ぐ己の口がひどく虚しい。こんなことを懇切丁寧に説明しなければならない状況なんて、どう考えても狂っている。でもそのおかしさを、立場の捻れを、状況の狂いを「面白くなってきたじゃないか」と笑ってくれるはずの彼女は今、恨めしそうな目でセイボリーを弱く睨み上げるばかりだ。

「彼等を一時的に預かり、ワタクシがお世話をすることは簡単にできます。ですがその理由、あなたの身に起こったことについてはあなたから伝えるべきだ」
「……」
「ワタクシたちには、取って代われない役目なんです。お分かりですか」

 恨まれても構わない、と思った。いつか全てを思い出してくれたときに「あの日の君の叱咤はとてもよく染みたよ」と彼女なら笑ってくれるに違いないという、かつての彼女への絶大な信頼だけが、セイボリーを正気に繋ぎ止めていた。だけ、としたものの、事実きっとそれだけでよかったのだ。セイボリーが、多くを忘れた彼女の前で心を折らずにいるための支えなど、それだけで。

「一匹だけ」

 これが精いっぱいだといった調子で、彼女は絞り出すようにそう呟いた。強情な彼女にそこまでの妥協をさせることができたのなら、一先ず十分だろうとセイボリーも納得する。

「私を一番、信頼してくれていたポケモンはどの子ですか?」
「おや、変なことを訊くねえ。このボールに入っている子たちはみんな、ユウリちゃんのことが大好きに決まっているじゃないか」
「じゃあ……私が一番信頼していたポケモンを出してください」

 出してください、と来ましたか。セイボリーはらしくない苦笑をする。あの彼女が自らのポケモンのことを他者にみすみす委ねるなんて、以前では想像だにできなかったことだ。もっとも、今の彼女にはボールの中にいる彼等が「自らのポケモン」であるという自覚さえないようだが。
 では、とセイボリーは小さく咳払いをしてから、迷わずインテレオンの入ったボールを手に取った。彼女の最初のパートナーであり、一度も手持ちから外れたことのない相棒であることはこの場にいる誰もが知っている。彼女の信頼を一身に集めたポケモン、と問われて、選ぶべきは間違いなくこのポケモンだろう。

「……」

 現れたインテレオンは真っ直ぐにユウリのことを見ていた。ボールの外の騒ぎで、ユウリの身に何か異常が起きていることくらいはおおよそ察しているだろうに、自らの心配や寂しさに身を任せたりせず、ただじっと自らのトレーナーを見つめて、彼女の反応を待つばかりなのだ。
 ひょろりと背の高いインテレオンを見上げる形になった彼女は、ぱちぱちと大きく瞬きをしてから、ポケットからスマホロトムを取り出し彼へと向けた。自動で起動したポケモン図鑑が画面にその名前を表示する。二度、三度と小さな口で繰り返し、己の喉に馴染んだと判断してから改めて向き直った。

「インテレオン」

 相棒を呼ぶ落ち着いたその声はかつてのユウリそのものであり、セイボリーはまたしても心臓の捻れる思いをすることになる。だって、ねえ、あなたこんなにもユウリなのに。

「昨日は、ボールから出してあげられなくてごめんなさい。私、今、皆のことを上手く思い出せていなくて、貴方のことも、分からなくて……」
「……」
「今の私じゃ、貴方のトレーナーに不相応かもしれないけれど」

 恐る恐るといった調子で伸ばされた手を前に、インテレオンは膝を折って恭しく握った。ユウリを見上げるような形になった彼は、一瞬何かに驚いたような目の見開き方をしたが……彼女が強張った表情でその手を強く握り返すと、そんな変化などなかったかのように穏やかな目へと戻った。ユウリもその目の変化に満足したように、そっと笑った。

「私が元に戻るまでの間、どうかよろしくね」

 ユウリとインテレオンは……これはセイボリーとヤドランでも未だ成し遂げられていないことなのだが……ポケモンバトルやフィールドワークや、また一緒に食事をしたり遊んだりする場で、言葉を抜きにしたコミュニケーションを、ごく自然な調子でやってのけることがあった。それは視線であったり息遣いであったり、インテレオンの指先から放たれる水であったり、ユウリが手を叩く音であったりと様々だったが、とにかくあらゆるものを媒体として、彼女と彼は時折、非言語の意思疎通をこなしてみせた。彼女が何も指示していないのにインテレオンが絶妙なタイミングで技の構えを取り、相手を圧倒していく光景は、チャンピオンバトルの「名物」と言ってもいい程に有名であった。
 エスパーパワーでは説明のつかないそのやり取りを可能にするもの、ユウリとインテレオンの間にだけ見られるその不可思議な奇跡を、セイボリーは密かに「絆」と呼び、称えていた。もっとも、今の彼女にそう話して聞かせたところで、またあの怯えた目に戻り「そんなはずありません」と一つ覚えのように繰り返すだけだと分かっているから、口には出さないけれど。

「これでいいでしょうか、セイボリーさん」

 今の二者の間にも、似た奇跡が見えたような気がした。彼等の絆は絶たれていない。その事実を心から喜びたかったのに、ある種の嫉妬心が邪魔をして上手くいかない。

「ええ……ええ十分です。よく頑張りましたねユウリ」

 恐々と手を伸ばして、ニットベレーの上からその頭を撫でてみる。安心したように、許されたことを喜ぶように柔らかく笑う彼女との間に、自分もどうにかして、インテレオンのような奇跡を起こせないものだろうか。

2021.10.4

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