800歩先で逢いましょう(第一章)

12

 夜の清涼湿原には星が満ちている。水辺に映り込んだ空の輝きは、風が吹く度にゆらゆらと小さく弾むのだ。そしてその隣にある別の小さな星たちは、夜風を喜ぶようにふわふわと戯れている。夏の朝顔は枯れてしまったが、彼女のお気に入りであったこの黄色い花はあの頃のままだ。

『そうだよ、好きになったんだ。君と一緒にいると、花がとても、とても綺麗なんだ』
 人を好きになると世界の彩度がぐっと上がるのだとセイボリーに教えたのは他ならぬユウリだった。彼女は「君と一緒にいると」としたけれど、セイボリーの目に映る世界の彩度は、彼女が傍にいない今も下がっていない。彼女が掛けた魔法は彼の中に生き続けている。名前も分からない清涼湿原の星たちは、今日もとても、とても綺麗だ。

「セイボリーさん、此処にいたんですか」
「おや……どうしたのです。何か急用でも?」
「ミツバさんに呼んでくるよう言われたんです。お風呂、セイボリーさんで最後ですよ」

 声を掛けられるまで、セイボリーは彼女が近付いてきていることに気付けなかった。それだけ湿地へ降る星に夢中になっていたというのもあるが、そもそも彼女が静かに歩いてきたからという方が要因としては大きいだろう。
 靴を濡らさぬよう水辺に足を踏み入れないその選択は賢く正しい。ただユウリらしくはない。ユウリは靴や靴下が濡れるのも厭わず、湿地に足を差し入れてバシャバシャと派手な水音を立てながら歩み寄ってくる人だった。彼女はわざと水辺を歩いていた。そうしていれば、お気に入りの黄色い花を踏む心配がないからである。

「私なら貴方の行き先を知っているだろうって、ミツバさんに言われてしまって」
「ふふん、奇遇ですね。同じことをあの日、ワタクシも道場の皆さんに言われましたよ」
「あははっ! もしかして以前から私たち、お互いを探すのはお互いの役目でした?」

 嬉しそうに笑う彼女とセイボリーの間には小さな水辺がある。ポケモンや風の悪戯か、自然に散ったものかは分からないが、いくつかの花弁が千切れて浮かんでいた。
 ふいに冷たい風が吹く。遠くから散ってきたと思しき花弁が更に加わり、水辺を黄色く彩る。今日の秋風は花占いをしたい気分であるらしい。

「夜遅くのお迎え、ありがとうございます。ただ折角ですので、少しいいものを見ていきませんか? ワタクシたち、以前は此処でよく『遊んだ』のですよ」
「遊んだ?」
「ええ、見ていてください。どうか目を逸らさないで」

 大きな目を無邪気に見開いて首を傾げる彼女と自身の間に揺蕩う黄色い花たち。セイボリーはそれに指先を向けた。徐にそうすればいつだってユウリが喜んでくれたから、神様みたいな力だと信仰めいた風に笑うから、おそろしい程の崇敬と愛情を宿した瞳でこちらを見てくれるから、それが何よりも嬉しく何よりも誇らしかったから……だから、彼がユウリの前でその「一指し」を躊躇ったことは一度もなかった。
 にもかかわらず今、彼女の前で水色を示すことがこんなにも怖い。胸に手を当ててもいないのに、心臓の拍動が激しくなっているのが分かる。予めインテレオンに受けた激励がなければ泣いていたかもしれない、などという若干の愉快な想定をすることで自らを何とか勢い付かせ、セイボリーは花を、指した。

「!」

 湿地の水がぐにゃりと歪んで形を変え、小さな噴水のように立ち上がる。夜空を仰ぐ水の先が水色の光を纏って淡く輝いている。その中を泳ぐように舞う黄色の花弁は、くるくると指を回すことで一か所に集まり、水を離れて夜空へと浮かび上がる。すっと指を下ろせば、黄色い星はキラキラと瞬きながら二人の上へと降り注いできた。
 そういえば、花のダンスを見せたことはあっても、花の雨を降らせたことはなかったなとセイボリーは思い出す。ああ、早くあなたにも見てもらいたい。きっと喜んでくれる。大はしゃぎしてくれる。大袈裟な言葉で褒め称えてくれる。落ちこぼれのテレキネシスに過ぎないこの力も、あなたの信仰めいた愛があれば神の力にさえなってくれる。

 バシャン、と派手な水音がした。視線を下ろさずとも分かる、彼女が湿地に尻もちを付いた音だ。彼女の頭上に降らせる予定だった花弁は、しかし地面の上に寂しく佇むばかりだった。理由は明白で、彼女が「思わず後退った」からに他ならない。その結果、更に後ろにあった別の湿地へと足を取られ、ひっくり返ってしまったのだろう。

「……」

 分かっている。彼女を後退らせたのは自分だ。湿地へと転ばせるきっかけを作ったのも自分だ。声さえ出せない程の驚愕を与えたのも自分だ。暗がりでも分かる程に顔が強張り青白くなっているのも、それでも目だけは決して逸らさずこちらを見続けているのも、全部、全部、セイボリーが為した「一指し」のせいだ。
 そこまで理解した上で、質の悪いセイボリーは更に指を動かす。人差し指を真っ直ぐに彼女へと向ければ、あの日を思い出させるような悲鳴が夜の空気をつんざいた。

「やめて! やめてください! 何もしないで!」

 その直後、彼女は今の言葉が彼に致命的な確信を与えてしまったことに気付いたのだろう、縋るようにセイボリーを見上げて首を振る。ごめんなさい、と口が動いているのが分かる。許して、と涙を溜めた目が訴えているようにも見える。指を畳み、右手をそっと下ろしながら、おかしな話だとセイボリーは思う。謝るべきも、許しを請うべきも、全て「共犯者」から先んじて下りてしまった自分の方だというのに。

「元に戻りたいと口にしながらも、今はまだと訴えるあなたにとって、現状の平穏がどれ程大事なものであるかは理解しているつもりです」
「セイボリーさん」
「あなたの可愛らしい我が儘に、本当はもっと長く寄り添うべきだったのかもしれません。だから、責められるべきはきっとワタクシの方。あなたは何も悪くないのですよ」
「お願い……言わないでください、やめて」

 それでも、これが自身の責務であると信じているから、セイボリーはもう躊躇わない。あのインテレオンにさえできなかったこと、誰よりも長くユウリを支え続けた彼に託されたことを今、言葉を操る者として実行する時が来たのだ。
 この共犯の罪は遅かれ早かれきっと、悲しい真実と共に白日の下に晒されていた。ならば彼に貰った勇気が褪せないうちに謎を解いてしまおう。


「あなたやっぱり、ユウリじゃなかった」


 これまで幾つも抱いてきた違和感。かつてのユウリが「夢」を見て泣いていたあの記憶。異常発生したビビヨンを指して「居場所を取り違えられた」とした彼女の言葉。水色のハンカチが存在しないという決定的な証拠。そのどれにも勝る確信を、セイボリーはこの「たった一指し」で得てしまった。
 最早疑うべくもない。だってあなたが本当に「ユウリ」なら、たとえ記憶がなかったとしても、ワタクシのテレキネシスにそのような怯えを見せるはずがないのだから。
 もう覆らない。もう騙された振りなどできやしない。言葉にしてしまった今、そしてとうとう泣き出してしまった目の前の彼女が否定してくれない今、彼の推理は肯定され、謎は呆気なく解かれ、紛うことなきこの世界の「真実」になったのだ。

「あなたは記憶を失ってなんかいない。あなたは自らの冒険のこともインテレオンのことも、シショーやミセスおかみや皆のことも、道場での暮らしも、全部覚えている」
「ごめんなさい……」
「でも、ワタクシのことだけは本当に知らないのですね」

 湿地に足を踏み入れて真っ直ぐ彼女の元へと向かう。黄色い花弁を踏まないように歩幅を大きくして歩み寄り、未だ水の中にくずおれた彼女に手を差し伸べる。けれども嗚咽の合間にふいと俯かれ、拒絶されてしまったので、彼は苦く笑いながら隣に腰を下ろし、共に秋の水に濡れることを選んだ。

「あなたには『記憶喪失のフリをしなければならなかった』理由があったのだと思います。ただ、初対面であるワタクシのためだけに何も覚えていないフリをしたとは考えにくいし、あなたがピンク色のハンカチを大切に持っていた理由の説明が付かない」
「……」
「これは推測でしかありませんが、あなたも……『あなたにとっての大切な人がいない夢』を見たことがあるのではないですか? ワタクシがいない世界の可能性を恐れて泣いていた、あの子のように」

 果たして彼女は俯いたまま、首を何度も縦に振った。彼女は「ユウリ」ではないため、あの日のようにセイボリーへと抱き締めてくるようなことはしなかったが、もし此処にいるのが「セイボリー」ではない誰かであったなら、きっと。

「ならば次の推測は簡単にできます。あなたは……凡人であるワタクシには及びも付かない何かの力で、帰るべき場所を『取り換えられてしまった』のではないでしょうか」

 彼女を愛した数奇な運命たちが今回、どのような「悪戯」を施したのかについては、セイボリーの与り知れるところではない。ただ、ユウリが「君のいない夢」を恐れたように、そうした運命を何度も乗り越えてきた人にとっては、今回の件も、そんな馬鹿なと一笑に伏せるようなものではなく、本気で警戒するべき事故の一つだった、ということなのだろう。起こり得るかもしれないことが起こった、それだけのことだったのだ。

「あなたが取り違えられたのは、何もかもがそっくりでありながら、ワタクシという異分子が存在する世界でした。もしかしたらあなたがいた世界には、ワタクシの代わりに別の誰かがいたのかもしれませんね」

 きっとその誰かこそが、ピンク色のハンカチに宿る「大事な思い出」を知る人なのだろう。セイボリーがそこに介入できないのも無理からぬことだった。思い出が生成された世界からしてそもそも違ったのだから。あのハンカチに宿っていたのは、こちらの世界しか知らないセイボリーには天地がひっくり返っても触れることの叶わない、彼女とその相手だけの神聖な記憶なのだろうから。

「これらを踏まえて、あなたに聞きたいことがあります」

 一呼吸置いてから彼は口を開く。できるだけ優しい声になるようにと努めるように喉を押さえながら、責めるような口調にならないようにと戒めるように息を潜めながら。

「ワタクシを知るあのユウリは、一体何処にいるのですか?」

 けれど。

「そんなこと!」
「!」
「そんなこと、私だって知りたい……!」

 勢いよく顔を上げた彼女は、濡れた頬を月明かりに薄く光らせつつ震える声で叫んだ。大粒の涙が彼女の少し尖った顎に溜まり、ぽたぽたと落ちて水辺を小さく揺らした。

「私、そんなに多くを望んだつもりじゃなかった。なのにどうしてここまでされなきゃいけないんですか。逃げ出したいと少しでも思うのはそんなに悪いこと? 帰る場所と大事な人を世界ごと取り上げられなければならない程に?」
「ユウリ」
「分からない。どうしてですか? どうして何もかも同じで何もかも少しずつ違うんですか? どうして貴方のことだけ知らないんですか? どうして一番いてほしい人だけがいないんですか、どうして……」

 共犯の舞台から降りても尚、二人は悲しい程に同じだった。喉を裂くようにして叫ばれた痛々しい程の告解に、セイボリーはただ黙して同意することしかできなかった。

「どうしてクララがいないの」

 互いの一番大事な人だけが、此処にいない。

2021.10.13

< Prev Next >

© 2024 雨袱紗