800歩先で逢いましょう(第一章)

17

「最後にひとつ、訊いてもよろしいですか」
「ふふ、どうぞ?」

 頬を冷まし終えた彼女は凛とした表情に戻ってうすく笑う。その姿勢はこちらの言葉を待つ健気なものでこそあるものの、その実、これから自分が何を尋ねられるのかを既に分かっている余裕ぶった態度にも感じられる。いや、きっとそうなのだろう。彼女もまたユウリなのだから。

「あなたの前で幾度か披露したワタクシの拙い推理ですが、これはワタクシの知るユウリから学んだものです。理知的で聡明な彼女は自らのことを『探偵かぶれ』と称し、いつも力強い、中性的な、ワタクシにとってはとても心地の良い言葉で話していました」
「……だから?」
「あなたも普段、元の世界では、そのように話していたのではないですか?」

 そんな推理に、彼女は目を見開くのではなく目を細めることで応えた。肩を竦めつつ、くいと首を曲げて、片方の眉だけくいと器用に上げて。ああよく知る表情だとセイボリーが感じ入るのと、彼女の声のトーンがぐっと落ちるのとが同時だった。

「お見事だよセイボリー。ユウリじゃなくて君が探偵を名乗ってはどうかな」
「フッ、あっはは! 恐れ多いことを言ってくださる」
「この鎧さえ脱ぎ捨てて、一からこの世界で生き直してもいいかと思ったこともあったけれど、やっぱり長年の愛着には代え難い。手放すには惜しすぎたね」
「ええ。……ええ、捨てなくていい。その方がずっとあなたらしいですよ、ユウリ」

 見抜かれたことを喜ぶように少女らしく笑った彼女は「でも実はちょっと違うんだよ」と付け足して指を一本、セイボリーの方へと指し伸ばしてきた。何かにつけて「一指し」するのはこちらではセイボリーの専売特許であったため、そのような所作をユウリが為す光景は物珍しく、面白い。

「私はユウリと違って、探偵よりも『刑事』が好きでね? 謎を暴くことよりも事件を追いかけたり犯人を捕らえたりするために走り回るのが性に合っているんだ」
「刑事ですって? それはまた……探偵よりも更に忙しなさそうな鎧だ」
「そうだね、特にクララとの刑事ごっこは最高に楽しかったよ。彼女は……小狡い詐欺師みたいな振る舞いが目立つけれど、その実、怪盗みたいな人なんだ。煌びやかなステージで人の心を盗り漁るスターになることを、ずっと夢見ているんだよ」

 素敵なことだろう、と付け足して目を更に細める彼女の心は、もう既にその女性に「盗られてしまっている」ようにも思える。盗られた心を引っ提げて、彼女はかの人を捕らえんと必死なのだ。随分と愉快な関係だと思った。実に楽しそうだとも思った。このユウリに追われるかの人はきっと向こうの世界でも一番の幸せ者だろう、とも。

「でも残念ながら盗るのは彼女じゃない、私の方だ。私が、私こそが彼女を捕らえるんだ。憎らしい大怪盗との『とり合い』を、これからも思う存分楽しみ尽くしてみせるよ」
「ええ、是非そうしてください。あなた方が今後もずっと共に在るという確信は、ワタクシにとっても至極喜ばしいものです。どうか一緒に楽しく、生き抜いてください」

 これからも二人、探偵と怪盗ごっこに興じていて。罵り合いながら、じゃれ合いながら、とにかく楽しくずっとそうしていて。かの人があなたにいてくださるのなら、これからもずっとそうであるのなら、きっとあなたが逃げ出したいと思った世界だって、もっと素晴らしいところになっていくはずだから。
 かの人はそのために、あなたの世界を勝ち取り生まれてきたはずなのだから。

「さようならユウリ。二度と会わない人。『ワタクシたち』の、かけがえのない人」
「ふふ、そうだねさようなら、きっともう二度とは会えない人。『私』の、最愛の人!」

 セイボリーとインテレオン、それぞれに笑い掛けてから彼女は踵を返した。鞄も持たず、ポケモンも連れず、持ち物といえばきっと、そのポケットに入った甘い香りのするピンク色のハンカチだけ。そうした頼りない有様ではあったけれど、その長い髪を揺らしつつ遠ざかる背中は運命に愛され過ぎた者としての風格をこれ以上ないほど上品に示していて、セイボリーは思わず、見惚れてしまったのだった。

『思い出深い香りが、記憶を呼び起こすきっかけになることがあるみたいです。プルースト現象っていうんですよ』
 ハンカチを両手で包み、幸せそうに笑っていた彼女を思い出す。
 あれは香水だったのだろうか、それともバニラエッセンスだったのだろうか。お菓子作りを得意とするらしいかの人が焼いたクッキーの匂いだったのか、それともそんなかの人をいつもいつでも思い出せるようにとユウリ自身が用意した香りだったのか……。
 彼女の姿が小道の曲がり角に消え、足音だけになった頃にふとそんな疑問が浮かんだ。もう少し、互いの大事な人について語り合う時間が欲しかったかもしれない。そんな僅かな後悔が彼の胸をくすぐったけれど、解けない謎があるのもまた事件の醍醐味だろうといつものユウリが彼の脳内で笑ったので、そのささやかな後悔ごと、この二週間の思い出として留め置くことにした。

「……」

 セイボリーとインテレオンは長くその場に立ち尽くしていた。目を閉じて耳を澄ませ、徐々に小さくなる足音を聞き取りながら、その音が完全に聞こえなくなるまでそうしていた。風の音だけになってからもしばらく動けなかった。ユウリとの別離を惜しむ気持ちがそうさせたのは勿論のことだが、彼等の待ち望んだ「ユウリ」が、今度こそ、取り違えられた場所から戻ってくるのではないか、と期待したが故の待機でもあった。
 もしかしたらもうすぐ、同じ場所から同じ足音が聞こえるかもしれない。姿だけは先程のユウリに瓜二つの彼女がいつもの笑顔で現れて「やあ、ただいま」と少し乱れた髪を手櫛で梳きながら照れたように笑ってくれる様が見られるかもしれない。
 しかし二分、三分と待っても、夕暮れ時の集中の森には風の音しか聞こえてこなかった。さて道場の皆に何と説明したものだろうと思いつつ、インテレオンに「戻りましょうか」と声を掛けようとした、その時だった。

「きゃああ!」

 森の中から聞こえてきたのは、いつものユウリとも、先程までのユウリのものとも異なる、もっと甲高い女の子の悲鳴だった。パタパタと駆けて来る足音もユウリのものよりずっと軽い。曲がり角から現れた背丈だって、ほら、あんなにも。

「わ、わわわー! そ、そこのお兄さん! 助けてくださーい!」
「ぎょええ!? ちょっ、え、何事です!?」

 バッフロンの「とっしん」もかくやという勢いでセイボリーに飛び付き、ドカンと勢いよくのしかかってきたのは、栗色のサイドテールを尻尾のようにぴょんぴょんと揺らす、ユウリよりも更に小柄な女の子だった。ガツンと硬いものが派手な音を立ててセイボリーの眼鏡にぶつかり、レンズがひとつ、ひび割れてぽろんと外れた。

「もう、此処のポケモンたち怖すぎです! 目が合う度に葉っぱや水を飛ばしてくるんですよ。絆創膏が幾つあっても足りません!」

 右目のレンズが外れた状態のぼんやりとした視界で、それでもセイボリーは何とかその少女の姿を詳しく認める。子供らしい半袖に半ズボン、カラフルなボーダータイツ、明るいオレンジ色のサンバイザー。ユウリよりも更に丸い目の中には淡く眩しい琥珀色の瞳が埋め込まれている。首元に下げられているのはカメラだろうか、これがセイボリーの眼鏡を直撃しレンズを破壊していったらしい。

『誰かによる誰かへの愛の分だけ、世界は分かたれるように出来ている』

 ユウリの言葉が脳裏に木霊する。世界はセイボリーとかの人のためだけにある訳ではないのだと断言した彼女の、あの推理。ただの可能性に過ぎなかったはずの言葉。その正しさがたった今、証明されようとしている。ああユウリ、やっぱりあなただってほら、尋常じゃなかった!

「……つかぬことを、お伺いしますが」

 とんでもない日々が新しく訪れる予感がする。解決するのではと期待していた事件が、再び迷宮入りの気配を見せている。

「あなた、これより前にも別の世界で迷子になっていませんでしたか?」
「えっ、すごいすごい! どうして分かったんですか! ……はっ、お兄さんさては名探偵ですね!? かっこいい名探偵はシルクハットにモノクルを付けているものだって、トオル兄さんが言ってました!」

 まったくもって不気味で不可思議な事件である。ひどく恐ろしい現象である。しかしまたこれは、冒険と神秘に愛された彼女たちにひどく相応しいトラブルであるようにも思えてしまう。
 惜しいことに、「面白くなってきたじゃないか」と笑ってくれるはずの彼女は相変わらず此処にはいない。ならば代わりにセイボリーが笑ってみせよう。

「あれあれ? でもお兄さんのモノクル、輪っかが一つ多いですね。眼鏡みたい!」
「眼鏡だったんですよ! あなたがそのカメラを当てて左側のレンズを割るまでは!」

 ねえちょっとユウリユウリ! あなたどこで道草を食っているんです。早く戻ってきなさいな。皆があなたを、あなたをこそ待っているのですから。

2021.10.18

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