800歩先で逢いましょう(第一章)

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 毎朝、ユウリとインテレオンは食事の後、ミセスおかみと一緒に洗濯物を干すため外へ出る。本日、一礼平原の天気は日照り。大きなシーツを干してもほんの一時間で乾いてしまいそうな、秋にはいっそ不釣り合いな程にギラギラとした快晴だった。
 意図的に時間を潰す必要もなさそうだと判断し、セイボリーはヤドランと、それからユウリが受け取ることを拒んだかつての彼女の手持ちポケモンたちを引き連れて、日課のトレーニングのため、外に出る。暑さから逃れるために清涼湿原へと足を運べば日差しの強さは幾らか和らぎ、秋らしい陽気がセイボリーたちを出迎えた。湿地の上を滑る風が、彼の長く伸びた金色をからかうように吹き遊んでいく。首筋を撫でる涼しさが心地良い。

「さあ皆さん、出ていらっしゃいな!」

 ポケモンの入ったボールを一気に投げれば、彼等は元気よく飛び出して我先にと水辺で遊び始める。やんちゃなポケモンたちの統率および世話はもう慣れたものだ。そう、セイボリーにとっては慣れたこと。この半年間で生活の一部と化した、罰という名前をした優しい猶予期間のおかげだ。
 けれどもユウリのポケモンたちはきっとまだ、ユウリ以外の相手にこうして世話をされることには慣れていないはずだ。後ろめたさや寂しさだって拭いきれてはいないだろう。そう推察し、どのように言葉を掛けていいか少し迷ってしまう。
 きっと、この子たちも彼女の元へ戻りたいに違いないのだ。けれども彼女を怖がらせたくないという気遣いと、繰り返し拒まれたくないという不安が、今も彼等をボールの中へ押し留めたままなのだろう。

「ねえ、あなた方もインテレオンのことを羨ましいと思ったりします?」

 唯一、彼女が信頼を置くことを選んだポケモンの名前を出してそう語り掛ける。ウーラオスはふるふると首を振ってから、意地を張るような顔つきでそっぽを向いた。知ったことかという表情だが、その凛とした三白眼にはインテレオンへの信頼と羨望が同程度の割合で溶けていて、セイボリーは思わず笑ってしまう。

「ワタクシも同じですよ。言葉がなくとも……いえ言葉がないからなのかもしれませんが、彼女の選択を静かに肯定し、ずっと傍で見守り続けることのできるあの紳士のこと、妬んでしまいそうになる程に尊敬しています」

 そんな会話の中でセイボリーは、彼等が未だ変わらずユウリを愛していること、本当ならば今すぐにでも駆け寄りたいと思っていること、そうした気持ちを汲み取っていく。穏やかな交流の中、食事を与え、メンテナンスを終え、湿地を走るトレーニングをこなして一息つけば、もう道場を出て二時間が軽く過ぎようとしていた。

「これはいけない、早く戻らなければ。ほら皆さん急いで! 今日はワタクシ、しなければならないことがあるのです」

 水の掛け合いをしていたヤドキングとフーディンを慌てて呼び寄せ、全員をボールに入れてから日差しの強い一礼平原へと戻れば、丁度ミセスおかみとユウリが道場から洗濯物を取り込むため、道場から出てくるところに都合よく鉢合わせることができた。

「ユウリ、申し訳ありませんがタオルを一枚頂けませんか」
「あ、勿論です、どうぞ! 干したばかりだからきっと陽のいい香りがしますよ」

 すっかり乾いたと思しきそれをユウリは手元に取り込み、こちらへと差し出してくれる。それを見て、ミセスおかみはおやおやと笑った。

「こらこらユウリちゃん、馬鹿正直にタオルだけ渡しちゃ駄目よ! 折角男手が来てくれたんだから、沢山手伝ってもらわなくちゃ」
「ええっ!? ミセスおかみ、そんな……ワタクシたった今、朝の修行から戻ってきたばかりなのですよ!」
「あたし達だって道場の掃除を終えたばかりさ。ほらほら、そっちのシーツから順番に頼んだよ!」

 上手く言いくるめられた「てい」を装い、セイボリーは苦笑しながら洗濯物を取り込んでカゴに仕舞っていく。大きなシーツは長身のセイボリーであれば特に苦も無く畳めるが、小柄なユウリではそうもいかないらしく、物干し竿から引きずり下ろしたところで二つ折りにできず苦戦していた。おやおやと笑いながら手を貸して、二人でシーツを一度大きく広げた。視界一杯に広がる眩しい白が目蓋に、ユウリの「わっ!」という嬉しそうな声が鼓膜に焼き付いていく。痛々しい程に鮮烈で、当分、忘れられそうにない。

「ありがとうございます、セイボリーさん!」

 シーツの向こうから顔を覗かせて笑う彼女に先日の憂いや怯えは欠片も見当たらない。どういたしましてと笑い返すセイボリーもまた、心からこの一瞬を楽しんでいる。二人の間に生じた昨日の気付きは、特に示し合わせた訳でもないのに笑顔の裏へと秘匿されたまま。共犯者同士、こうして互いに息を合わせるのがどうしようもなく得意なのだ。

「……」

 もし彼女が「それ」を望むのなら、共犯者であり続けることなどセイボリーには造作もなくできる。今の彼女を愛し直すことも、彼女との思い出をこれから積み重ねていくことも、かつて以上に彼女と仲良くなることだって、時間を掛ければきっとできる。
 ジムリーダーに就任したとはいっても、ジムチャレンジの時期以外はただのポケモントレーナーに過ぎない。マイナーリーグのジムリーダーにまで声が掛かったあのガラルスタートーナメントが異例だったのだ。今のセイボリーには時間がある。彼女が何処かに落としてきた半年分くらい、あっという間に取り戻せる。

 そうしてやれないだろうか。その方が彼女にとっては幸せなのではないか。
 だがそのためには、セイボリーがある一つの喪失を、それもユウリという人間における致命的な喪失を受け入れなければならない。
 セイボリーにはそれが、それだけがどうしても耐えられそうにない。

 白波の合間を泳ぐようにして二人、声を掛け合いながら、笑い合いながら、次々にシーツを畳んでいく。あとは門下生たちの黄色い道着を取り込むのみとなったところで、彼は物干し竿からそっと離れ、バスタオルやハンカチの類が入ったカゴを取り上げた。

「ミセスおかみ、ワタクシは先にこちらを仕舞ってきますね」
「おやありがとう、それじゃあ頼んだよ!」

 ミセスおかみとユウリは特に不審がることもなく、カゴを持って道場へと向かうセイボリーを送り出した。二人の視線が外れたことを確認してから、セイボリーは歩幅を大きくして道場へと駆け入る。長く眩しい日差しの下にいたせいで、屋内は洞窟のような暗さに感じられた。道場の奥、門下生たちの部屋がある方向へと歩を進め、此処で暮らす全員分のタオルやハンカチの類が仕舞われているタンスへと辿り着いて。

「それっ!」

 人差し指でタンスの引き出しを指差して、中のタオルやハンカチをふわりと浮かせ、部屋いっぱいに思いっきり、ばら撒いた。

「……さて、証拠探しの時間ですね」

 誰もいない部屋の中、ばら撒いたばかりのそれをセイボリーは一枚ずつ拾い始めた。洗濯を繰り返してゴワゴワになってしまったバスタオル、ピカチュウの刺繍が施されたタオルハンカチ、シショーのものと思しき手ぬぐい、ミセスおかみのものと思しきレースの花柄ハンカチ。手を拭くには適していなさそうなシルク製のポケットチーフや、無くしたと思っていた替えのジャボまで見つかり、思わず笑ってしまう。
 自らがばら撒いたタンスの中身を自ら回収していくという、実に奇怪で不毛な作業。彼は時間を掛けてそれを丁寧にこなした。全てのタオル類、ハンカチ類を畳み、以前よりも綺麗な状態でタンスに仕舞い終えて……セイボリーはそうしてようやく、たった一つの決定的な証拠を得る。

「ハンカチは見つかりませんでしたよ、ワタクシの推理通りでした。もっとも……当たってほしくない推理ではありましたが」

 いつからそこにいたのだろう、僅かに開いたドアの隙間を染める青い体へと、彼は最初から気付いていたとでも言わんばかりの穏やかな笑顔で語り掛ける。ドアが大きく開き、インテレオンがシーツの束を抱えて入ってきた。彼が何を思っているのか、セイボリーには分からない。ユウリなら分かったのだろうが、今そのユウリは此処にいない。

 セイボリーが見つけたのは「見つからなかった」という証拠である。「常に彼女と共にあった水色のハンカチが何処にもない」という決定的な証拠を、セイボリーはこの奇行によりようやく手に入れたのだ。
 心変わりによりあの水色が仕舞い込まれた訳ではなかった。今のユウリも携帯してはいなかった。であるならばもう答えは一つしかない。水色のハンカチは「消えた」のだ。それも、その水色を誰よりも愛してくれていた人と共に。

「あなたは、誰よりも先に気付いていましたね」
「……」
「秘密をずっと独りで抱え置くのは辛かったでしょう。あなただけに背負わせてしまって、本当に申し訳ないと思っています」

 沈黙を貫いていたインテレオンの表情が、その時初めて僅かに変わった。黄色い目蓋を深く下ろし、首を振り、浅く俯いてクルと微かな音で鳴く。紳士然としてきたこのポケモンの、弱音を吐くような仕草を、セイボリーはこのとき初めて見た。

「言質と証拠は揃いました。ですがそれだけでは謎解きはできない。言葉であの子を暴くことは、無言のうちに全てを許し合うことよりもずっと難しく、おそろしい」

 そう、おそろしい。共犯者としてこの平穏を彼女の望むままに貫き通すことも、全てを暴いて彼女を問い詰めることも、おそろしい。加えてもし、セイボリーが探偵よろしく謎解きを行い、彼女に宿る違和感の本当の意味に言及してしまったなら。そしてそれが、他ならぬあのユウリ自身に認められてしまったなら。……その時、セイボリーは二重の恐怖と戦わなければいけなくなる。
 彼の愛した唯一無二の人は此処にはおらず、その人さえも二度とは戻ってこないかもしれないという、世界が終わる絶望でさえ敵わない程の、甚大な恐怖と。

「ああ、でもあなたは、そうした恐怖とさえも常に独りで戦ってきたのでしたね」

 その言葉を受けて、インテレオンは目を開き、顔を上げる。その視線はいつもと変わらない完璧な紳士のそれに戻っていて、あなたには敵わないなとセイボリーは改めて彼への尊敬の念を抱き直す。

「ワタクシに勇気をくれませんか」
「……」
「傷を負う心構えなら出来ています。その傷に耐え抜くだけの勇気を……少しでいい、分けてください。それがあればきっとワタクシにも謎解きができる、あの子のように」

 彼へと真っ直ぐに歩み寄ってきたインテレオンは、黒い手をそっと差し出してくる。握手だろうかと思いつつ、手袋を嵌めた手でそれを取れば、物凄い力で握り返されてしまった。特殊技を得意とする水ポケモンにはおおよそ相応しくない怪力である。握り潰さんとしているかのようでさえある。痛い痛いと喚きながら許しを請うように見上げれば、少し楽しそうに目を細めてにいと笑う彼が、いた。

 しっかりしないか。言葉を操る者としての責務を果たしてみせろ。
 そうした激励を彼の笑顔に感じ取り、セイボリーは声を上げて笑った。実に頼もしいことだ、十分すぎる程の勇気を受け取ってしまった。

「ありがとう、最高のエールです」

 さあ覚悟を決めなさいセイボリー、もうテレポートは許されませんよ。

2021.10.12

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